2002/09/06(金)「リターナー」
傑作。山崎貴監督は「ジュブナイル」で感じた不満を一掃させるSFアクションに仕上げている。タイムトラベルとエイリアンの侵略と戦争をミックスしながら、ドラマの重点はあくまでも2002年現在の悪の組織との戦いに絞ったのが良い。「ジュブナイル」で正統派の清楚な美少女といった感じだった鈴木杏は今回、勝ち気で活発な少女を演じて良く、「後は頼んだぞ!相棒」と叫ぶ場面は主人公ミヤモト(金城武)の過去(「隠れてろ!相棒」)と重なることで、圧倒的な感動を呼ぶ。主人公にアクションが様になっている金城武を持ってきたのは懸命な選択で、前作での大きな不満は鈴木杏の相手役の少年たちの演技の拙さにあったのだから、金城武の起用がまず成功の要因だろう。
何かの予告編か、と思えるようなタイトル前の慌ただしい未来の描写から、映画は2002年10月19日の現在に舞台を移す。船上。中国系の人身売買マフィアが子どもをコンテナに閉じこめている。泣き叫ぶ子どもに向かって、組織の幹部で金髪のミゾグチ(岸谷五朗)が銃を放ち、血しぶきが飛び散る。そこへ主人公のリターナー、ミヤモトが登場。ミヤモトは裏社会の取引から金を奪還する仕事をしている。ミゾグチを見たミヤモトはミゾグチが10数年前、友人をさらって内臓を売買した男であると知る。ミヤモトは大陸のマンホールで暮らしていたが、友人を殺された復讐を果たすため、ミゾグチを追って日本に来ていた。ミヤモトはミゾグチを追い詰めるが、突然現れた少女を撃ってしまい、ミゾグチを取り逃がす。
薄汚い格好をした少女はミリと名乗り、ミヤモトの首に爆弾を仕掛けて無理矢理、自分の任務に協力させる。少女は2084年から来た、と話す。その時代、地球はエイリアンに侵略されて、人類はチベットの山奥で細々と抵抗を続けている。しかしそこにもエイリアンの手が伸びる。ミリはぎりぎりのことろで、2002年に逃れてきたのだった。ミヤモトはミリの話を信じないが、爆弾には逆らえず、渋々協力することになる。ミリの目的は地球にやってきた最初のエイリアンを抹殺し、未来を変えることだった。
今回もまた監督、脚本、VFXを担当した山崎貴はSFをよく分かっているな、と思う。設定にも展開にも不備な点は見当たらず、安心して見ていられる(ミリが未来から持ってきた“ソニック・ムーバー”という武器は「サイボーグ009」の加速装置がヒントか)。鈴木杏と金城武のコンビもおかしくて切なくて、いい味を出している。「マトリックス」のように銃弾の軌跡を避けるシーンがあったり、エイリアンの造型が「エイリアン」に似ていたり、未来社会の戦争が「ターミネーター」を思わせたりするのだが、そんなことがまったく気にならないほど映画は充実している。VFXの充実もいいが、役者の演技とドラマの展開がひたすら良く、鈴木、金城コンビでぜひぜひ第2作を作ってほしいと思う。
2002/08/29(木)「ウインドトーカーズ」
冒頭、ソロモン諸島の激戦の中で、主人公のジョー・エンダーズ(ニコラス・ケイジ)は命令を死守したことによって15人の仲間をすべて犠牲にしてしまう。自身も重傷を負い、精神的にも重い後遺症を負った。ジョーは片方の耳が聞こえなくなったことを隠して戦線に復帰。3万人の日本兵が死守するサイパンに行くことになり、上官からナバホ族の暗号通信兵ベン・ヤージー(アダム・ビーチ)の護衛役を命じられる。
ナバホの暗号は戦闘の結果を左右するので、ジョーは絶対に通信兵を敵の手に渡すなと言い含められる。つまり、敵の捕虜になりそうになったら、殺せということ。部隊にはもう一人ナバホの暗号通信兵ホワイトホース(ロジャー・ウィリー)がいて、オックス(クリスチャン・スレーター)が護衛を務める。2組いるということは好対照の運命になることは容易に予想できる。映画もその通りの進行をするのだが、惜しいのは暗号の死守とジョーの再起という2つのテーマがあまり深く絡んでこないこと。いや、重い後遺症を負ったジョーをメインに描けば、よくある冒険小説のような話にはなっただろうし、ジョン・ウーの演出もそちらに比重が置いてある。しかし、そうなると、暗号通信兵の存在が単なるお飾りにすぎなくなるのである。
せっかく暗号通信兵を出すのなら、なぜナバホ族が戦闘に参加しなければならなかったのか、その背景や人種差別まで含めて詳しく描く必要があっただろう。そのあたりがまったく足りない。ウーのタッチはどう見てもエンタテインメントなアクション志向。ストレートなアクション映画を目指した方が良かったのではないか。
人のすぐそばで爆発が起きる場面がいくつもあり、アクション場面は素晴らしい出来なのだが、脚本が今ひとつで、中盤、危地に陥った部隊を救うため、ベンが日本兵に扮して敵の無線を利用する場面のリアリティーのなさは致命的。「A.I.」の母親ことフランシス・オコーナーの役柄なども本筋にまったく絡んでこないなど傷も目立つ。一番の疑問は主人公の性格設定で、軍の命令に忠実に従って仲間を失ったジョーはその戦闘でもらった勲章を海に投げ捨てたと話す。それならば、軍の在り方への疑問も描くべきところだが、脚本にはそういう視点はない。クランクインする前に脚本を練り直す必要があったと思う。
2002/08/23(金)「ピンポン」
期待値よりはやや低かったが、良い出来だと思う。主演の窪塚洋介をはじめ、中村獅童、ARATA、サム・リー、大倉孝二、夏木マリ、竹中直人らいずれもキャラクターが立っている。スポ根ものとして先が読める展開なのだが、それでも面白く見れるのはキャラクターが際だっているからだろう。努力しても努力しても凡人は天才には負けるという厳しい現実と、天才ですらもただ才能だけでは一等賞にはなれないという当たり前の真実をさわやかに描いて大変気持ちがよい。曽利文彦監督、上々のデビュー作だと思う。
ペコ(窪塚洋介)の天才ぶりをもっともっと描くとさらに良かったと思うが、これは監督の計算なのかもしれない。ペコに対して実力を出さない(出せない)スマイル(ARATA)の本当の力をチャイナ(サム・リー)やドラゴン(中村獅童)や小泉コーチ(竹中直人)は見抜く。スマイルが力に目覚め始める前半のまま進めば、これはスマイルが主人公であってもおかしくない話だった。あるいは中国で落ちこぼれて日本にやってきたチャイナが主人公でもいいし、勝ち続けることを自分に課したたために卓球の楽しさを忘れてしまったドラゴンでも良かった。さらに限りなくどこまで行っても凡人にしかすぎないアクマ(大倉孝二)が主人公であれば、これはまた違った映画になったはずだ。スマイルに簡単に負けてしまい、「なんでお前なんだよー!」と叫ぶアクマの心情は天才モーツァルトに嫉妬した凡人サリエリの心情と同じものだろう。
曽利監督は、あるいは原作の松本大洋はペコを描くのと同じぐらいの比重をかけて、これらの脇の人物たちを描いていく。誰もが自分の人生では主人公。しかし、公の場でも主人公たり得ることが非常に稀であることもまた普遍的な真実だ。大方のスポ根物語が描くような落ちこぼれが勝っていく快感とは別次元のところでこの物語は成立しており、それにもかかわらず、脇の人物たちが強い印象を残す。天才がただ勝っていくだけの物語なら、面白い映画にはならなかっただろう。
2002/08/18(日)「仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL」
龍騎の物語は13人のライダーがミラーワールドを舞台に最後の一人になるまで戦うというものである。ライダーたちはモンスターと契約し、力を得る代わりに定期的にモンスターを倒してその力を契約モンスターに与えねばならない。映画はテレビシリーズに先行して、この戦いの最後の3日間を描く。新しく仮面ライダーファム(加藤夏希)と仮面ライダーリュウガが登場してくる。ライダーは6人に減っており、さらに凄絶な戦いが続くという展開。しかもリュウガがミラーワールドの封印を解いたため、モンスターたちが人間界に大挙押し寄せてくる。龍騎はライダー同士の戦いをやめさせようとし、同時にモンスターたちと戦っていく。
監督は「アギト」に続いて田崎竜太。脚本は井上敏樹。なぜ13人のライダーが存在するのか、その理由やミラーワールドにモンスターが存在する理由などを明らかにしていくのだが、どちらも話をまとめきれていない感じがする。アイデアだけがあって、技術が伴っていないというのは昨年も感じたこと。惜しいね。
13人のライダーの戦いというのはキネ旬のインタビューによると、「人造人間キカイダー」がヒントにあるそうだ。ミラーワールドと言えば、ミラーマンだが、モンスターの秘密などに僕は永井豪の影響を感じた。そういう過去のヒーローもののあれこれを取り入れており、基本的にあまり独自性はない。ラストは「ガメラ3」みたいだったし。
主人公の龍騎こと城戸真治(須賀貴匡)とファムこと霧島美穂(加藤夏希)のロマンスなどもう少しドラマティックにしたいところ。全体にドラマ部分の演出がうまくない。一番の儲け役はそのファム役の加藤夏希で、初めての女ライダーを颯爽と演じている。
2002/08/11(日)「トータル・フィアーズ」
「フィールド・オブ・ドリームス」のフィル・アルデン・ロビンソンがトム・クランシー「恐怖の総和」を映画化。ジャック・ライアンシリーズの映画としては「レッド・オクトーバーを追え!」「パトリオット・ゲーム」「今そこにある危機」に続いて4作目となる。
29年前の第4次中東戦争で行方不明となったイスラエルの核爆弾がテロリストの手に渡り、スーパーボウル会場で爆発する。米ロは互いに疑心暗鬼となり、核戦争へ一触即発の危機を迎える。CIA分析官のジャック・ライアン(ベン・アフレック)は核戦争を制止するため奔走する、というサスペンス。核爆弾がアメリカ本土で爆発してしまうという展開が凄いが、同時テロの後ではこれもありうるかと思える。映画は十分に面白い出来で、ロビンソンの演出も手堅い。
ただし、話が何だか簡単なのである。核爆弾が爆発するのは映画の中盤で、そこから米ロ首脳の駆け引きが始まるのだが、CIAの調査で爆弾はアメリカ製のものであると分かったのに、それが大統領(ジェームズ・クロムウェル)に伝わらないという描写が説得力を欠く。テロリスト(イスラム勢力ではなく、ファシスト)側の描写も物足りないし、核爆弾がそんなに簡単にアメリカに持ち込めるのかという疑問もある。テロリストは最後に殲滅されるが、これも同時テロを思えば、そんなに簡単にはいかないだろうと思えてくる。
もはや米ロの核戦争の危機というテーマ自体が古びてきたのだろう。映画は核兵器がテロリストの手に渡った際の怖さをもっと強調すべきだった。あるいは核兵器がインドとパキスタンのような局地的戦闘によって使われるかもしれない怖さ。そちらの方がよほど現実的なのである。
映画の中でアメリカとロシアは「常に裏口は開けている」というセリフがある。CIA長官のキャボット(モーガン・フリーマン)はロシアの首脳の一人と常に連絡を取り合っているのである。しかし、アメリカはテロリスト側とは表も裏も接触を持ちようがない。だから怖いのだ。
ベン・アフレックは「パール・ハーバー」に比べれば好演。しかし映画を支えているのはモーガン・フリーマンの渋い演技で、話の方向が定まらず、やや弱い前半はフリーマンがいるだけで画面に厚みが出てくる。音楽はジェリー・ゴールドスミス。今回も大作にふさわしいスコアを提供している。