2010/03/08(月)「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」

 テレビシリーズは一切見ていない。見ていなくても分かる作りになっていて、そこには好感を持った。テレビシリーズの最終回を映画でやるというのは最初からテレビの視聴者だけを相手にした映画になりがちだけれど、それを避けたのは賢明だった。

 なぜテレビを見ていなくても分かるのかと言えば、映画で描かれる決勝戦(ファイナルステージ)は独立したゲームだからだ。ゲームの参加者11人が3色のリンゴを投票するだけの「エデンの園」と呼ばれるこのゲームは、単純だがよく考えてあって、ツイストの連続。ゲームが1回終わるたびに意外な結果が現れ、登場人物がその種明かしをするという構成になっている。脚本は20稿に及んだそうだ。穴を防ぎ、つじつまを合わせるために脚本家の2人(黒岩勉、岡田道尚)は相当考えたに違いない。

 この脚本の練り方は評価に値する。ただし、、どうも見ていて小粒だなという印象になってくる。ゲームのような犯人捜しだけの本格ミステリは欧米ではとっくに廃れ、もっと現実に近づいたミステリがほとんどだ。ツイストにツイストを重ね、高い評価を受けているのはジェフリー・ディーヴァーぐらいか。この映画の場合、ゲームそのものが主体なので、そうした批判は当たらないし、騙し合いのゲームの中で人を信じるというテーマも備えているのだけれども、やっぱり物足りない思いは見ていて消しようがない。ゲームの中の心理戦に過ぎず、小さなところでごちゃごちゃやってる印象になってしまうのである。見ていてこういう練った脚本の在り方をゲームの外に持ち出して欲しいと思えてくる。実社会を舞台にしたゲームになれば、金子修介「デスノート」のように面白い映画になっていたかもしれないなと思う。

 セミファイナルでゲームを降りた神崎直(戸田恵理香)にファイナルステージの招待状が来る。1人が棄権したために直に出番が回ってきたのだ。直は天才詐欺師・秋山(松田翔太)の足手まといになりたくなかったが、今回のゲームは人を信じることが要求されると聞き、秋山を助けるためにゲームに参加することになる。参加者は11人。ゲーム「エデンの園」は金、銀、赤の3色のリンゴを投票し、最も数が多かった色のリンゴに投票した者には1億円が支払われる。全員が赤を選べば、全員が1億円を受け取ることになり、敗者はいなくなるが、ゲームに勝って賞金50億円を目指す参加者たちは1回目から裏切りに裏切りを重ねていく。

 舞台の孤島をもっと話に絡めて欲しいとか、悪役側をもう少し描けよ、とかいろいろ不満はある。しかし参加者11人にそれぞれスポットを当てながらもキャラクターがやや類型的になり、厚みを欠いていることが水準作ではあるけれどもそれ以上の作品にはならなかった一番の理由ではないかと思う。

 監督は映画初演出の松山博明。戸田恵理香はバカ正直な主人公にぴったり。松田翔太も雰囲気が良い。映画に登場するゲームの進行役ケルビムは「SAW」のジグソウに影響を受けているのは明らかだろう。映画全体の作りも影響を受けていると思う。

2010/02/28(日)「パラノーマル・アクティビティ」

 撮影期間7日間、製作費1万5000ドル(135万円)の映画が全米興収1億ドル(90億円)以上のヒットとなった。と聞けば、興味がわくが、内容は本当に大した事はなく、おまけにまったく怖くなく、これがなぜ大ヒットしたのか疑問を感じるばかり。上映時間1時間26分(1時間39分版もあるようだ)の映画だが、20分程度にまとめられるような内容だ。そうしておけば、短編映画として傑作になったかもしれない。アイデアが短編なのである。ビデオカメラのPOV(ポイント・オブ・ビュー=主観)映像で撮影された映画としては先行する「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」「クローバーフィールド HAKAISHA」「REC/レック」には遠く及ばない。この映画のヒット自体が幸運に恵まれたパラノーマル・アクティビティ(超常現象)のように思えてくる。監督・脚本・製作・編集のオーレン・ペリはイスラエル出身で、これが初監督作品という。

 ケイティ(ケイティ・フェザーストーン)とミカ(ミカ・スロート)が暮らす家に何かがいる気配がする。それをビデオカメラに収めようとするのが物語の発端。2人は寝室にビデオカメラをセットし、寝ている間も撮影を続ける。そのビデオには不気味な物音がしたり、ドアが風もないのに閉じたりという不思議な現象が映っていた。怪異現象は次第にエスカレートしてくる。ケイティは子どもの頃から、こうした現象に脅かされており、家自体が原因ではないようだ。

 というのが設定であり、物語のすべてである。ポルターガイスト現象を描いた21日間の物語で、幽霊の専門家が出て来て、「これは悪魔の専門家に任せた方がいい」とさじを投げる場面があったりするが、それ以外はカップルと怪異現象の描写が続くだけに終わる。怪異の正体がまったく出てこなかった「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」には不満を覚えたのだけれど、恐怖の醸成という点ではいい線行っていたと思う。あれは森の中に迷い込む恐怖が含まれていたからだろう。この映画の場合、普通の家(撮影した家はペリ監督の自宅だそうだ)の中で起きる現象のため、何かあったら逃げればいいじゃんと思えてくるのだ。

 もちろん、ケイティ自身に原因があるようだから、逃げても無駄なのだが、怪異以外の恐怖の要素が皆無なのは「ブレア…」に比べると弱いと思う。怪異現象によってあのカップルの人間関係がズタズタになるとか、そういう追い詰められた人間を描くような部分が必要だったのではないか。ホームビデオの映像にはリアリティを感じ、効果を上げていると思う。ただし、この手法も独自のものとは言えないのが辛いところだ。

 ラストはスピルバーグの助言で撮り直したという。オリジナルはどうなっていたのか気になるが、確かにこういうラストでなければ、観客は納得しなかっただろう。ちなみにこの映画、続編が決定し、公開日も今年10月22日に決まっている。なのにまだ監督が決まっていないという、普通のアメリカ映画では考えられないようなスケジュールである。7日間で撮影が終わった映画の続編なので、大丈夫なのだろう。続編では怪異の正体をたっぷりと描いてほしい。そして続編にも出るのなら、主演のフェザーストーン、10キロほど減量した方がいいと思う。

2010/02/15(月)「ゴールデンスランバー」

  「雅春、ちゃちゃっと逃げろ」。一向に敵の見えない展開で主人公の必死の逃亡だけが続き、工夫はいろいろ凝らされてあってもそろそろ少し飽きてきたかなと思ったところで、父親役の伊東四朗が出て来て画面をグッと引き締める。自宅に押しかけた報道陣を前に、息子の無実を心の底から信じている父親は息子を犯人扱いするマスコミを批判し、カメラに向かって息子に逃げ通せと捨て台詞を吐くのだ。

 「俺は子どもの頃から雅春を知ってる。家内はそれ以前から、お腹の中にいる頃から雅春を知ってるんだ」。父親は息子が首相爆殺などという重大な犯罪を犯す人間ではないことを強く訴える。現実の重大事件では子どもの両親をカメラの前で謝罪させることが当たり前のことのように行われているけれども、この場面はそれを批判してもいるのだ。そして父親の息子へのまったく揺るがない信頼と愛情の深さで胸が熱くなる。なにしろこの父親は正義感のかたまりで、小学生時代の息子に書道で「痴漢は死ね」と書かせたぐらいなのだ。

 黄金のまどろみ(ゴールデンスランバー)の中で起きた悪夢のような事件。いや、悪夢のような事件の中で主人公の青柳雅春(堺雅人)は自分を取り巻く人間たちをまどろみながら思い出す。運送会社に勤める主人公が事件の犯人に仕立てられたのは2年前、アイドル(貫地谷しほり)を救ってマスコミから紹介され、一躍注目を集めたためだったのだろう。追っ手の中には警察上層部がいて、事件の首謀者は国家の中枢部にいるらしいことは分かるが、詳細は分からず、青柳はまったく理不尽な逃亡を余儀なくされることになる。典型的な巻き込まれ型サスペンス。次々に迫り来る危機をくぐり抜けて逃走する主人公のサスペンスの部分もよくできているが、しかし、この映画の良さは疑うことを知らない人の良い主人公とそれを助ける周辺の人間たちを生き生きと温かく描いていることだ。

 かつての恋人の竹内結子、心ならずも青柳を陥れる策略に荷担する大学時代の友人・吉岡秀隆、後輩の劇団ひとり、運送会社の先輩渋川清彦、そして「びっくりした?」と言って登場する通り魔の濱田岳、入院患者でやくざな柄本明まで、俳優たちはみな印象に残る演技をしている。彼らが青柳を助けるのは青柳自身の善良な性格に好意を持っているからだろう。この映画の主眼が事件の解決よりもそうした人間たちを描くことにあったのは明らかであり、監督・脚本(林民夫、鈴木謙一と共同)の中村義洋は、その主軸を少しもぶれさせず、伊坂幸太郎原作をテンポ良く見事な映画に仕上げている。疾走するスピード感と密度の濃さを伴った2時間19分だ。主演の堺雅人はキャラクターを生かした役柄を演じきってうまい。追っ手側では、まるでターミネーターのような永島敏行が怪演していて面白かった。

 とはいっても、やっぱり事件は完全に解決させた方が観客の気分は良くなる。ぜひとも敵の正体を明らかにして鉄槌を下す続編を期待したいところだが、書く気はないのか、伊坂幸太郎は。

2010/02/13(土)「インビクタス 負けざる者たち」

  考えてみれば、昨年の「チェンジリング」「グラン・トリノ」はどちらも意外性のある物語だった。その意外性がドラマと密接に結びついて物語の痛切さを増幅させていた。これは「ミリオンダラー・ベイビー」にも「ミスティック・リバー」にも言えることだ。今回はストレートな物語である。黒人と白人の対立が根強く残る南アフリカで、ネルソン・マンデラ大統領がラグビーを通じて国民の融和を図ろうとする実話をクリント・イーストウッドはど真ん中の剛速球のようなタッチで描く。自国開催の世界選手権を勝ち進んだ南アチームの決勝戦を描くクライマックスには心を揺さぶられる。イーストウッドの演出は今回もほぼ狂いがない。

 ただし、“国の恥”と言われるほど惨敗していた南アチームがなぜ選手権までの1年間で強くなったかに説得力がない。スポーツを題材にした映画なら、チームが弱い原因を提示し、それを克服していくことで強くなっていく過程を描いていくのが普通だろう。そういう部分がこの映画には欠落しているのだ。だから南アチームは都合良く勝っていくだけに見えてしまう。もちろんイーストウッドは単純なスポ根映画を作るつもりなどなかったのだろうが、スポーツを取り扱う以上、こういう部分はとても重要なのである。これは端的に脚本の欠陥だと思う。黒人と白人の対立がチーム内にも影響を及ぼしていたという部分を描ければ良かったのだが、白人のスポーツと目されている南アの代表チーム・スプリングボクスに黒人は1人だけ。これではチームの姿を国に重ね合わせることは難しい。

 “One team, One Country”(一つのチーム、一つの祖国)という言葉がチームの統率と国の融和を象徴する言葉であることは分かる。主将のフランソワ・ピナール(マット・デイモン)がマンデラ(モーガン・フリーマン)に会って心服することで、チームの統率を高めていく展開も分かるのだけれど、それならば実力は秘めていながら統率が取れていなかったから弱かったという部分を強調する必要があるだろう。僕にはそこが弱く感じられた。

 バランスの難しい話なのだと思う。映画の冒頭に描かれるのは大統領に就任したマンデラの姿。初の黒人大統領を敵視する政府の職員たちが次々に去っていくのを見て、マンデラは呼びかける。「この国には皆さんの力が必要だ」。映画の重点は南アの人種対立を克服しようとするマンデラの姿にある。これはジョン・カーリンの原作もそうなのだろう。映画の主人公はあくまでもマンデラだ。代表チームに主軸を置いた構成にすれば、良かったのではないかと思う。代表チームが困難を克服していく過程がもっと描いてあれば、映画は説得力を増したに違いない。

 インビクタスとは英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(1849-1903)の詩のタイトルで、ラテン語で「征服されない、不屈」を意味する。27年間の投獄期間中、マンデラが心の支えにした詩なのだという。

2010/01/31(日)「今度は愛妻家」

  薬師丸ひろ子の映画でのベストは「Wの悲劇」だと思うが、それは25年も前のこと。最近は「ALWAYS 三丁目の夕日」など母親役が多いのも仕方がないかなと思っていた。「今度は愛妻家」の行定勲監督はかつての角川映画のように薬師丸ひろ子の魅力を引き出したかったのだそうだ。子どものいない結婚10年目の夫婦の役を豊川悦司とともに演じる薬師丸ひろ子は「Wの悲劇」に次ぐ好演を見せていると思う。

 元は中谷まゆみ原作の舞台劇。このため外に出る場面はあっても、基本的に家の中で話が終始する。「日本映画には珍しいスクリューボール・コメディ」と、キネ旬で北川れい子が書いていたが、それは大げさであっても、終盤のウエットな場面を除けばソフィスティケイテッドなコメディに仕上がっている。酒場で知り合った女優志望の女(水川あさみ)が家に訪ねてくるのを待っている夫が、箱根に向かったはずの妻が帰ってきてドタバタする冒頭の場面からとてもおかしい。飲んだ人が必ず吐き出すニンジン茶のエピソードは本筋と絡んで秀逸である。10年間で10人の女と浮気して離婚の危機にある豊川、薬師丸の夫婦もいいのだが、水川あさみとカメラマン豊川の助手を演じる純情で善良な濱田岳の関係が輪をかけて良い。「あんたなんか、何と思っていなかったのよ」「それは最初から分かっていたよ」という派手な女と地味な男の関係が泣かせるのだ。

 加えておかまの文ちゃんを演じる石橋蓮司もおかしいし、ちらりとしか出てこない井川遥も良い。これにストーリーの仕掛けが加わって、楽しめる映画になっている。

 その仕掛けについて以下に少し触れているので、未見の人は読まない方がいい。

 「そこであいつに会わなかったか?」。始まって15分ぐらいの場面にある豊川悦司のこのセリフで映画の仕掛けは分かった。後はその仕掛けに整合性が取れているかどうかを気にしながら見て、まずい部分はなかったと思う。この仕掛けは過去の映画にもあったし、昨年読んだ小説にもあったので珍しくはないが、そんなに長くは引っ張れないたぐいのものである。というわけで映画はラスト30分ほど前にこの仕掛けを明らかにする。そこからもう一つ、意外な人間関係が明らかになる。これは僕は予想していなかった。考えてみれば、前半にそれをにおわせるセリフはあったのだった。

 脚本の仕掛けというのは観客へのサービスみたいなものだから、凝った脚本の映画を見ると嬉しくなる。行定勲は出来不出来のある監督だが、こういう凝った脚本があれば、面白い映画はできるのだ。映画は一にも二にも三にも筋、というのを再認識させる作品だ。