2002/09/18(水)「エリン・ブロコビッチ」
1993年にアメリカで史上最大級の賠償金を勝ち取った裁判の中心となったエリン・ブロコビッチを描いた実話。美人だが、無学で生活力もないエリン(ジュリア・ロバーツ)が法律事務所に無理矢理勤務して、大企業(PG&E社)が垂れ流している公害(六価クロム)を知る。工場周辺の住民はガンなどの深刻な病に冒されているが、工場側は安全だと言い張っている。エリンのほんの小さな疑問が発展し、634人の原告が集まる大裁判となる。小さな法律事務所の弁護士エド(アルバート・フィニー)とエリンは協力して大企業の不正を暴いていく。
社会派の題材ながら、スティーブン・ソダーバーグの演出はエリンの人となりを十分に描き込み、普通の女性が大企業に勝っていく過程をメインにしている。これが面白いところ。怒りや正義感を前面に押し出さない映画化で、社会派というと生真面目になりすぎる日本映画は学びたいものだ。ロバーツとフィニーのやりとりはおかしく、それでいて押さえるべきところはちゃんと押さえてある。エリンのサクセス・ストーリーの側面もあり、ちょっと長いが面白かった。
実際のエリン・ブロコビッチは生活感の漂うオバサンという感じ。1960年生まれだそうだ。映画にウエイトレス役で出演しているとのことだが、僕には分からなかった。PG&E社はPacific Gas and Electric Companyと言うんですね。
2002/09/18(水)「バイオハザード」
人気ゲームの映画化。といってもストーリーは映画のオリジナルという。地下にある研究所“ハイブ”でウィルスが拡散し、マザー・コンピューターのレッド・クイーンの防御装置が作動。研究員ら500人が全員死亡する。主人公のアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は一時的に記憶をなくしており、わけが分からないまま特殊部隊とともにコンピューターを止めようと、ハイブに向かう。クイーンの武器で隊員の半数以上は死ぬが(このレーザー型の殺人兵器の場面がなかなかよくできている)、アリスら数人はなんとかコンピューターの停止に成功。しかし、その途端、ウィルスによってゾンビ化した人間たちが襲ってくる。
ゾンビ映画というのも久しぶりに見たが、もうこのパターンは描かれ尽くしているので、この映画にも新機軸は見当たらない。頭にダメージを与えれば、ゾンビを仕留められるというのはこれまでと同様だし、咬まれると感染するのも同じ。いつこどこかで見た光景ばかりである。ポール・アンダーソン監督の演出も荒っぽく、ショック演出ばかりが目につく。しかし、ミラ・ジョヴォヴィッチの魅力が映画に輝きを与えた。セクシーでアクションもこなすカッコ良さ。もともと気が強そうな顔つきだが、襲い来るゾンビ軍団を撃退して地上へ脱出するリーダー的存在として説得力がある。ミラがいなければ、映画はどうしようもない出来になるところだった。ミラ主演で2作目が計画されているとのこと。次作でもミラの魅力を堪能させてくれる映画に仕上げてほしいところだ。
2002/09/17(火)「メメント」
ビデオでようやく見る。記憶が10分しか持たない男のサスペンス。斬新な構成で、こういう映画は初めて見た。ちなみにIMDBのトップ250フィルムズの10位に入ってる。大したものだ。このベストテンはユーザーの投票で選んでいるので、これからも変動するだろうが、現時点での9位までを書いておくと、「ゴッドファーザー」「ショーシャンクの空に」「ゴッドファーザーPART2」「ロード・オブ・ザ・リング」「市民ケーン」「シンドラーのリスト」「カサブランカ」「七人の侍」「スター・ウォーズ」という順番なのである。こういうそうそうたる映画に比肩する10位というのはいかに評価が高いかよく分かる(昨年のキネ旬ベストテンでは14位)。
最初に物語の結末を見せ、そこから遡っていく構成。それを象徴するように冒頭のシーンは逆回しの映像で綴られる。この構成だけなら過去にもあっただろうが、時間が先へ行ったり後戻りしたりしながら遡るのでややこしいことこの上ない。まず、主人公のレナード(ガイ・ピアース)が何をやっているのかが分からない。本人が分かっていないのだから、当たり前である。大きな謎と小さな謎が絡まって、観客は主人公同様、迷宮世界をさまようことになる。クリストファー・ノーランの脚本と演出は明快で、小さな謎のいくつかは残るにしても、複雑な物語を最後にはすっきりした形で終わらせる。もっとも主人公にとっては終わらない話で(なにしろ終わったことを忘れてしまうのだから)、メモと刺青によって永久に迷宮をさまようことになるのだろう。
こういうアイデアは一度しか使えない。そのアイデアを見つけたノーランの勝ちと言える。
2002/09/15(日)「美しい夏キリシマ」
黒木和雄監督が故郷のえびの市で全編ロケした作品。1945年の8月を監督自身がモデルである15歳の少年の目を通して描く。根底にあるのは監督が学徒動員先の都城の工場で空襲を受け、友人を亡くした体験。黒木和雄は頭がざっくり割れた友人の姿を恐ろしく感じ、逃げてしまった。そのことによって約1年間ノイローゼ状態になったという。
映画の主人公・康夫(柄本佑)はこれに加えて肺浸潤のため動員を免除されている設定だが、それが物語の中心にあるにしても、ここで描かれるのは終戦間近の日本の田舎町の風景である。
高知の田舎町を舞台にした「祭りの準備」(1975年)や原爆投下1日前の長崎を取り上げた「TOMORROW 明日」(1988年)がそうであったように、映画は全編、方言で語られる。描かれるのは霧島山のふもとにある霧野村という架空の村での人々の営みであり、この2作と共通する部分の多い内容でもある。しかし、中島丈博が脚本を書いた「祭りの準備」や井上光晴原作の「TOMORROW 明日」よりも重要なのは、これが黒木和雄の体験に基づく自分のストーリーだからで、えびのを舞台にした映画の製作を要請されて当初は「Kirisima 1945」というタイトルで映画を撮ろうとした(戦時下を取り上げた)のは、ここで描かれたことが黒木和雄の原体験であるからにほかならないだろう。
友人を亡くしたトラウマと権力への不信(兵隊への不信)の芽生えが主人公にもあり、主人公は終戦後、進駐してきた米兵に向かって竹槍で突進することになる。戦争中、神といわれた天皇への疑問を主人公が口にしたり、敗戦を嘆く兵士たちの中で「ケッ」という顔つきをしている一等兵の豊島(香川照之)などの描写を見ると、反戦と反権力をさりげなく散りばめた黒木和雄のスタンスがよく分かる。
ただし、こちらの胸を打つのはそうした主人公の姿よりも普通の村の人々の姿である。主人公の裕福な家で働く女中のなつ(中島ひろ子)が家同士のつながりで結婚した相手・秀行(寺島進)は南方戦線で片足をなくしている。仕方なくといった感じで結婚したなつだったが、秀行から「ここでしばらく母の手伝いでもして、なつさんはもっと素晴らしい人と結婚すればいい」と言葉をかけられることになる。あるいはやはり南方戦線で夫を亡くしたイネ(石田えり)の一見弱いながらもたくましい生き方などもそうだろう。
「美しい夏キリシマ」というタイトルは多分に郷愁を誘う内容を思わせるし、監督自身にもそうしたニュアンスがあったのかもしれないが、映画から受けるのは甘っちょろい郷愁よりも人々の切実な生き方に対する共感である。
パンフレットに映画評論家の佐藤忠男が「これは日本映画史のうえで長く名作として語り継がれるべきすぐれた作品である」と書いている。僕は「祭りの準備」より完成度としては劣ると思う。これは題材が監督自身に近すぎたことが原因の一つだろう。複数のエピソードを収斂させていくべきラストが「祭りの準備」の旅立ちの場面より、ややインパクトに欠ける。ただ、今の邦画の平均的なレベルを軽く超えている作品とは思うし、未だに全国公開が決まらないことも疑問に思う。
主人公を演じた柄本佑は柄本明の息子。監督はオーディションで「何を考えているか分からないところ」が気に入って起用したという。黒木和雄映画では常連の原田芳雄が主人公の祖父を演じて画面を引き締め、主人公と心を通わせる女中のはる役の小田エリカもいい。このほか左時枝や宮下順子、牧瀬里穂など特に女優陣の好演が光っている。
2002/09/13(金)「プロミス」
イスラエルとパレスチナの子どもたちを取り上げたドキュメンタリー。これは明確な傑作だ。子どもたちの言葉の一つ一つに重みがあり、激しく心を揺れ動かされる。テロに脅え、仕返しに脅える生活などだれも望んではいない。投石で抵抗すれば、銃殺される。死と戦争が身近にある子どもたちはどこか大人びているが、少女や双子の兄弟が語る「殺し合いはしたくない。もっと話し合うべき」という言葉は純粋な気持ちから発している。確かに相手を殺し続ければ、いつかはいなくなるという考え方に取り憑かれた少年もいるのだが、そんな考えがすべてではないということを示したことがこの映画の大きな価値だ。
こういう映画を見ると、排他的な宗教というのは人を不幸にするシステムなのではないかと思わざるを得ない。イスラエルとパレスチナは宗教が絡んでいるからややこしい。和平のためには政治的指導者ではなく、宗教的指導者が対話に乗り出す必要があると思う。
タイトルのプロミスが実現する場面の奇跡的な幸福感には涙、涙である。しかもそれで終わらず、問題の根深さを指摘して終わるあたりが賢明なところ。和平は簡単ではないが、希望はある。その可能性を信じたくなる。必見。