2005/12/04(日)「炎のメモリアル」
消防士を主人公にした映画は「バックドラフト」(1991年)が記憶に残るが、「バックドラフト」はサスペンスの要素が強かった。この映画、真正面から消防士の仕事を取り上げて、消防士の危険な業務を描いている。地味になりそうな題材を手堅く作ってあるのに感心した。ルイス・コリック(「遠い空の向こうに」「ドメスティック・フィアー」)の脚本がうまいのだろう。ただ、ラストに異論はある。ああいうラストにすると、観客の中には泣いて満足する人もいるかもしれないが、僕は逆の方が良かったと思う。
主演はホアキン・フェニックス。上司をジョン・トラボルタが演じている。監督はジェイ・ラッセル。
2005/12/03(土)「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」
クライブ・カッスラーのダーク・ピットシリーズの映画化。カッスラーは「レイズ・ザ・タイタニック」(「タイタニックを引き揚げろ」の映画化)のあまりと言えばあまりの出来にその後は映画化を許さなかったと聞く。今回は「レイズ…」より、はるかにまし。ダーク・ピット役はマシュー・マコノヒー。この人は色気が足りないのでこうした冒険ものの主人公としてはどうかなと思うが、硬派な感じがして悪くない。もっとも話の方はユーモラスな部分が多く、ダーク・ピットシリーズとは別物という感じもする。
監督はブレック・アイズナー。アル・ジョルディーノ役はスティーブ・ザーン(ちょっとイメージが違うか)。サンデッカー提督はウィリアム・H・メイシー。ピットの相手役はペネロペ・クルス。女優に関しては「レイズ…」のアン・アーチャーの方が好み(最近、あまり見かけない)。
2005/12/02(金)「エリザベスタウン」
「あの頃ペニー・レインと」「バニラ・スカイ」のキャメロン・クロウ監督によるヒューマンなドラマ。仕事に大失敗して自殺しようとしていた青年が父親の故郷ケンタッキー州エリザベスタウンに行き、生きる力を取り戻す。そういう再生の話は大好きなので、好意的に見ることができた。キャメロン・クロウが得意とする音楽の引用はドラマへの集中を削ぐ部分もあって、僕には余計に感じられたが、音楽自体が悪いわけではなく、所々に音楽とマッチした素晴らしいショットはある。
逆に父親の葬儀でスーザン・サランドンが「ムーン・リバー」に合わせて急に始めるタップダンスなどはうまくもないのに延々と見せる意味が分からない。クロウとしては映画全体をウェルメイドに作るつもりだったのだろうが、このシーンが象徴するようにどこかアンバランスな部分が残る。主演のオーランド・ブルームは「キングダム・オブ・ヘブン」のような大作では頼りなく感じるが、そうした線の細さがこの役柄には合っていると思う。特筆すべきは相手役のキルスティン・ダンストで、お節介でおしゃべりな客室乗務員役を実に魅力的に演じている。これはキャラクター造型の成功で、この映画、決して一般的な美人とは言えないダンストの好感度で持っているようなものだ。
9億7200万ドル(約1,000億円)。たった一足の靴の失敗でそんなに損失が出るものかと思うが、主人公のドリュー(オーランド・ブルーム)はとにかく会社にそれだけの損失を招く大失敗をする。社長(アレック・ボールドウィン)から首を言い渡され、失意の自殺をしようとしていたところに妹(ジュディ・グリア)から父の死の知らせが入る。父親はエリザベスタウンの親戚の家で急死したのだ。ドリューは自殺を中断して、遺体を引き取りに行くことになる。
夜間飛行の乗客の少ない飛行機の中で客室乗務員のクレア(キルスティン・ダンスト)が一方的に話しかけてくる。人の良さそうなクレアはホテルのクーポンとエリザベスタウンまでの地図と携帯電話の番号を書いた紙をくれる。エリザベスタウンに着いたドリューは町の人たちから歓迎を受ける。大企業に就職したドリューは町の出世頭なのだ。ドリューはチェックインしたホテルで、寂しさから妹、恋人のエレン(ジェシカ・ビール)、クレアに電話するが、いずれも不在。しばらくして3人から次々に電話がかかってくる。エレンは大失敗したドリューに冷たく別れを告げる。ドリューはクレアと一晩中、話し続けることになり、夜明けにお互いの車を走らせて再会を果たす。
お互いに恋人がいて、穴埋めとして付き合い始めた2人が徐々に心を通わせる描写がいい。終盤、クレアが「魔法の地図」として渡した地図に沿って、ドリューがアメリカの各地を訪ねるシーンはクロウの音楽の趣味があふれた場面だが、ここでクレアは「5分間、悲嘆にくれたら、忘れて前に進んで」と言う。映画が最後に用意しているのも「命」の大切さ。さまざまな不備が目に付くのは残念だが、成功や失敗ではなく、生きることそのものが大事という訴えを心地よく見せてくれる映画だと思う。たくさん流れた歌の中では予告編でも使われたエルトン・ジョン「父の銃」が印象に残る。
2005/12/01(木)「東京タワー」
「大停電の夜に」の源孝志監督作品じゃなかったら、見ないところだ。映画が始まって40分ぐらいまでのもうどうしようもない黒木瞳と岡田准一のシーンで、途中で見るのをやめようかと思ったのだが、そこをじっと我慢すれば、映画は面白くなる。中盤から終盤にかけての寺島しのぶ&松本潤と黒木瞳&岡田准一のそれぞれの修羅場のシーンが面白く、見終わってみれば、まずまずの作品じゃないかという感想を持った。
この映画、黒木瞳のシーンをすべて取っ払ったら、もっと良かったのにと思う。黒木瞳は20代の女のような演技をするべきではない。20歳も年下の若い男を好きになってしまった40代のずるさと打算としたたかさを演じるべきだった。その点、寺島しのぶはうまいなと思う。役柄は35歳の主婦だが、大地に根を張ったたくましさと夫から「今夜は酢豚だな」と言われる侮蔑的な日常と若い男に溺れてしまって安定した暮らしを少し踏み外した後悔とを微妙に織り込んで演じている。感情もシチュエーションもリアリティゼロでバカバカしい序盤の黒木瞳のパートに比べて寺島しのぶのパートには既婚女性のせっぱ詰まったリアリティがあり、それが映画を救う結果になったのだと思う。
「恋はするものじゃなく、落ちるものだ」というこれまた分かった風なことを言っているコピーにも腹が立つのだが、映画はそれに対抗するように黒木瞳の夫役の岸谷五朗に「恋は落ちればいいっていうもんじゃねえんだよ」というセリフを用意している。ここで岸谷五朗は岡田准一を飛び込み台からプールに落とすのだ。
序盤のどうしようもなさは映画デビューだった源孝志の計算違いによるものなのだろう。加えて脚本の出来にもよるのだろう。「大停電の夜に」に比べてセリフのリアリティがまるでないところがダメで、これにも相沢友子をかかわらせていたら、もっと面白くなっていたのにと思う。
この映画、終盤のパリの場面を撮るまで撮影の中断があり、その間に岡田准一は「フライ,ダディ,フライ」を撮影したそうだ。岡田准一も黒木瞳とのパートではダメだが、それ以外は悪くなかった。
2005/11/28(月)「親切なクムジャさん」
パク・チャヌク監督の復讐3部作の最終作。第1作「復讐者に憐れみを」は見ていないが、第2作「オールド・ボーイ」よりもさらにブラックな笑いの要素が増えて、コメディに近くなっている。今回は初めて女優(イ・ヨンエ)が主役を務める。誘拐殺人の無実の罪を着せられ、刑務所に13年間服役した女が罪を着せた男(「オールド・ボーイ」のチェ・ミンシク)に復讐する話。主人公はけがを負わされたわけでも肉親を殺されたわけでもないので、復讐の念としては強さに欠けるし、復讐相手のスケールが小さいなと思っていたら、終盤にもっとひどい男であることが分かる。それを受けたクライマックスのシーンはアガサ・クリスティの某作品を思わせるシチュエーション(パンフレットで滝本誠も指摘していた)であり、クリスティが描かなかったことを詳細に描くとこういうブラックな味わいにもなるのだろう。イ・ヨンエの生真面目な演技と美しいメロディの音楽に騙されそうになるが、あまり深刻に受け取らず、クスクス笑いながら見るのが正しいのだと思う。だいたい、イ・ヨンエの演技のさせ方自体にミスマッチを狙ったフシがある。刑務所の中でヒロインが「先輩もご飯をたくさん食べて、薬もたくさん飲んで…早く死んでね」と言うシーンやクライマックスの斧のシーン、時折挟まれるナレーションなどにブラック・ユーモアが弾けている。逆に言えば、こうした笑いを取るためにヒロインの境遇を不幸のどん底にはしなかったのではないか。そこまで考えて作ったブラックな映画なのだと思う。
映画は主人公のクムジャ(イ・ヨンエ)が刑務所を出所する場面から始まる。刑務所の中でクムジャは北朝鮮の年老いた女スパイの世話をしたり、いじめられた囚人仲間のためにいじめた相手に仕返しをしてやったりして、いつも笑顔の“親切なクムジャさん”と呼ばれていた。しかし、それは自分を刑務所に入れた男への復讐のためだった。囚人仲間に親切にすることで多くの協力者を作ったクムジャは出所するとすぐに復讐の準備に取りかかる。クムジャは13年前、ウォンモという少年を誘拐して殺した罪で捕まった。それは高校時代に妊娠したクムジャが助けを求めた英語講師のペク(チェ・ミンシク)の仕業だった。ペクはクムジャの生まれたばかりの子供を誘拐し、誘拐殺人の罪をかぶらなければ子供を殺すと脅迫したのだ。クムジャは復讐計画の一環で、刑務所仲間をペクの妻にしていた。ついにペクを捕らえたクムジャは山奥の廃校に連れて行く。そこでペクの他の悪行が明らかになる。
クムジャの行動の根底には誘拐されたウォンモ少年を助けられなかった自責の念があり、贖罪の意識も働いている。だから刑務所を出所後、ウォンモの両親の家へ行き、自分の指を切断する。ここも笑えるシーンになっており、「10本すべて切断しようとしたが、ウォンモの両親に止められた」とナレーションが入る上に、ウォンモの母親はクムジャの行動に真っ青になって気を失い、一緒に救急車で病院へ運ばれることになるのだ。オーストラリアに養女に出されていた自分の娘を迎えに行くシーンでの相手夫婦の描き方なども素直におかしい。血みどろのグロいシーンと笑いを織り交ぜたパク・チャヌクの演出は確信犯だなと思う。
ところが、パンフレットのインタビューを読んでみたら、主人公の復讐の動機が弱い点について、パク・チャヌクは「あえて弱い動機にしたわけですが、それは復讐を私的な恨みではなく、論理的にしたかったからです」と語っている。私的な復讐ではなく、社会の復讐。凶悪犯人を警察に渡すべきか、自分の手で裁きを下すか。それがこの映画の重要なテーマなのだという。私的な復讐はテロに通じるというパク・チャヌクの言葉はしかし、この映画では十分にテーマとして昇華していないように思う。これは後付けの理由ではないのか。もしそうしたテーマの映画にしたいのならば、クムジャ自身を強い復讐の念を持つ立場に置いた方が良かっただろう。主人公をクライマックスで傍観者的立場に置くことは、そうしたテーマを描く上では間違いである。
思えば、出世作となった「JSA」でも、パク・チャヌクは南北分断のテーマよりも細部の描写に才能を見せていた。本質的にテーマ主義の監督ではなく、エンタテインメントの監督なのである。パク・チャヌク、もしかして自分でそれに気づいていないのか。