2013/08/11(日)「さよなら渓谷」
モスクワ国際映画祭審査員特別賞受賞。真木よう子が凄い。真木よう子はどの映画でも目立つが、この映画では真意が分かりにくく、振幅の大きなキャラクターに実在感を与えている。映画が見応えのある作品に仕上がったのは真木よう子の力によるところが大きいと思える。
映画を観た後に吉田修一の原作を読んだ。230ページ余り。すぐに読める。映画は忠実に作られていて、ラストまで同じだが、中盤にある主人公の男女(大西信満、真木よう子)の道行きとも思えるあてのない旅を原作以上に詳しく描いている。男女の素性が何なのかということよりも、なぜこの男女は一緒に暮らしているのかが重要なポイントなので、これは納得できる力点の置き方だと思う。
原作の解説で柳町光男が「サイコ」を引き合いに出している。脇道から始まって本筋になだれ込む作りの類似性を指してのことだ。こういう作りだからこの映画、一切の予備知識なしで見た方がいい。中盤に明かされるネタを平気で書いている紹介などは野蛮な行為と言うほかない。と思ったら、吉田修一自身がパンフレットのインタビューでネタばらしをしていた。その先にあるものがポイントだからだろうが、何も知らずに見るのに越したことはない。
原作は実際にあった2つの事件がモデル。現時点では既にどちらも記憶から風化した事件なので、あくまで吉田修一の小説のきっかけになっただけと位置づけて良いだろう。実際にあった事件をモデルにしながら、原作と映画が描くのは実際にはありそうにない男女の関係に説得力を持たせるところにある。そしてそれはうまくいっている。この男女の関係はまだ途上なのだが、映画は事件を取材する週刊誌記者(大森南朋)と妻(鶴田真由)の壊れかかった関係に修復をほのめかせることで、主演の男女の行く末に同じ思いを託しているようだ。
弱々しさと強気と憎しみと愛を織り交ぜた真木よう子とそれを静かに受け止める大西信満の演技がこの映画の見どころだ。同じ吉田修一原作の「悪人」の主人公2人の切実さに僕は惹かれたが、この映画の男女も切実な関係にある。
2013/08/10(土)「パシフィック・リム」
太平洋の海底の次元の裂け目から現れた怪獣(KAIJU)と巨大ロボット(イェーガー)が戦うSFアクション。「トランスフォーマー」の時も「リアル・スティール」の時も思ったのだが、アメリカ製のCGのロボットにはクシャッとすぐに壊れそうなもろさを感じる。質感が華奢で重量感に欠けるのだ。この映画のロボットも例外ではなく、実際にすぐに壊れるし、頼りないことこの上ない。何よりもこのストーリー、キャストでは映画が盛り上がらない。CGに予算がかかるのでキャストはB級にせざるを得なかったのだろう。ギレルモ・デル・トロ作品ではおなじみのロン・パールマン(「ヘルボーイ」)のみ怪獣に負けない存在感があった。というわけで、いくら製作費をかけていても、B級の感じが抜けきらない映画だ。
一番の問題はストーリーで、いったん、怪獣にやられたのなら、ロボットはパイロットだけでなく、機能的にもパワーアップしてほしいところだ。実はマッドサイエンティストが秘密兵器や強力な装甲を作っていて…みたいな展開がほしい。クライマックスは最強の怪獣とパワーアップしたロボットとの対決になるべきなのだ。ロボットの操縦士として一度は失格した菊地凛子が復活する展開にも説得力が足りない。兄を殺された主人公(チャーリー・ハナム)にしても、怪獣への憎しみが足りない。ドラマの構築が弱いと思う。「ガメラ3 邪神覚醒」の前田愛のような在り方を見習うべきだ。主人公のエモーションが脆弱なので、ドラマを引っ張る力に欠けるのだ。
怪獣の造型にもイマイチ感が漂う。アメリカ製の怪獣はどうしてあんなに爬虫類を少しアレンジしただけのどれもこれも似たような感じになるのか。パンフレットによれば、この映画には10種類以上の怪獣が登場するが、どれも同じように見える。大量生産型のクローン怪獣なので、個性に乏しくなるのだろう。これが日本の怪獣映画とは異なるところで、ゴジラやキングギドラやモスラやラドンのように怪獣自体に強烈なキャラを設定しないと、怪獣映画としての魅力は高まっていかない。脚本はデル・トロとトラビス・ビーチャム(「タイタンの戦い」)。もう少しSFの分かる脚本家を参加させた方が良かっただろう。CGの技術は一流なのに、これでは惜しい。
菊地凛子は頑張っているが、この役柄なら、あと10歳ぐらい若い女優の方が良い。ほとんどセリフなし、赤い靴を持って「ママ…」と泣きながら逃げ惑う芦田愛菜はハリウッドでも注目を集めそうだ。
2013/06/24(月)「ヘルプ 心がつなぐストーリー」
黒人メイドたちへの人種差別を描いた映画だが、出てくる女優がいずれも好演していて女性映画の趣がある。主演のエマ・ストーンは相変わらず良く、ジェシカ・チャステインのうまさも光る。憎まれ役のブライス・ダラス・ハワードも褒めるべきかも。
2013/06/24(月)「きっと、うまくいく」
原題の“3 Idiots”は「3人のバカ」という意味で、インドで歴代興収ナンバーワンになったコメディだ。細部にさまざまな粗が目立ち、僕には普通のコメディに思えた。
パンフレットには「学歴競争が過熱する現代のインドが抱える教育問題に一石を投じ」とあるが、主人公のランチョー(アーミル・カーン)は大学でトップの成績を残す。親友のファルハーン(R・マーダヴァン)とラージュー(シャルマン・ジョーシー)は最下位と下から2番目だが、名門工科大学ICEの中での順位だから世間的には全然バカじゃないエリートだ。
卒業後、1番のランチョーが2番のチャトゥル(オーミ・ヴァイディヤ)に勝つという展開になると、なんだ学歴社会を否定してるわけじゃなくて、成績は大事ですよという当たり前の結論になってしまうじゃないか。観客をなめてるんじゃないのか、この脚本。
この3人、バカなことはするけれども、バカじゃない。愛すべき善良な3人だ。友情を大事にする善良な人間が、成績は良いけれどもイヤな人間に勝つというのはエンタテインメント映画の王道の作りと言える。この王道に沿うのなら、三流大学の学生、あるいは大学に行っていない人間が一流大学の学生に勝つという展開にした方がテーマはより明確になったし、好ましかったのではないかと思う。
最近のインド映画は以前より上映時間が短くなったらしいが、これは170分。はっきり言って、この内容なら2時間程度にまとめてほしいところだ。コメディとしての新機軸はないし、いくつかある下ネタで僕は頬が引きつったが、映画は上映時間の長さも含めて十分な大衆性を持っている。この大衆性は美点なので、ラージクマール・ヒラニ監督、次はもっと脚本を練り、高いところを目指して欲しいと思う。
2013/06/09(日)「はじまりのみち」
疎開のために病気の母親(田中裕子)を乗せたリヤカーを17時間も引いて山道を歩き、旅館に着いた木下恵介こと正吉(加瀬亮)は旅館に入る前に手ぬぐいをしめらせ、母親の顔を拭き、髪に櫛を通す。雨に降られた道中、母親の顔には泥が跳ねていたのだ。身だしなみを整えさせる正吉の仕草とキリッとした母親の姿を見て強烈に心を動かされた。親子の情愛とか思いやりとか、そういうことを頭で理解する前にそうした行為自体に心を動かされるのだ。これが実写映画初めてとは思えない原恵一監督の描写の力をまざまざと見せつけるシーンだ。
結論から言ってしまえば、再び監督になることを決意して浜松に帰る正吉が暗いトンネルの中に入っていくシーンまでは今年のベストテン上位間違いなしの傑作、と確信していた。しかし、その後に木下恵介の戦後のフィルムが流れる場面で感動がすっかり冷めてしまった。映画の中で描かれたさまざまなエピソードが木下恵介の映画にどれほど生かされているのかはよく分かるし、ああなるほどと納得するのだけれど、これ、全部なくてもかまわないと思う。納得と感動とは違うのだ。
もちろん、「木下恵介生誕100周年」というパッケージのもとに作られた映画なので、こうしたシーンがあるのは仕方がないのだが、僕には余りにも余計と思えるシーンだった。この映画を見て、木下恵介に興味を持った観客が自分でDVDなりブルーレイなりで過去の作品を見ればいいだけのことで、このシーンはお節介にしか思えないのである。
映画の中で教師に扮した宮崎あおいに子どもたちが駆け寄るところを遠くから見る正吉のシーンは言うまでもなく、「二十四の瞳」だ。僕は「破れ太鼓」を見ていないのでカレーライスから連想することはできなかったし、「楢山節考」を見ていても母親を背負うシーンで連想することもできなかった。そんな観客はたぶん多いのだろうが、だからと言って、説明過多になる必要はまったくなかった。
急いで付け加えておけば、このシーン以外は素晴らしいとしか言いようがないのだ。正吉の兄(ユースケ・サンタマリア)は「自分の両親ほど正直な人を見たことがない」と旅館で便利屋の濱田岳に話す。働きづめに働いて大きな商店を構えるようになったが、それでも両親は使用人より早起きして仕事をしていたという。あるいは、正吉たちが着いた時、夫婦げんかをしていた旅館「沢田屋」の夫婦(光石研、濱田マリ)は正吉たちが17時間も歩いてきたことを知ると、「それはえらいことで」と、病人が一緒であっても温かく正吉たちを迎え入れる。そんな一つひとつの描写がことごとく良いのだ。
だからパッケージングに収斂されていくのがもったいないし、残念でならない。こうした細部の描写と魅力的なエピソードを作れるのであれば、実写映画監督としての原恵一はかなり期待できる。次回作では余計なパッケージングのない原恵一独自の映画を撮ってほしいものだと切に思う。