2003/09/12(金)「座頭市」
ストーリー上は何の意味も持たない雨の中の斬り合いの回想シーンを入れたことを見ても、北野武の今回の狙いが斬新な殺陣にあったことは間違いないだろう。ポンプで血を噴き出させ、CGを加えたこの血しぶきの描写は北野武が参考にしたという黒沢明「椿三十郎」の三船敏郎と仲代達矢の決闘よりも、サム・ペキンパーの一連のアクション映画の血しぶきを思わせた。特に「戦争のはらわた」あたりのスローモーションを使った血しぶき。血がフワッと出てくる感じなのである(CGを使った血しぶきで困るのは斬った座頭市が返り血を浴びないことか)。切り傷にもCGを使ってあり、リアルである。この残酷な描写は例えば、「BROTHER」などの拳銃を使った残虐描写に似ており、いつもながらの北野武のアクション映画だなと思う。
ただ、今回少し違うのは演出が大きくエンタテインメントに振ってあることで、ガダルカナル・タカが3人の若者に剣術を教える場面でタイミングが狂って逆にボッコボコに殴られたり、ヤクザが刀を抜く際に仲間の腕を過って斬ってしまったりのユーモラスなシーンが多いし、ラストの下駄の集団タップダンス(ここにもCGがある)も観客サービスという感じである(その割にはこのタップダンス、あまり効果を挙げていない)。ユーモアと残虐がほど良い感じでブレンドされており、エンタテインメント性が高まったのはそのためだろう。
ストーリーはいつものように簡単なプロットと言うべきで、ある宿場町に来た座頭市と浪人夫婦(浅野忠信、夏川結衣)、盗賊に両親を殺され復讐に燃える姉弟(大家由祐子、橘大五郎)と町を取り仕切るヤクザが絡むが、ヒネリはほとんどない。オーソドックスな時代劇のエピソードを流用している。ストーリーよりも描写で見せるのは北野武映画の持ち味だけれど、エモーションが高まってこないので、中盤少しダレる要因にもなっている。描写でこれだけ見せる力がありながら、脚本に凝らないのは惜しいと思う。
勝新太郎版の「座頭市」をリアルタイムで見たのは89年の「座頭市」だけである。このあまり良い出来とは言えない映画の中で感心したのは勝新太郎の殺陣の凄さだった。クライマックス、ダイナミックに延々と続く殺陣だけがあの映画の大きな価値だった。北野武版「座頭市」も殺陣を中心に置いているのは先に書いた通り。ビートたけしに限らず、浅野忠信の速い殺陣も見事なもので、撮影前にかなり訓練を積んだことをうかがわせる。この2人の対決シーンはそれこそ「椿三十郎」のように一瞬で片が付く。残念なのは浅野忠信の役柄が完全な悪役ではなく、悲劇性を帯びていること。どうせなら病気の妻など持たせず、単なる金で動く凄腕の用心棒にした方がすっきりしたと思う。
パンフレットの表紙は「座頭市」の文字が見えにくいなと思ったら、ここには夜光塗料が使ってあり、暗い所では文字が浮かび上がる。なかなか粋な仕掛けではある。
2003/09/03(水)「ドラゴンヘッド」
ドラゴンヘッド=龍頭(りゅうず)。人間の欲求・本能・自律神経などを司る海馬体を切除された人間。恐怖をなくすためにこの手術を受ける。
ということは映画の中では詳しく説明されない。だいたい龍頭もドラゴンヘッドも単語としては出てこない。主人公のテル(妻夫木聡)とアコ(SAYAKA)が廃墟で出会う幼い兄弟がこの手術を受けていた。医師の母親によって手術されたこの兄弟は母親が死んでも涙一つ流さない。
破滅後の世界を描くこの映画で、終盤、立ち上がってくるのは、感情をなくしてでも人は生きたいかというテーマだ。ようやくたどり着いた東京の地下で、テルは非常用保存食とされる缶詰を食べる人々の姿を見る。缶詰のラベルには(試)と記されており、これを食べることで感情がなくなってしまうのだ。「これうまいぞ、ほら」と缶詰を投げる根津甚八の姿は「マタンゴ」を思わせた。言うまでもなく、「マタンゴ」は島に流れ着いた男女のグループがキノコを食べることで化け物になってしまうというホラー映画。飢えには耐えられず、グループは一人また一人とマタンゴ化していく。僕と同年代の飯田譲治監督はこの映画を見ているはずで、人が人でなくなっていく恐怖が脳裏に深くインプリンティングされているはずである。感情をなくすことは化け物になること、そして死ぬことと同義なのだ。
望月峯太郎の原作コミックを映画化したこの作品、この部分だけが良く分かった。世界はなぜ破滅したのか、詳しい説明はない。地殻の変動で地磁気が狂い、それが地球に多大な変化をもたらしたとの仮説が提起されるだけである。修学旅行の新幹線の中でテルが目を覚ますと、列車はトンネルに閉じこめられ、クラスメートはほとんど死んでいた。何が起こったのか。テルと同じく生き残ったノブオは狂気すれすれの状態で、もう一人のアコは足にけがをしながらも正気を保っていた。冒頭、延々と続くこのトンネル内の描写が極めて手際が悪い。ようやくここを出たと思ったら、外も息が詰まるような状態。空は雲に覆われ、白い灰が絶え間なく降っている。映画は最後までこの陰々滅々とした雰囲気に終始する。
いくら破滅した世界だからといっても、これはあんまりで、破滅前の世界の描写を色鮮やかにインサートするとかの工夫が欲しかったところだ。生き残った人々の多くが精神に異常を来しているという描写も類型的(これは磁場の乱れが影響しているらしいが、それにしてもである)。飯田監督、どこかで計算が狂ったのではないか。
2003/08/29(金)「シティ・オブ・ゴッド」
最初に連想したのはマーティン・スコセッシであり、ガイ・リッチーだった。ギャングという題材、時間軸と視点を自在に操るタッチ。フェルナンド・メイレレス監督は重たく深刻な題材を解体し、再構成して絶妙の映画に仕上げた。このうまさには恐れ入る。
後に凶悪なギャングに成長するリトル・ダイスの人を撃ち殺すのが楽しくて仕方がないといった表情や、「(撃たれたいのは)どちらか選べ。手か足か」とガキ軍団の幼い2人が迫られて泣き叫ぶ場面などはショッキングなのだが、全体として軽快にテンポよく進む作りにはもう絶賛を惜しまない。モーテル襲撃事件の真相のミステリ的な描き方であるとか、「二枚目マネ」が死に至る原因となった意外な人間関係であるとか、そういう部分をサラリと描いているのがまた憎い。
逆に言えば、そうした技術的な圧倒的なうまさが題材の深刻さを隠すベクトルともなっていて、これは社会派のテーマを持つ映画でありながら、恐ろしく出来の良いエンタテインメントとして機能することになる。人の命の軽さが点景として多数描かれること、銃やドラッグの本質的な怖さを感じにくいことなどに、かすかな違和感もある。
つまりテーマよりも技術の方が目立つ映画なのであり、あまりにも面白いので、そういう微妙なケチの付け方をしたくなる作品なのである。音楽の使い方を含めて心地よい映像になったのはメイレレスがCM監督出身であることと無関係ではないだろう。あらゆる技術を駆使して商品(題材)を一流のパッケージにくるんで見せているわけだ。
いずれにしても、今年のmust seeの1本であることは確か。IMDBでは8.6の高ポイントで、オールタイムの84位になっている。
2003/08/25(月)「ジェイソンX」
地下の研究所でジェイソンとともに冷凍された女性研究者が450年後に発見される。宇宙船に運び込まれ、蘇生措置を受けるが、冷凍が解けたジェイソンも復活してしまう。宇宙船内で例によって惨殺劇が繰り広げられることになる。
IMDBの評価を見ると、4.9。最低の評価だが、ビデオで見る分にはまずまずの出来と思う。「エイリアン」のシチュエーションの借用は承知の上で、B級SFホラーに徹している。VFXもそれなりの水準。終盤、アンドロイドによってバラバラにされたジェイソンが蘇生装置で金属の外殻を身につけ、よりパワーアップするというのが面白い。
この秋公開予定の新作「フレディ VS ジェイソン」はアメリカではヒットしているらしい。それにしても、ショーン・S・カニンガムの第1作「13日の金曜日」が作られたのはもう20年以上前。未だにシリーズが作られ続けるというのは新たなキャラクターを作るのが難しくなっていることの裏返しか。
2003/08/21(木)「HERO 英雄」
「初恋のきた道」のチャン・イーモウ監督が手がけたアクション映画。戦乱の続く紀元前200年の中国を舞台に秦王を狙う刺客とそれを倒したと秦王に名乗り出た男の物語である。ジェット・リー、トニー・レオン、マギー・チャン、チャン・ツィイー、ドニー・イェンとスターをそろえ、VFXも本格的な超大作。ジェット・リーとドニー・イェンの対決とか、雨のように降りそそぐ矢とか見ごたえのあるシーンが多い。特筆すべきはワダ・エミの担当した衣装で、赤、青、白と物語に応じて使い分け、物語に強いアクセントを与えている。画面の色彩設計ではこのほか、チャン・ツィイーとマギー・チャンの決闘シーンで、黄色のポプラの森が一瞬にして赤に染まるシーンなど見事なものである。
しかし、残念ながらドラマがやや起伏に欠ける。いくら剣の達人ばかりとはいっても、登場人物たちのエモーションがあまり表面に出てこないのである(感情を最も表出させているのは剣の達人ではないチャン・ツィイーだ)。見事なアクションの必然性を生む芯の部分が弱かったと言うべきか。格調高い出来であるだけに惜しい。
後に始皇帝となる秦王(チェン・ダオミン)のもとに無名と名乗る男(ジェット・リー)がやってくる。無名は秦王を狙う刺客の長空(ドニー・イェン)、残剣(トニー・レオン)、飛雪(マギー・チャン)を倒したと話す。どうやって倒したのかと問う秦王に無名はそのエピソードを語り始める。長空は凄絶な戦いの末に仕留めた。恋人同士の残剣と飛雪は嫉妬心を利用して仲違いさせ、倒した。無名はその功績で秦王に10歩そばまで近づくことを許される。しかし、秦王は無名の話におかしな部分を感じる。3年前、3000人の兵をものともしなかった残剣と飛雪は嫉妬に狂うような人物ではなかったはずだ。指摘を受けた無名は真相を語り始める。
一つの物語を3通りに分けて語る手法は黒沢明「羅生門」を彷彿させる。矢のシーンも「蜘蛛巣城」のようだ。チャン・イーモウ、どこかで黒沢を意識したのかもしれない。ただ、黒沢とイーモウを分けるのはアクションのダイナミズムだろう。秦軍の多数の兵が趙の国を攻めるシーンは、無数の矢が放たれるだけで合戦場面がないのが惜しい。ジェット・リーとドニー・イェンの対決はその殺陣のあまりの速さに驚くが、あとの場面は宙を飛んだり、水の上を走ったり、「グリーン・デスティニー」同様、超人的な要素があり、地に足のついたものにならないのである。激しさとは異なる流麗なアクション。これはこれで悪くはないのだが、登場人物たちの感情とこうしたアクションとは密接な結びつきにならないのだ。これは同じジェット・リー主演の「キス・オブ・ザ・ドラゴン」の激しさと比べると良く分かる。
長空のエピソードだけが独立したものになったのも残念。残剣と飛雪だけでなく、長空も絡めて3人の刺客を有機的につなぐ構成が欲しかったところだ。視覚的には十分満足しながら、エモーショナルな部分で不満が残った。