2008/05/19(月)「ノーカントリー」

「ノーカントリー」パンフレット

 発端は荒野の中で起こった出来事。ほぼ西部劇のように始まった物語は明確にクライマックスを省略して唐突にエピローグを迎える。クライマックスに起こったことは簡単に説明されるので分かるにしても、なぜその詳細を描かないのか。通常の映画なら力を入れて描く場面がないことで、映画は原題「No Country for Old Men」を強引に中心テーマに持ってきた印象がある。退職間もない保安官(トミー・リー・ジョーンズ)の妻への一人語りは老人が住む国ではなくなったアメリカを象徴している。これは「殺し屋シガー」というタイトルの映画ではないんだよ、と主張しているかのようだ。

しかし、映画で印象に残るのは、ほれぼれするような映像のスタイリッシュさと描写の力強さ、ハビエル・バルデム演じる殺し屋の不条理で強烈なキャラクターの方である。この映画の在り方はジョエル&イーサン・コーエン兄弟のデビュー作「ブラッド・シンプル」にまっすぐにつながっており、結論をどう強引に決めようが、その魅力はいささかも揺るぐことはない。物語よりも映像で語るのはコーエン兄弟映画の常だが、今回はそれが非常にうまくいった。クライマックスの省略には疑問も感じるのだけれど、映像に力があれば、構成に多少の難があっても、逆にそれが意味のあることのように思えてくるものなのである。アカデミー助演男優賞を受賞したバルデムは、ほとんど主演と言ってもよいぐらいの存在感があり、バルデムでなければ、この映画は成立しなかったのではないかと思える。

 1980年代、テキサスの荒野で麻薬取引の200万ドルを拾った男ルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)が、組織の放った殺し屋アントン・シガー(ハビエル・バルデム)から追われることになる。それをエド・トム・ベル保安官(トミー・リー・ジョーンズ)が追う。映画はこの簡単な設定の下、追う者と追われる者の戦いをじっくりとサスペンスフルに描いていく。シガーは登場直後から殺人を重ねる。自分を捕まえた若い保安官を殺し、車を奪うために農夫を殺す。高圧ボンベ付きのエアガンで家畜を殺すように容赦なく人間を殺していく。立ち寄った店で店主にコインが表か裏か言えと迫る場面の異様な迫力。撃たれても、うめき声さえ上げずに傷口を縫い、腕から骨折した骨が出てきても慌てない人間離れしたキャラクター。モスもベトナム帰還兵という役柄だが、ターミネーターのようなシガーにかなうわけがない。ハビエル・バルデムは「海を飛ぶ夢」の時にも演技力に感心させられたが、今回も凄い。きっとデ・ニーロのように演技の虫なのだろう。

原作はコーマック・マッカーシーの「血と暴力の国」。コーエン兄弟が原作ものを映画化するのはこれが初めてという。クライマックスがない映画と言えば、僕は黒沢明「影武者」を真っ先に思い浮かべてしまうのだけれど、「影武者」に感じた大きな不満はこの映画には感じなかった。それはこの映画のクライマックスがそれまでの殺し屋シガーの振る舞いと大きく違うはずはないことが分かりきっているからだろう。アカデミー賞では他に作品、監督、脚色賞を受賞した。

2008/05/06(火)「虹の女神」

 鈍感で優柔不断な男(市原隼人)のラブストーリー。というか、青春映画そのもの。前半、上野樹里との関係も良かったが、後半、相田翔子とのエピソードが面白い。相田翔子が26歳の役って、それは無理があるだろうと思ったら、ああいう展開になる。相田翔子は1970年生まれだから、映画公開時には36歳。なるほど。これはいいキャスティングだ。こういう女性っていそうだ。家族ぐるみで嘘をついているというのもありそうだ。監督の熊澤尚人はロス・マクドナルド「さむけ」を読んでいるのではないか。といっても映画の原案・脚本は小説家の桜井亜美なのだが。

 このエピソード、本筋から見れば浮いている。起承転結の転の部分に苦労して入れた感じ。ただし、このエピソードがあるから、市原隼人のキャラクターがくっきりと浮き彫りになった。熊澤尚人の演出は市原隼人と上野樹里の心の揺れ動きや通い合いそうで合わない部分を繊細に描いていてうまいと思う。おセンチではなく、ロマンティシズムですね。上野樹里は出演映画の中ではこれが一番、等身大な感じでいい。

2008/04/25(金)「銀幕版 スシ王子! ~ニューヨークへ行く~」

 「スシ王子!」は昨年7月から全8話がテレ朝系で放送されたそうだ。当然、見ていない。主人公の米寿司(まいず・つかさ=堂本光一)は沖縄空手の自然(じねん)流の使い手。祖父も父も寿司職人だったが、子供の頃、その2人を海で亡くし、魚の目を見ると暴れ出す“ウオノメ症候群”にかかっている。司はニューヨークに寿司の修行に行き、江戸前寿司を握る俵源五郎(北大路欣也)が経営する寿司店「八十八」を訪れる。店はマフィアに狙われていた。用心棒の豊穣稲子(釈由美子)とともに司はマフィアに対抗する。

 全編、予定調和的にストーリーが流れる緩いコメディで、笑えるシーンはあるのだけれど、この内容で1時間54分は長すぎる。1時間30分ぐらいなら、もっと引き締まっただろう。ギャグよりもストーリーにもっと工夫が欲しいところだ。

 といっても期待はしていなかったので腹は立たなかった。釈由美子と石原さとみは良かった。釈由美子はアクション場面も様になっていて、もっと映画に出てほしいと思う。監督は堤幸彦。

2008/04/21(月)「ディセント」

 地底人が出てくるまでは閉所恐怖症的な怖さがあったが、後半に出てくるあの地底人はねえ。あんなにたくさん繁殖しているのは何らかの生態系の説明がないと説得力を欠く。ま、この映画で怖いのはそうした怪異よりも人間だったりするのだが。

 サラ(シャウナ・マクドナルド)は愛する夫ポール(オリバー・ミルバーン)と一人娘ジェシー(モリー・カイル)との平和な家庭を守る平凡な主婦だった。年に一度必ず出かけることにしている女ともだちとの川下りからの帰り道、ハンドルを握りながら何か浮かない顔をしている夫に話しかけた。ポールが前方から目をそらし、助手席のサラに顔を向けた瞬間、対向車と衝突。サラが病院で意識を取り戻したとき、ポールとジェシーはすでにこの世にはいなかった。それから1年後、サラは女友だち5人と洞窟探検に行く。ところが、洞窟が崩落。6人は出口を求めて洞窟内をさまよう羽目になる。洞窟の中には何かがいた。

 最初の川下りと交通事故がクライマックスに結びついてくる。徐々に明らかになる人間関係。極限状態の中でエゴと憎しみと誤解が入り交じり、悲惨な展開となる。映画の作りはB級ホラーではなく、脚本もしっかりしている。ホラーとサスペンスとアクションと人間ドラマが描かれ、出来としてはまずまずか。これで地底人にもう少し工夫があったら言うことはなかった。地底人の「ギギギギギギ」という声は「呪怨」の影響ではないか。

 監督は「ドッグ・ソルジャー」(ニック・ノルティ主演ではない方)のニール・マーシャル。7月に日本で「ドゥームズデイ」(原題)が公開予定だ。ただ、IMDBではあまり評判が良くない。予告編は以下。

 Descentは下降、急襲などの意味がある。僕は高所は怖くないが、閉所は怖い。だから洞窟探検なんか絶対にしない。そうでなくても体がやっと通れるぐらいの所を通るのは嫌ですね。

2008/04/18(金)「クローバーフィールド HAKAISHA」

 怪獣の造型がいいですね。あれは間違いなくエヴァ系のデザイン。壊れた人間とトカゲが合体したような形で、自然界の生物とはとても思えず、劇中でも言及されるが、アメリカ政府の実験施設から逃げ出したのに違いない(ただし、実験施設がニューヨークの近くにあるはずはなく、怪獣が攻撃する都市をフロリダとかサンフランシスコ、あるいは五大湖沿岸地域あたりにしておけば、良かったのではないかと思う)。おまけの小さな怪物の方は「ガメラ2 レギオン襲来」のソルジャーレギオンを思わせる(それよりはずっと小さいけれど)。

 日本の怪獣映画が怪獣を倒すことに傾注しているのに比べて、アメリカ映画の怪獣はディザスター映画(パニック映画)的側面が強調される。この映画もそのパターン。元々のヒントは「ゴジラ」のフィギュアにあったそうだが、米国版「ゴジラ」(ローランド・エメリッヒ監督)と同じアングルがあったりして、製作のJ・J・エイブラムス、怪獣映画が好きなのではないかと思う。小さい怪獣が出てくるあたりは米国版「ゴジラ」や「エイリアン」の影響だろう。米国版「ゴジラ」の小さいゴジラは明らかに「ジュラシック・パーク」のヴェロキラプトルの影響がありましたけどね。ついでに言えば、噛まれた人を軍隊が隔離するのは「グエムル 漢江の怪物」でしょう。

 登場人物が撮影したビデオ映像で語るという同じ手法を用いた「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」も実は嫌いではないのだが、怪異の正体がまったくといってよいほど出てこないのが大きな不満だった。この映画では怪獣の姿をそこそこ見せてくれるけれども、まだまだ見せ方が足りない。きっちり見せて、その正体まで明らかにすれば、言うことはなかった。そのあたりは続編に持ち越されるのだろう。限定的な視点で描いた怪獣映画として良い出来だと思う。

 僕は複数の人が撮ったいくつかのビデオ映像をつないだ構成とばかり思っていたが、撮影したビデオカメラ自体は1台だけだった。ああいうパニック状況の中でビデオを撮り続けるというのはちょっとリアリティを欠くのだけれど、まあしょうがないか。

 それにしても揺れに揺れるこの画面、三半規管の弱い人には勧められない。うちの家内などは絶対に無理。