2011/10/02(日)「僕たちは世界を変えることができない。」

 実際にカンボジアに学校を作った人に話を聞いたことがある。その学校は無料ではなく、有料。少額といえども、なぜ有料なのかと尋ねたら、「すべて無料で手に入ると、人はダメになるから」という答えだった。なるほど。働かなくても援助で生きていけるなら、人は働かなくなる。無料の学校だったら、行かなくなる子供も多いのかもしれない。金を払っているからこそ、無駄にしてはいけないという思いが起きるのだろう。

 映画は郵便局にあったポスターとリーフレットを見て、カンボジアに学校を作ろうと立ち上がった大学生の実話に基づく。満たされない日常を送り、何か打ち込みたいものを探していた大学生にとって、カンボジアはそれを打破してくれる存在だった。最初は軽い気持ちだったが、実際にカンボジアを訪れて大学生たちは衝撃を受ける。

 中盤のこのシーンが映画の白眉だ。ポル・ポト政権時代の虐殺の様子をドキュメントタッチで見せるこのシーンでは物語がフィクションからノンフィクションへと逸脱していく。子供の頭を打ち付けて殺した木、雨が降ると土が流れて姿を現す骨や衣服、収容者がはめられていた足かせ、大量の頭蓋骨、今も犠牲者を出している大量の地雷。観光ガイドのコー・ブティさんの両親は収容所で強制労働をさせられた。涙を流しながら、当時の父親の様子を日本語でたどたどしく語るブティさんには胸を締め付けられる思いがする。主人公の田中甲太(向井理)はそんなブティさんを抱きしめる。ブティさんは「ムカイ…」とつぶやく。このシーンには演技を超えた役者の真の感情が焼き付けられている。

 映画にはタイトルのほかに英語のサブタイトルがある。というよりも、ここまでがタイトルだ。But, We wanna build a school in Cambodia.世界を変えることはできないけれど、カンボジアに学校を建てたい。学校を一つ作ったところで、世界が変わるわけはない。その議論は映画の中にもこれまたドキュメントタッチで出てくる。しかし、その気持ちがなければ、世界は変えようがないのも事実だ。

 「バトル・ロワイアルII 鎮魂歌」で最低のデビューを果たし、「XX(エクスクロス) 魔境伝説」で実力を発揮した深作健太監督はこの作品で大きくジャンプアップした。深作健太はキネ旬9月下旬号のインタビューをこう締めくくっている。

 「つらい現実に直面した時に、ありたい自分とそうでない自分とのギャップに悩んだり、無力感に苛まれて自信を持てなくなってしまっている若い人たちがこの映画を観てくれて、ちょっとだけでもいいから、前を向いてくれたら、それは素晴らしいことだと思います」。

 深作欣二の「バトル・ロワイアル」が若者への応援歌であったのと同じ意味合いをこの映画も持っているのだ。

2011/10/01(土)「アジョシ」

 もちろん「レオン」、そして「ランボー」を組み合わせたような話。虚無的な雰囲気を漂わせ、キアヌ・リーブスを思わせるウォンビンのアクションは体の動きが素早くて良いのだが、軍の特殊部隊出身という役柄を考えれば、ここはジャン・レノやスタローン、ドウェイン・ジョンソンのようなごつい男の方がリアリティーがあったかもしれない。

 ウォンビン目当ての女性客が多いけれど、臓器売買の組織の話なので目玉をくりぬいたり、ナイフで刺したりの残虐シーンがけっこう多い。韓国では昨年、630万人が見たそうだが、この数字、同じくウォンビンが出演している「ブラザーフッド」(2004年)の1200万人に比べれば、なんということはない。

2011/09/28(水)「スーパーマン4 最強の敵」

 旧スーパーマンシリーズでこれだけ見ていなかった。評判が悪かったためだが、なるほどと思う。ダブルデートでスーパーマンとクラーク・ケントが行ったり来たりするシーンなど何をやっているのか。キャスト、特にロイス・レーン役のマーゴット・キダーの容色の衰えが目立ち、マリエル・ヘミングウェイもごつい感じを受ける。終わるべくして終わったシリーズなのだろう。もっとも3作目もスケールダウンがひどかったのだった。旧シリーズはリチャード・レスターが同時に撮った1、2作目だけで良かったのだと思う。

2011/09/25(日)「一枚のハガキ」

 水桶をかつぐ大竹しのぶの格好は「裸の島」の乙羽信子と同じだ。苦境にあった近代映画協会を救い、新藤兼人監督の評価を世界的に高めた「裸の島」と同じモチーフを取り入れたのはこれが99歳の新藤兼人最後の作品であることも影響しているだろう。しかし、それ以上にこれは人間の営みを表すものである。セリフがなかった「裸の島」とは異なり、この作品は饒舌で、しかも叫ぶセリフが多いけれど、性も含めた人間の営みを重層的にとらえる視点はまったく揺るがない。そうしたところが映画に厚みが出てくる要因だろう。

 浮ついた薄っぺらなキャラが多い最近の邦画の中でこの映画が光っているのはそうした人間の描き方が優れているからにほかならない。見ていて重喜劇、人間喜劇という言葉が思い浮かんだ。豊川悦司と大杉漣が殴り合うシーンなどは血の通った人間であるからこそのおかしみが生まれている。

 パンフレットの裏表紙にある言葉がこの映画を端的に物語っている。「戦争がすべてを奪った。戦争が人生を狂わせた。それでも命がある限り、人は強く生きていく」。強く生きていくというか、生きていかねばならないのだ。どんな不幸があろうとも、それでも人生は続く。被害者意識や自己憐憫に浸ってばかりはいられないのだ。

 夫が戦死し、再婚した夫の弟も戦死し、義父母を相次いでなくしてひとりぼっちになった友子(大竹しのぶ)は古い家とともに「野垂れ死んで」いく覚悟だ。そこへ戦争中、夫が託したハガキを携えて松山啓太(豊川悦司)が訪れる。100人中94人が死ぬという状況の中で、松山は幸運にも生き残ったが、復員してみれば、妻は父親と駆け落ちしていた。毎日を無為に過ごしていくうちに、ブラジルへ移住しようと考えた松山は整理していた荷物の中から一枚のハガキを見つける。このどちらも失意の2人が出会うことで再生を果たしていく姿に説得力がある。

 どちらかが優れた人間であったわけではない。人が再生するのに、優れた指導者のような人間は必要ない。神も宗教も書物も不用だ。人と人が出会うことで、何らかの小さな変化が生まれるのだ。新藤兼人の体験を元に書かれたこの脚本はそういう視点があるからこそ素晴らしい。「裸の島」にあった麦踏みのシーンはこの映画でも繰り返される。踏まれた麦はたくましく育つ。いや、麦は踏まれなければ、強くならない。麦踏みのシーンが踏まれても立ち上がる人の比喩であることは明白だ。

 「あんたはなんで死なんかった! あんたはなんで生きとる!」。大竹しのぶが悲しみから怒り、後悔までを見せる中盤の長いワンカットには演劇のような緊張感が漂う。役者の演技と監督の思いが重なって、充実した映画になった。新藤兼人、引退はまだ早いのではないか。

2011/09/24(土)「ワイルド・スピード MEGA MAX」

 最後の最後にあの女優が出てくる。あれ、なんで、とシリーズを見ていない僕は思った。WebCGの読んでますカー、観てますカー(執筆はNAVIの元編集長)を読んで、ああ、そういうことなのか、と思った。いくらシリーズをスケールアップしてストリートレース以外の要素を取り入れたとはいっても、シリーズを見ていないと、分からないことはあるのだ。

 だいたい、リオデジャネイロのボスの金を全部奪い取るという計画に集められた面々はこれまでのシリーズに登場してきたメンバーだったらしく、僕はそれも知らなかったので、なんでこんな地味な役者たちがと思ったりしたのだ。だから、やっぱりこの映画はシリーズをずっと見てきた観客の方が絶対に楽しめるだろう。

 映画は「ちょっとそれは無理だろう」というシーンがクライマックスにあるし、作りに荒っぽい部分もあるのだけれど、僕はそれなりに面白かった。アクションのスケールがなかなかである。ジャスティン・リン監督、頑張っている。インプレッサやフェアレディZなど日本車が出てくるのもよろしい。最後を締めるのは日産GTRだ。やっぱり、この車、公道を走るレーシングカーという感じがする。

 主演のヴィン・ディーゼルは恰幅をまして魅力を増した。悪役みたいに見えるFBI捜査官ドゥエイン・ジョンソンも迫力があっていい。ジョーダナ・ブリュースターは「パラサイト」で初めて見て伸びる女優かなとおもったけれど、そういうこともないまま年を重ねた感じ。これはちょっと残念だった。

 さらに続きを作りますよという終わり方なので、次作が公開されるまでに過去のシリーズも見ておきたい。