2003/06/24(火)「ブラッド・ワーク」
@宮崎映画祭。マイクル・コナリー「わが心臓の痛み」をクリント・イーストウッドが監督・主演したサスペンス。心臓移植を受けた元FBIのプロファイラー、テリー・マッケイレブ(クリント・イーストウッド)が移植した心臓のドナーで殺された女の妹グラシエラ(ワンダ・デ・ジーザス)から捜査の依頼を受ける。グラシエラの姉はコンビニで強盗から射殺された。単純な事件と思われたが、実は、という展開。原作は絶賛されているが、映画の方は普通の出来である。
冒頭、「マッケイレブ、俺を捕まえてみろ」と書き残した殺人の犯行現場が描かれる。この犯人、シリアル・キラーで数字を書き連ねた謎の暗号(コード)とともにマッケイレブを挑発した犯行を重ねている。マッケイレブは現場近くで犯人と思える男を追うが、心臓発作で倒れる。そして2年後、心臓移植をしたマッケイレブのところにグラシエラが訪ねてくる。事件の本筋にシリアル・キラーが絡んでくるのは予想がつくが、映画で苦しいのは犯人の心理描写ができないこと。なぜ犯人がマッケイレブに執着するのか、もう少し詳しい描写が欲しいところなのである。犯人側から描けば、そういう異常心理の描写もできるのだが、イーストウッド主演の映画でそれを期待するのは無理だろう。
ラスト近く、倒れた犯人に向かってイーストウッドが銃を向けるシーンなど「ダーティ・ハリー」を彷彿させる。いきなりショットガンをぶっ放す中盤の銃撃シーンでもイーストウッドは本領を発揮している。イーストウッドは70歳を越えたけれど、少なくともジョン・ウェインが晩年に出た「マックQ]や「ブラニガン」などの緩い刑事アクションよりは数段上ではある。しかし、この脚本ではそうした部分よりも心理サスペンス的な部分に重点を置くべきだった。脚本の出来があまり良くない。
イーストウッドの次作はデニス・ル(レ)ヘインの「ミスティック・リバー」。またもやミステリだが、出演はしていない。監督としての力量発揮を期待したい。
2003/06/13(金)「ザ・コア」
地球の核(コア)が停止して、人類滅亡の危機が訪れるというSFサスペンス。「コアが止まったら、動かす手段はない。もし、あるにしても我々が地中へ行けるのはせいぜい10キロ。とても地球の中心部まで行けない」という主人公の科学者ジョシュ(アーロン・エッカート)に対して、地球物理学の権威コンラッド(スタンリー・トゥッチ)が「行けたとしたら、どうだ」と切り返す。実は行けるのであった。20年前からユタ州の砂漠の中で1人の科学者(マッド・サイエンティストか!)が秘かに研究を続けていたのであった。という展開で、科学的考証無視の都合のいい映画である。地中に入ってからの液体の中を進むような描写にはとてもついて行けず、しかも、登場人物を順番に死なせていくことでドラマを構成する脚本は程度が低い。ジョン・アミエル監督の演出はまともだし、ヒラリー・スワンクなど出演者も悪くはないが、こういう脚本では最初からA級を目指すのを諦めているのと同じことである。
コアは内核と外核で出来ていて、外核は緩やかに回転している。止まりかけているのはこの外核で、あと1年で完全に停止することが分かる。そうなれば、地球の磁場は消失し、地表は太陽風によって焼き尽くされてしまう。そこで米政府はコアへ向かう探査艇バージルを3カ月で完成させ、主人公をはじめ6人のテラノーツ(地中潜行士)が地球の中心部に向かうことになる。外核で核爆弾を爆発させ、再び回転させようとするわけだ。そこからの描写はまあ、「アルマゲドン」みたいなものである。
前半、磁場が狂ったことで鳥が暴走したり、スペース・シャトルが軌道を外してロサンゼルスの川に着陸したり、巨大な放電によってローマが壊滅したりとかのVFXは良くできている。クライマックスと並行するサンフランシスコ壊滅のシーンも迫力満点。こういう場面を見ると、製作者たちはSFを作ろうという気はさらさらなく、パニック映画のようなことをやりたかったのだろうなと思える。
事実に立脚して想像の翼を羽ばたかせるのがSFなら、この映画は最初からSFであることを放棄している。探査艇と地上の本部の通信が普通に描かれるけれども、数千キロ地下から地表とどうやって通信するのか。そういう細かい部分に一つ一つ説得力を持たせていかなければ、物語は絵空事で終わってしまう。登場人物が忠君愛国・滅私奉公みたいな精神で一人ずつ死んでいく描写は近年のアメリカ映画にはよく出てくる。SF的アイデアを発展させず、そういうアホな展開しか考えられない安易な映画の作り方では、いくら製作費をかけようと、映画はB級で終わってしまう。
2003/06/10(火)「二重スパイ」
1980年代の韓国を舞台に北朝鮮の二重スパイを描く。このタイトルはネタを割っていてあまり良くないが、映画はハン・ソッキュ(「シュリ」)の熱演と緊密な展開でまず面白く仕上がっている。ただ、監督デビューのキム・ジョンヒョン(今年30歳)の演出は欧米のスパイ映画に影響されたようで、ラストのブラジルの場面などは、やっぱりそうなるかという感じである。観客に先が読めるこの場面、不要だったのではないか。
1980年のベルリンで1人の男が西側に亡命する。この男、イム・ビョンホ(ハン・ソッキュ)は実は北朝鮮のスパイだった。韓国の国家安全企画部の拷問に耐えたイムは安企部の団長ペク・チョンヨル(チョン・ホジン)に身柄を預けられ、武装スパイの軍事訓練教官となる。2年後、安企部の正式要員となったイムに北から指令が下る。「DJに接触せよ」。そのDJ、ユン・スミ(コ・ソヨン)もまた北朝鮮のスパイだった。ぺく団長の妻が2人を引き合わせたことから2人は恋人を装いつつ、情報交換していたが、本当に好意を抱き始めるようになる。
見ている間は気にならなかったが、このスパイたち、大きな事件には関わってこない。これはその後のストーリー展開にも関係してくるのでやはり何か大事件(大統領暗殺未遂とか)に関わらせた方が良かったと思う。韓国に住む北の大物スパイ“青川江”(ソン・ジェホ)の逮捕のエピソードは絡むものの、ラストへの説得力にはなっていないのである。これは「シュリ」との類似を避けた結果かもしれない。
スミは愛したビョンホを失いたくないために北の指令を伝えない。このためビョンホは北からも南からも狙われることになる。「一緒に逃げて。北でも南でもないところへ」というスミに対して、ビョンホは「反動的なことを言うな。俺たちは上から死ねと言われたら死ぬんだ」と答える。これが真意ならば、これまたラストにつながっていかないのである。そんなことを言いつつ、実はスミを深く愛していたという描写が少し欲しかった。
ハン・ソッキュの必死な形相の演技は空回りはしていない。コ・ソヨンの清楚さも良いし、1980年代の韓国の緊迫した雰囲気を十分に伝える映画にはなっているけれど、物語はどうも細部に詰めの甘さが残る感じが拭いきれなかった。
それにしても、「『シュリ』『JSA』そして…韓国超大作・最終章!」というこの映画のコピーはなんだ。「最終章」と断言していいのか。単に「第3弾」ぐらいにしておけば良かったのに。
2003/06/03(火)「8 Mile」
「ゆりかごを揺らす手」「L.A.コンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン監督の新作。というよりもヒップホップのエミネムの初主演映画といった方が通りがいいのか。今年のアカデミー賞ではラストに流れる「Lose Yourself」が主題歌賞を得た。
映画はそのエミネムの半自伝的な作品といわれる。1995年のデトロイトを舞台にラップで成功して、みじめな生活を抜け出したいと願う主人公ラビットの姿を描く。デトロイトはかつては工業都市として栄えたが、日本車の輸入攻勢で打撃を受け、街の中心部には黒人が8割を占めるようになったそうだ。街は荒廃し、ラビットの生活も貧しい。ピザ屋を解雇され、プレス工場で働く日々。トレーラーに住む母親(キム・ベイシンガー)は同居している若い男の機嫌を取るのに汲々とし、幼い妹の面倒もろくに見ない。家賃を滞納して立ち退きを迫られる始末。ラビットはガールフレンドとも別れ、ラップだけが支えになっている。ラップといえば、黒人の音楽なのでラビットは仲間の黒人に励まされながらもなかなか芽は出ない。
ラビットの作る歌はだから、世の中への恨みに満ちたものになる。八方ふさがりの現状への怒りと批判と復讐。それが分かるぐらいの描写をカーティス・ハンソンは十分に見せていく。過激なラップの歌詞とは対照的に演出は極めてオーソドックスなのである。ガールフレンドと別れたラビットが出会うアレックス(ブリタニー・マーフィー=リース・ウィザースプーンに似ている)も上昇志向のある女で、モデルになりニューヨークへ行くことを夢見ている。アレックスはラビットをプロモーターに紹介すると調子のいいことを言うウインクに抱かれてしまうのだが、ハンソンの演出はアレックスを悪い女には描いていない。
冒頭にラップ・バトルのシーンがあり、歌おうとして言葉が出てこないラビットが描かれる。当然、クライマックスはこれに呼応したシーンが用意される。ここで描かれるラップは昔のプロテスト・ソングのような存在で、他のものにも容易に置き換えられる。ハンソンはラップを描きつつ、普遍性のある“怒る若者”の映画に仕上げたかったのだろう。全体として好感の持てる映画だが、主人公の歌の才能をもっと描くと良かったかもしれない。登場人物たちが皆、主人公の才能を認めているのが観客にも納得できるような描写が欲しいところなのである。
2003/05/26(月)「めぐりあう時間たち」
純文学の趣。ただし、感心したのは純文学的な趣向ではなく、終盤の驚嘆すべき展開にある。1924年のバージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)と1951年のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)、2001年のクラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)の3人の女性の1日を描くこの映画、終盤のミステリー的な趣向で一挙に3つの時代が交錯してくる。そうか、○○は●●の××だったのか、ということが分かったその後の展開にいたく感心した。ムーアとストリープの演技(特にストリープ)がこの場面を支えている。主演女優賞を取ったのは付け鼻で本人の面影がないキッドマンだったが、ストリープでもムーアでも良かったかもしれない。
「リトル・ダンサー」に続いて監督2作目のスティーブン・ダルドリーの演出は知的で緊密な作業の積み重ねであり、デヴィッド・ヘアの脚本も見事。なぜこれが脚色賞を取らなかったのだろう。
原作はピュリッツアー賞とペン/フォークナー賞を受賞したマイケル・カニンガムの小説。デヴィッド・ヘアは早い段階でナレーションに頼らない脚色を決めたという。だから、原作のこんなセリフもクラリッサの口から語られることになる。
まだまだ幸せの序の口だと思っていた。でも、あれから30年以上の時が流れ、クラリッサはときに愕然とすることがある。あれが幸せだったのだ。…今ならわかる。あれこそまさに至福の時だった。あのとき以外に幸せはなかった。
3人の女はそれぞれに苦悩を抱えている。バージニアは精神を病み、ローラは日常に倦み、クラリッサはかつて恋人だったエイズの友人(エド・ハリス)に心を砕く。それぞれのエピソードが描かれる前半は、3人の演技と素晴らしい撮影とフィリップ・グラスのどこか「めまい」を思わせる音楽をもってしてもまあ、あまり心には響いてこない。他人の苦悩なんか知ったことか、という感じである。3つの時代のエピソードが絡まり合っていく過程で映画は輝き出す(1枚の写真でクラリッサとローラのつながりを見せるのがうまい)。と同時に前半の描写がじわりと効いてくる。
いつも眉を寄せ、病んだ感じを漂わせるキッドマンの演技に作りすぎの感じは否めない。それに比べてストリープの自然な演技はさすがだと思う。ムーアの中流家庭の満たされない主婦役もよかった。