2004/01/05(月)「アンダーワールド」

 吸血鬼(ヴァンパイア)と狼男(ライカン)一族の数世紀に渡る戦いを描くホラーアクション。アイデアからしてB級で、内容も「ブレイド」を思わせるようなもの。主役のヴァンパイアを演じるケイト・ベッキンセールだけは黒いロングコートにタイトなボディスーツがよく似合い、魅力的に撮られている(このファッションとか動きは、日本のアニメを参考にしたのではないか)。監督のレン・ワイズマンはMTV出身でこれが長編デビュー作。画面構成などにはセンスを感じるが、話にあまりオリジナリティがないし、狼男の変身シーンも水準的なレベルで、「ハウリング」のころからあまり進歩していない感じがある。2時間1分もかけて語るべきほどのものではなく、平凡な出来に終わっている。

 ヴァンパイアのセリーン(ケイト・ベッキンセール)は処刑人として狼男一族を追っている。戦いがなぜ始まったのかはもはや明らかではないが、長年の戦いでライカンはもはや絶滅寸前と言われている。ある夜の戦いでセリーンはライカンたちがある男を探していることを知る。その男、マイケル・コーヴィン(スコット・スピードマン)は普通の人間だった。セリーンはマイケルのアパートを突き止めるが、狼男たちが襲撃。マイケルは、死んだと思われていたリーダーのルシアン(マイケル・シーン)に噛みつかれてしまう。このままでは2日後の満月の夜に、マイケルは狼男に変身してしまうことになる。一方、ヴァンパイア一族の中にもリーダー、クレイヴン(シェーン・ブローリー)の不穏な動きがあった。

 戦いで銃を使うのはやはり「ブレイド」を参考にしたのかもしれない。スタイリッシュなアクション自体は悪くないが、途中で飽きてくる。話が大きく動くのはクライマックスからで、ヴァンパイアと狼男の血を巡る出自が明らかにされ、いかにも続編ができそうなラストを迎えることになる。その通り、続編の製作が決まっているとのこと。しかし、もう少し話を深くして、VFXを炸裂させないと、続編は難しいように思う。

 狼男のことをライカンと呼ぶのは初めて知った

2004/01/03(土)「大日本帝国」

 1982年の作品で第1部「シンガポールへの道」、第2部「愛は波濤をこえて」の計3時間。昨日、第1部を見て、きょう第2部を見た。

 笠原和夫脚本、舛田利雄監督作品で、公開当時、僕はこのとんでもないタイトルから「ケッ、右翼映画め」と思って見のがしたのだった。「昭和の劇」を読んで無性に見たくなったが、ビデオ店にもなかったので購入した(DVD発売は昨年12月21日。これから入るかもしれないし、大きなビデオ店にはあるだろう)。

 東映ビデオ「夏目雅子メモリアル」の1本となっている(収益の一部を骨髄移植財団と夏目雅子ひまわり基金に寄贈するそうだ)。なるほど、でなければ、DVD化されなかったのかもしれない。夏目雅子は確かにこの映画でもきれいだが、それよりも関根恵子(当時)の印象が強烈。したたかな下町女性を演じて説得力があるし、悲劇的で凄惨な場面が多いこの作品の締めくくりを晴れやかなものにしている。いつの時代も強い女性は素晴らしい。

 しかし、とりあえず、こちらの興味は笠原和夫脚本にある。「二百三高地」のヒットに気をよくしたプロデューサーが太平洋戦争の勝ったところばかりピックアップしてつなぐという企画を出したのに対して、笠原和夫は逆にシンガポール、サイパン、フィリピンと激戦地ばかりをつないで脚本を書いた。根底に流れるのは天皇の兵士として召集され、死んでいった兵士たちの恨みつらみである。といっても、兵士たちは天皇非難の言葉を直接吐くわけではない。フィリピンでB・C級戦犯として裁判にかけられた西郷輝彦は絞り出すような声でこう言う。

 「大元帥陛下が我々を見殺しにするはずはなかでしょ。我々は天皇陛下の御楯になれと言われてきたとです。そう命じられた方がアメリカと手を結んで我々を見捨てるなんちゅう事は絶対にありません。日本政府はポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられたとしても、必ずわたしらを助けにきてくださるはずです。こげな、いかさまみたいな裁判で死刑にされて浮かばれますか」。

 笠原和夫が偉いのはこういうセリフを用意する一方で、戦友を殺した米軍に対する憎しみを所々に描いていることだ。単純な正義感でもなく、理想主義でもなく、戦争の現実を描写し、上が始めた戦争によって苦しめられる庶民の姿を浮き彫りにしていく。

 年末に放送されたNHK「映像の世紀」(これは8年前のものだった。もうそんなになるのか)を再見して改めて面白いと思ったが、こうしたニュース映像、記録映画から抜け落ちるのは庶民の思いなのだろう。太平洋戦争の始まりから終わりまでを描く「大日本帝国」にあるのはそうした庶民から見た戦争である。監督が舛田利雄なので必ずしもすべてが成功したわけではない(舛田利雄はサイパンの玉砕シーンをどう撮れば良いか分からないと笠原和夫に相談したそうだ)けれど、焦点深度の深い笠原脚本を堪能できた。

2004/01/02(金)「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」

 一部マニアには評価の高い手塚昌明監督の3作目のゴジラ。手塚監督の1作目「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」は設定の斬新さに感心したが、ドラマ的には弱かった。2作目の「ゴジラ×メカゴジラ」もドラマの弱さがVFXの良さを減殺していた。今回も同じようなことになっている。しかも3作目となって、いささかマンネリじみた感じもある。ストーリーは前作からそのままつながっており(前作の主人公釈由美子が冒頭に出てくる)、これに43年前の「モスラ」の設定を加えてある。しかし、話が簡単すぎる。新機軸よりは安全パイを選んだ姿勢が垣間見えるのだ。金子修介「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」がなぜ面白かったのか、手塚監督はよく考えてみる必要があるだろう。

 今回はメカゴジラ(機龍)の整備士・中條義人(金子昇)が主人公である。機龍は前作でのゴジラとの死闘で壊れ、修復作業中。中條の叔父(小泉博)は43年前、インファント島で小美人(ザ・ピーナッツですね)とモスラに遭遇した。その叔父の別荘に小美人(今回は長澤まさみと大塚ちひろ)が訪ねてくる。「人間がゴジラの骨から戦いの道具を作ったのは大きな間違いです。人間は神ではありません」と機龍の使用を止めるよう求め、機龍の代わりにモスラが戦うというのだ。やがてゴジラが海中から姿を現す。そして約束通りモスラも出現し、ゴジラと戦うが、圧倒的な強さのゴジラに歯が立たない。首相(中尾彬)は機龍の出動を命じ、東京でゴジラ、モスラ、機龍の死闘が始まる。

 ゴジラのDNAから作られた機龍は前作でゴジラに共鳴し、暴走してしまった経緯がある。DNAから兵器を作ることの是非、その技術そのものの是非が前半には基調としてあるが、怪獣バトルが始まると、そんなテーマは消えてしまう。脚本の詰めが相変わらず甘いと思えるのはこういう部分。機龍の存在は核兵器と重なるし、自衛隊の在り方も現在のイラク情勢を思わせもする。こういう話を突き詰めていけば、なにもモスラを登場させなくても良かったのではないか。ゴジラとメカゴジラだけでは前作と同じになり、興行上の配慮として人気のあるモスラを登場させたのであろうことが見え見えだ。

 VFXは着ぐるみ怪獣ものとしては水準的で、取り立てて見るべきところはない。僕はゴジラ映画にVFXを期待して見に行くわけではないからこれは構わない。要は話なのである。話の面白さがなければ、着ぐるみ怪獣映画は成立しない。話の面白さで着ぐるみが気にならないようなゴジラ映画を作ることに手塚昌明はもっと心を砕いた方がいい。

 ゴジラ生誕50年の次作は「怪獣総進撃」みたいな映画になるらしい。明らかにこれも興行上の考えが先行した企画と言わねばなるまい。制約が多い中でそれをどう成立させるのか、どう面白い映画を作るのか、今回のような安易な発想ではダメだと思う。こちらの予想を裏切る映画になることを切に望む。

2003/12/09(火)「バッドボーイズ 2バッド」

 なんでこんな出来の悪い映画を2時間25分も見せられなければいけないのか。せめて1時間40分程度に収めてくれれば、映画の印象はもっと締まったものになったのだろうが、この内容で2時間25分はいくらなんでも長すぎる。

 ストーリーは単純で、キューバの麻薬組織をマイアミ警察の黒人刑事コンビ(ウィル・スミスとマーティン・ローレンス)が追い詰めるアクション。何台もの車がクラッシュするカーチェイスなどアクションシーンは大がかりで、それなりに見せるが、何もエモーションを引きずらないので虚しいことこのうえない。破壊に次ぐ破壊、ただそれだけ。以前はよくあったな、こういうタイプの映画。すっかり滅んでしまったのかと思ったら、凡才監督マイケル・ベイが飽きもせずに繰り返してくれた。個人的には今年のワースト5にランクインする駄作と思う。

 クライマックスはなぜか、刑事アクションから戦争アクション風になり、「ポリス・ストーリー」風(というか、ほとんどイタダキでしょう)の住宅破壊カーチェイスもある。カーチェイスだったら、「ターミネーター3」とか「マトリックス リローデッド」のように独自性が欲しい。

 最も悪いのはマーティン・ローレンスのコメディ演技で、電機店で2人の会話が店のテレビすべてにモニターされたり、麻薬エクスタシーを飲んでフラフラになったりとかの本質からずれたエピソードはことごとく不要だろう。こういう部分を削って刑事アクションに徹していれば、まだ何とかなったのではないか。

 8年前の前作(マイケル・ベイのデビュー作)は見ていないが、見ていなくても支障はない。ボーっと眺めていれば、分かる程度の話。脚本は「さよならゲーム」のロン・シェルトン。自分で監督するわけではないので手を抜いたのに違いない。

2003/12/02(火)「フォーン・ブース」

 ニューヨークの8番街にたった一つ残った電話ボックスを舞台に繰り広げるサスペンス。実験映画的で不条理劇的な色彩もあるが、ジョエル・シューマカー監督はきっちりと娯楽映画に仕立てた。上映時間1時間21分。無駄な描写を入れて長くしなかったのは潔い。というか、パンフレットには書いてないが、元々は1996年に学生が作った短編映画(End of the Line=ポール・ホー監督、14分40秒)で、それをラリー・コーエンが徹底的に書き直したそうだ。ということは劇場映画にするために精いっぱい長くした結果が1時間21分なのだろう。出ずっぱりのコリン・ファレルの好演に支えられており、ファレルは容貌も似ているが、ブラッド・ピット同様の演技派でもあるということをこれで納得させた。

 主人公のスチュ・シェパード(コリン・ファレル)は携帯電話を片手に仕事をこなす宣伝マン。傲慢な男で妻(ラダ・ミッチェル)はいるが、独身と偽って女優を目指すパム(ケイティ・ホームズ)をものにできないかと考えている。そのパムと話すのに携帯は使わず、いつも8番街の電話ボックスを使っていた。パムに電話中になぜかピザが配達されてくる。身に覚えのないことに怒ったスチュは横柄な態度でピザ屋を追い返す。電話ボックスを離れようとすると、電話が鳴り、とっさにスチュは電話を取ってしまう。電話の主はパムとの関係を非難し、妻に告白しろと脅迫する。相手はライフルで狙っているらしい。スチュの長電話に怒ったフッカーたちが騒ぎ出し、そのポン引きがスチュを襲いかかったところで脅迫者に撃たれる。フッカーたちはスチュが撃ったと騒ぎ立て、警察も多数やってきてあたりは騒然となるが、スチュは事情説明を脅迫者に禁じられ、電話ボックスからも離れられない。そこに妻とパムもやってくる。脅迫者は妻かパムのどちらを殺すか選べと選択を迫る。

 基になった「End of the Line」は本当に短い一幕の話で、パラノイアに捕まった男のサスペンスを描いている。電話を切れば殺されるというシチュエーションはほぼ同じだが、これを見ると、ラリー・コーエンの脚本はよく考えられていることが分かる。サスペンスと同時に傲慢な男が変わっていく過程も描いており、クライマックス、妻に謝り、心からの思いを訴えるスチュの姿などは感動的である。犯人の処理もうまい。唯一の不満を言わせてもらえば、脅迫者がスチュを狙った理由が倫理だけでは弱いことか。これは不条理なまま終わらせても良かったのではないか。まあ、そうすると、マイナーな映画になってしまうのかもしれない。

 ニューヨークの電話事情をさらりと説明して始めるシューマカーの演出はスピーディーで的確。この人は職人的な監督なので、脚本が良いと映画の出来もグンと良くなる。