2008/09/13(土)「靖国 YASUKUNI」

 喧噪と怒号が飛び交う8月15日の靖国神社の様子がめっぽう面白い。「中国に帰れ、中国に。とんでもない野郎だ。中国に帰れ、中国に。中国に帰れ、中国に。中国に帰れ、中国に。とんでもない野郎だ」。靖国参拝式典を妨害した2人の中国人に対して、男が何度も何度も繰り返す。それしか言葉を知らないのかと思えるぐらい延々と続く。そして中国人は殴られ、血を流す。あるいは「小泉首相を支持します」という紙と星条旗を持ったアメリカ人に対して、「なんだ毛唐か」「広島を忘れねえぞ」と罵詈雑言を投げつける。軍服を着て参拝する人たち、「天皇陛下バンザイ」と叫ぶ人たち。ラッパを吹き鳴らす人たち。

 その一方で合祀されている兵士の名前を取り消すよう求める遺族や台湾の人たちの様子が描かれる。「母は、息子2人は天皇に殺されたと言い続けて死にました」。遺族の一人が言う。靖国神社は軍国ニッポンの縮図であり、象徴だなとあらためて思わずにはいられない。

 石原慎太郎や小泉純一郎や右翼と思える人たちの言動が僕には気持ち悪くて仕方がなかった。同時に時代錯誤的なその振る舞いがおかしくて仕方がなかった。どうにもこうにも救いようのない人たちの姿である。

 南京大虐殺はなかったという署名を集める人たちの様子も描かれる。百人斬り競争の記事は毎日新聞の捏造だという主張に驚かざるを得ない。鈴木明「南京大虐殺のまぼろし」(1973年)を未だに参考にしているのだろう。百人斬り競争の記事は明らかに国威発揚を狙ったものであり、軍部の意向に沿った以上のものではない(だから、本多勝一「中国の旅」の中で日本軍の残虐行為を示す一例として書かれていることにも僕は疑問を持つ)。BC級戦犯として処刑された2人の将校が実際に百人斬り競争をやったかどうかは分からないが、これを否定すれば南京大虐殺全体の否定につながるという短絡的な考え方が根本的におかしいことに気付いていないのか、この人たち。

 そうした喧噪と怒号と同時に映画は靖国刀を作り続ける刀鍛冶の姿を静かに描く。この部分があまり深くないのが映画の弱さだが、李纓(リ・イン)監督が日本刀に日本軍の残虐行為を重ね合わせていることは明らかだ。ラスト、戦争中のニュースフィルムが流れ、その中で斬首される中国人たちの写真が何枚も映し出される。切り取った首を誇らしげに手に持つ日本兵。目隠しで座らされ、今にも斬首されそうな中国人。

 「靖国神社のご神体は刀であり、昭和8年から敗戦までの12年間、 靖国神社の境内において8100振りの日本刀が作られていた」のだという。刀は戦場に送られたものもあるそうで、将校が中国人斬首に使ったものもあったかもしれない。ニュースフィルムの中には軍服を着た昭和天皇の姿も映し出される。旧日本軍は天皇の軍隊だったのだから、当たり前の姿ではあるが、昭和天皇のこういう姿も久しぶりに見た。

 ニュースフィルムが日本軍の残虐行為を映した後で原爆投下のシーンを入れる構成は東南アジアの映画では普通のことらしい。もちろん、悪はこうして成敗されましたというニュアンスである。だからといってこの映画は反日でも反戦でもないが、靖国神社の位置と意味を明確に見せる映画であることは間違いない。

2008/09/07(日)デトロイト・メタル・シティ

 おしゃれなポップス歌手を夢見た青年が悪魔系デスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ(DMC)」のボーカルをさせられるという設定だけを借りて、原作とは違う話になっているらしい。原作がまだ終わっていないためもあるが、漫画の脚色としてこれはうまいと思う。最初の方に出てくる「ノー・ミュージック、ノー・ドリーム」というテーマをきっちりと描いている。芯がしっかりしているのでまとまりも良くなるのだ。主人公が思いを寄せる女(加藤ローサ)に正体を知られないようにあたふたする姿を見て、これ、「スーパーマン」のバリエーションだなと思った。

 出演者の中で良かったのは「フラガール」に続いて松雪泰子で、たばこの火を舌に押しつけてジュッと消し、「あたしゃ、そんなんじゃ濡れねえんだよ」と言うこの女社長の弾け方はおかしいおかしい。しかも色っぽい。映画としてはベストテンには入らないかもしれないが、密かに松雪泰子は助演女優賞候補に決めた。

2008/09/07(日)「ぐるりのこと。」

 「じゃ、口紅つけてよ」のシーンで血の通ったユーモアとリアリティに感心し、その後のどのシーンにも30代の夫婦のリアリティがあふれているのに驚く。橋口亮輔監督は主演の2人にエチュードと呼ぶ即興の芝居を何度もさせたそうで、それが2人の呼吸の良さにつながっているのだろう。口紅のシーンも即興かと思ってしまうが、ちゃんと脚本通りに演じているとのこと。脚本が脚本に見えないのがうまい。子供を亡くした妻が徐々に精神を病んでいくところに1993年から2001年までのさまざまな事件を法廷画家の夫に絡めて描く構成も良い。病んでいるのは妻だけでなく、日本の社会も同じだったのだ。

 前半は2人のシーンを中心に長回しが多いが、後半、妻が健康になっていく過程はカットを短くし、音楽を加えてテンポが良くなる。気分的にうきうきした感じになり、ラストの小さな幸せをほんわかと描くあたりが心地よい。夫は裁判でまたも陰惨な事件に遭遇するが、2人の小さな幸せは変わらないだろう。リリー・フランキーは包容力というと硬くなるが、ほんわかした風情が良く、木村多江もいつもより随分きれいに見えた。

2008/08/30(土)「20世紀少年」

 ほぼ失敗作。前半、少年時代と1997年を交互に描く部分がまるでダメである。ありえない話にどうリアリティを持たせるかが大事なのに、ここにはプロットはあっても描写はない。筋を追うのに精いっぱい。だからドラマが一向に盛り上がらない。あれほど多数の登場人物の誰一人にも輝きがない。見せ場がない。エモーションがない。ドラマの組み立てが弱いのは描写がないからにほかならない。

 カルトな新興宗教集団「ともだち」の台頭と世界で起きる怪事件、それと主人公ケンヂの少年時代の「よげんの書」との関係をじっくり描くべきだった。特に重要なのは「ともだち」の怖さだったろう。脚本には原作者の浦沢直樹が加わっているが、これも間違いのように思える。やはり本職の脚本家が原作をばっさり省略して再構成してしまえば良かったのだ。最初から原作にひれ伏していてはそれを超える映画ができるはずがない。

 堤幸彦には無理な題材だったのだとつくづく思う。こうした映画、山崎貴の方がふさわしいのではないか。

 ラスト、3000人の中からオーディションで選ばれたというカンナ役・平愛梨のはつらつとした走りのみが第2章へのわずかな希望をつないだ。しかし、基本的には監督変えるべきだろう。今さら無理だろうけど。

2008/08/24(日)「幻影師アイゼンハイム」

 ほとんど中身を知らずに見て、ラストでああ、そういう映画だったのかと思った(この鮮やかなラストには感心した)。僕はSF方面に発展していく映画なのかなと思っていた。死んだ恋人をマジックで生き返らせようとする男の話と紹介されていたからだ。恋人は確かによみがえるが、それはマジックの舞台の上で霊として登場するのであり、自分を殺した犯人が「この劇場の中にいる」と指摘する。

 「アフタースクール」同様にこれもまた何も知らずに見た方がいい映画。監督のニール・バーガーはこれが2作目で、作品は日本初公開。元CMディレクターらしいが、要注目の監督だと思う。次作「The Lucky Ones」が近くアメリカで公開される。

 19世紀末のウィーンが舞台。アイゼンハイムは少年時代に道ばたで奇術師と会い、不思議なマジックを見せられて奇術を志す。貴族の娘ソフィと親しくなるが、身分の違いから引き裂かれる。奇術を学ぶために世界を放浪したアイゼンハイム(エドワード・ノートン)は15年後、ウィーンに戻り、驚愕のマジックを見せる奇術師になっていた。ある日、アイゼンハイムの舞台を皇太子が見に来る。ソフィ(ジェシカ・ビール)が同行しており、2人は久しぶりに再会を果たす。アイゼンハイムのマジックは評判を呼ぶが、人心を惑わすとして皇太子は警部(ポール・ジアマッティ)に命じてアイゼンハイムの周辺を探らせ、逮捕させようとする。再会したアイゼンハイムとソフィの間には恋心が再燃する。しかし、ソフィは近く皇太子と結婚することになっていた。ソフィの心変わりを知って、皇太子は怒る。そんな折りにソフィが死体で見つかる。

 回想シーンはアイリスを使用したクラシカルな作り。それが19世紀を感じさせて良い。原作はスティーブン・ミルハウザーの短編。それをバーガー自身が脚色している。原作は知らないが、この脚色は見事だと思う。マジックを扱っただけでなく、映画自体にもマジックがあるのだ。

 SF方面の話と思ったのは劇中に驚愕のオレンジの木のマジックが登場するからでもある。こんなことがマジックでできるはずはなく、アイゼンハイムは超能力者だろうと思ったのだ。しかしこれは19世紀から実際にあるマジックだそうで、YouTubeでも見ることができる(http://jp.youtube.com/watch?v=-Ht_afydffk)。ただし、オレンジの木がいかにも作り物。映画のような幻想的な雰囲気には欠ける。