2023/05/14(日)「TAR ター」ほか(5月第2週のレビュー)

 「TAR ター」は一筋縄では行かない映画です。ベルリンフィルハーモニー管弦楽団で女性初の首席指揮者となったリディア・ター(ケイト・ブランシェット)が自身の傲慢さとパワハラ、スキャンダルで転落していく話、とプロットは簡単にまとめられるんですが、冒頭の長いワンシーン・ワンカット撮影が気楽に見に来た観客を弾きますし、その後のストーリーの語り方も普通ではありません。

 例えば、何度か繰り返されるターが夜中に物音で目覚めるシーン。そのうちの1回、ターは棚の中で動いているメトロノームを見つけます。いったいこれは誰が何のために動かしたのか。好意を寄せている女性チェロ奏者の自宅が廃墟のようであるとか(ここはホラー映画のような音楽が流れます)、マンションの隣室の壮絶な状態とか、悪夢のような描写がたびたび挟まれます。一筋縄で行かないのはこうした場面の意味がまったく説明されないからです。意味不明な描写の数々に最初は戸惑ったんですが、要するにこれはターの追い詰められた精神状態を表しているのでしょう。

 強迫観念、権力と地位を失うことの恐怖、憎しみ、不安、焦り。ターの中にさまざまな考えと感情が渦巻いているのは想像に難くなく、そうしたものの発露がこのような描写になっているのだと思います。だからといって、これを「サイコスリラー」と結論づけるのも少し違う気がします。日常描写の中に妄想が紛れ込んでくる感覚から僕はデヴィッド・クローネンバーグ「裸のランチ」(1991年)を連想しましたが、あそこまで極端に妄想だらけではないことが逆にシーンの意味を把握しにくくしています。

 半面、オーケストラの演奏場面とブランシェットの演技はとても明快です。アカデミー主演女優賞にノミネートされたブランシェットは天才指揮者としてのリアリティーを備え、感情表現も素晴らしいです。ただ、幼い少女を冷酷に脅すような同情の余地のない傲慢で嫌なキャラクターではアカデミー会員の票を多数集めることは難しかったのでしょう。

 終盤、ターは東南アジアのどこかの国にいます。現地の人のセリフで「地獄の黙示録」(1979年、フランシス・コッポラ監督)のロケ地になったことが言及されるのでベトナムかと早合点してしまいそうになりますが、あの映画の撮影はフィリピンで行われたのでした。もっとも、国がどこかは重要ではなく、欧米人にとって言葉が通じない東南アジアには地の果てのようなイメージがあるのかもしれません。

 この国でもターは指揮棒を振ってるんですが、このラストシーンにはさまざまな解釈があります。これほど明快ではないシーンが多いと、トッド・フィールド監督は説明しないことが趣味なのではないかとさえ思えてきます。監督はこの映画について、クラシック音楽の知識は不要で「人間について、権力について、そしてヒエラルキーについての物語」と語っています。2時間39分。
IMFb7.5、メタスコア92点、ロッテントマト90%。
▼観客4人(公開初日の午後)

「パリタクシー」

 タクシー運転手のシャルル(ダニー・ブーン)が92歳の老婦人マドレーヌ(リーヌ・ルノー)を乗せる。行き先はパリの反対側の老人ホーム。道すがら、マドレーヌは寄り道を指示し、自分の過去を語り始める。

 その過去はそんなに驚くものではありませんが、現代に通じるテーマ(夫のDV)を含んでおり、そこも評価されているのでしょう。リーヌ・ルノーは今年7月で95歳。現役の歌手・俳優で、エイズ撲滅運動や尊厳死をめぐる活動家でもあるそうで、マドレーヌの役を演じるのに最適です。

 平日なのに満席に近くて驚きましたが、全国的にヒットしているそうです。監督は「戦場のアリア」(2005年)などのクリスチャン・カリオン。1時間31分。
IMDb6.9、ロッテントマト(ユーザー)100%、メタスコアなし(アメリカでは映画祭での上映のみ)。
▼観客多数(公開4日目の午後)

「ノートルダム 炎の大聖堂」

 個人的には「パリタクシー」よりも面白かったです。2019年4月のノートルダム大聖堂の火災を描くジャン=ジャック・アノー監督作品。アノー監督の映画を劇場で見るのは2001年の「スターリングラード」以来なので、なんと22年ぶりです。

 前半、火災の発生から急速に燃え広がるまでの緊迫感と臨場感は大変なもので、ニュース映像や一般の撮影映像も取り入れながら、スプリットスクリーンを多用して画面を構成しています。火災の原因については工事にあたっていた作業員のタバコの火か、施設の漏電か、双方の可能性を示唆していますが、焦点は消防隊員たちによる決死の消火活動と聖遺物の救出活動にあります。

 同時に大聖堂にはスプリンクラーなどの初期消火設備がなかったらしいことや、パリの渋滞と大勢の野次馬が集まったことで消防車の現着を遅らせたこと、学芸員が出火当時、ヴェルサイユ宮殿に行っていて聖遺物の救出がなかなかできないなど人為的な要因でイライラする事態が描かれます。

 終盤は北の鐘楼が焼け落ちるのをどう防ぐかが焦点になり、前半ほど広範囲の話になっていないのが残念ではありますが、大きな欠点ではありません。アノー監督は今年10月で80歳。その演出力は若い頃に比べて衰えは感じられませんでした。1時間50分。
IMDb6.4、メタスコア64点、ロッテントマトなし(アメリカでは映画祭での上映のみ)。
▼観客5人(公開6日目の午後)