2003/06/13(金)「ザ・コア」

 地球の核(コア)が停止して、人類滅亡の危機が訪れるというSFサスペンス。「コアが止まったら、動かす手段はない。もし、あるにしても我々が地中へ行けるのはせいぜい10キロ。とても地球の中心部まで行けない」という主人公の科学者ジョシュ(アーロン・エッカート)に対して、地球物理学の権威コンラッド(スタンリー・トゥッチ)が「行けたとしたら、どうだ」と切り返す。実は行けるのであった。20年前からユタ州の砂漠の中で1人の科学者(マッド・サイエンティストか!)が秘かに研究を続けていたのであった。という展開で、科学的考証無視の都合のいい映画である。地中に入ってからの液体の中を進むような描写にはとてもついて行けず、しかも、登場人物を順番に死なせていくことでドラマを構成する脚本は程度が低い。ジョン・アミエル監督の演出はまともだし、ヒラリー・スワンクなど出演者も悪くはないが、こういう脚本では最初からA級を目指すのを諦めているのと同じことである。

 コアは内核と外核で出来ていて、外核は緩やかに回転している。止まりかけているのはこの外核で、あと1年で完全に停止することが分かる。そうなれば、地球の磁場は消失し、地表は太陽風によって焼き尽くされてしまう。そこで米政府はコアへ向かう探査艇バージルを3カ月で完成させ、主人公をはじめ6人のテラノーツ(地中潜行士)が地球の中心部に向かうことになる。外核で核爆弾を爆発させ、再び回転させようとするわけだ。そこからの描写はまあ、「アルマゲドン」みたいなものである。

 前半、磁場が狂ったことで鳥が暴走したり、スペース・シャトルが軌道を外してロサンゼルスの川に着陸したり、巨大な放電によってローマが壊滅したりとかのVFXは良くできている。クライマックスと並行するサンフランシスコ壊滅のシーンも迫力満点。こういう場面を見ると、製作者たちはSFを作ろうという気はさらさらなく、パニック映画のようなことをやりたかったのだろうなと思える。

 事実に立脚して想像の翼を羽ばたかせるのがSFなら、この映画は最初からSFであることを放棄している。探査艇と地上の本部の通信が普通に描かれるけれども、数千キロ地下から地表とどうやって通信するのか。そういう細かい部分に一つ一つ説得力を持たせていかなければ、物語は絵空事で終わってしまう。登場人物が忠君愛国・滅私奉公みたいな精神で一人ずつ死んでいく描写は近年のアメリカ映画にはよく出てくる。SF的アイデアを発展させず、そういうアホな展開しか考えられない安易な映画の作り方では、いくら製作費をかけようと、映画はB級で終わってしまう。