2021/05/06(木)「アメリカン・マーダー」と嘘発見器

 Netflixで「アメリカン・マーダー: 一家殺害事件の実録」(原題American Murder: The Family Next Door)を見た。昨年9月から配信されているドキュメンタリー。2018年に米コロラド州で起こった殺人事件を題材にしている。特徴的なのはほとんどの映像に警察が撮影したビデオや家族が撮影した動画など既存のものを使っていること。被害者や加害者のSMSおよびSNSのやり取りや動画、警察の取り調べ中の映像も使って事件を再構成している。新たに撮影したのは空撮映像など一部と思われる。既存の映像で映画が作れてしまうのがあらためてすごいと思う。どんな動画でも残る時代なのだ。



 「一家殺害」というと、全員殺されたのかと思ってしまうが、被害者は妊娠中の母親と2人の幼い娘だ。そもそも事件の発端は失踪であり、3人が殺されたのかどうかも分かっていなかった。通報を受けた警察官が被害者の自宅に入る場面から撮影されている。アメリカの警官は常にボディカメラを身につけているから、こういう映像が撮れる。応対した夫はどこかおどおどしている。この夫がすぐに容疑者として浮上する。

 夫は結婚した時は110キロほどの体重があったが、今は減量して80キロ台の筋肉質の体型(逆に妻の方は結婚当初よりかなり太ったように見える)。「減量した男は浮気している可能性が高い」と、映画の中でナレーションがあるが、その通り、夫には不倫相手がいた。その不倫相手の女性まで実名、顔出しで登場するのだから恐れ入る。当然、本人の了承を得ているのだろう。

 圧巻なのは取り調べの映像。夫は当初、犯行を否定するが、嘘発見器にかけられて窮地に陥る。追及に耐えられず、父親との面会を要望。取調室に入った父親に対して妻殺害を話すのだ。死体が発見されていない以上、状況証拠しかない段階で嘘発見器の使用は自供を引き出すのに大きな効果があった。しかし、嘘発見器の結果自体が裁判所に証拠採用されることは少ないそうだ。犯人しか知り得ない事実を引き出すことが目的で、この事件の場合、3人の死体がある場所を自供したこと、つまり誰も知り得ない事実を知っていたことが決定的な証拠になった。

 たいていの容疑者は嘘発見器の結果が証拠採用されないなんて知らないだろうから、嘘を見抜かれたら、そこで観念してしまうだろう。動機と状況証拠しかない段階であれば、嘘発見器でどんな結果が出ようが、徹底的に否認を貫けば、罪を逃れることも可能かもしれない。かなり激しく追及されることは覚悟しなくちゃいけませんけどね。それでもアメリカのように取り調べ中の様子がきちんと撮影されているのであれば、暴力を使ったひどい追及の仕方はないのではないか。日本では取り調べの可視化はまだまだの段階らしいので、否認を貫くのは容易ではないと思う。

 この事件をまったく知らなかった僕は面白く見たが、IMDbの評価は7.2、メタスコア67点、ロッテントマト85%。ほとんどを既存の映像で構成するという作りは面白いが、事件を再構成しただけだから、際立った高評価にはなっていない。監督は女性のジェニー・ポップルウェル。

2021/03/30(火)「ノマドランド」に漂う諦観

 エンジンがかからなくなった車の修理費の工面に苦労する主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)の姿を見て、大学の学費が足りずに苦労する映画があったよなと思い、Netflixの「ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌」であることを思い出した。「ノマドランド」と「ヒルビリー・エレジー」はどちらも白人の貧困層を描き、ノンフィクションが原作であることも共通している。違うのは「ヒルビリー・エレジー」が俳優の演技を除いて酷評されているのに対して、「ノマドランド」はアカデミー作品賞にノミネートされるなど高い評価を得ていることだ。

 「ヒルビリー・エレジー」の主人公は貧困から抜け出すことに成功し、投資会社の社長になった(だから自叙伝のような本が出版できた)。「ノマドランド」に登場する車上生活の高齢者たちは死ぬまで働かないと暮らして行けない。「12歳から働いて娘2人を育て上げたのに、年金は500ドルしかもらえない」と登場人物の1人は嘆く。息子と和解して息子の家で暮らすことになったデイブ(デヴィッド・ストラザーン)は恵まれている方で、家族を持たない多くのノマドの人たちに将来の展望はないだろう。映画はそうしたノマドの生活を詳細に淡々と描いていく。登場するのも本当のノマドたちでドキュメントのような様相もある。



 ファーンの夫はネヴァダ州のUSジプサム社に勤めていたが、リーマンショックの影響で工場と社宅が閉鎖され、企業城下町だったエンパイアは町ごとなくなった。代用教員だったファーンは夫の死後、車上生活を余儀なくされる。アメリカは家賃の高騰で中流階級であっても、ちょっとしたことですぐにホームレスになってしまうそうだ。ファーンはショッピングセンターで出会った知り合いの娘から「ホームレスなの?」と聞かれて「ハウスレスよ」と答える。端から見れば、両者は同じように思えるが、ハウスレスは積極的に家を持たない生き方であるというファーンの矜持なのかもしれない。

 ファーンが働くのはamazonの配送センターなどだ。amazonは過酷な職場と言われるが、映画にそうした描写はない。それを描くことが目的ではないという理由以上にそうした描写があったら、amazonが映画に協力することはあり得ないだろう。amazonが恒常的に雇ってくれればいいが、高齢労働者が働けるのはクリスマスシーズンなど忙しい時期だけのようだ。amazonの駐車場は働いているうちは電気と水道が使えるが、職を失うと月に300ドル以上かかる(350ドルだったか)。

 都会には車を駐める場所はない。車中泊をしていると、警官に注意される。必然、ノマドは荒野に集まることになる。荒野がなければ、ノマドという生き方は成立しないのだろう。映画にはアメリカの広大で美しい風景がたびたび出てくる。一種、ロードムービーの趣があり、風景と絡めて60年代から70年代にかけてのアメリカン・ニューシネマを思わせたりもするけれど、ニューシネマに登場したのは若者だった。高齢者が刹那的な生き方に追い込まれた状況には複雑な思いを持たざるを得ない。

 監督のクロエ・ジャオはマクドーマンドについて「私はフランを(伝説的コメディアンの)バスター・キートンと比べてしまいます。彼女は体をはったギャグがそれくらいうまいのです」と語っている。僕は別の意味でキートンを連想した。この映画のマクドーマンドの表情からは内面の真意が見えないのだ。他のノマドたちも同様だ。恐らくそれは現状を脱する手段が見つからないゆえの諦観が作用しているのだろう。死ぬまで安楽は訪れない生き方にノマドたちは諦観と静かな怒りを抱えているのだと思う。

 映画に流れるピアノ曲がルドヴィコ・エイナウディ(「最強のふたり」)のようだと思ったら、まさにエイナウディが音楽を担当していた。美しい音楽に惑わされて美しい映画だなどと思ってはいけない。厳しい現実を映した映画なのだ。

2021/03/28(日)ドキュメンタリーと演出

 アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた「オクトパスの神秘:海の賢者は語る」をNetflixで見た。南アフリカの藻場でタコを観察する映画製作者クレイグ・フォスターの1年間を描く南アフリカ映画。原題は“My Octopus Teacher”。直訳すると、「私のタコ先生」で、思わず笑ってしまいそうになるが、映画は大真面目だ。

 海中の魚や軟体動物などをとらえた映像は極めて美しく、途中まではふむふむと見ていたが、タコがサメに襲われる中盤のエピソードで疑問を覚えた。海底の岩場に潜ったタコの足をサメが食いちぎるエピソード。映画は穴に頭を突っ込んだサメ、サメの口の中に見えるタコの足、そして1本の足がないタコのショットを続けて見せる。サメがタコに食いついている直接的なシーンはないので、これ別々のシーンをつないだだけの演出ではないかと思えてくるのだ。



 足が1本ないタコの姿は痛々しいが、しばらくして小さな足が生えてきているのを発見した主人公のフォスターは大喜びする。タコを観察している人なら、タコの足が再生することぐらい知ってるでしょう。何をそんなに喜んでいるのか。タコは危機が迫ると、トカゲが尻尾を切り離すように自分で足を切り離すこともあるのだそうだ。サメに噛みちぎられたのではなく、噛まれたので自分で切り離した可能性もある。

 サメ対タコの対決は終盤にもある。タコは身を守るために体中に貝殻を付ける。サメはかまわず貝殻ごとタコを加えて振り回す。ここで撮影していた主人公は息継ぎのために海上へ(アクアラングは着けていない)。再び潜ってみると、タコが攻撃を防ぐためにサメの背中に乗っていた。うーん。本当か、それ。

 この後、タコは交尾をして、卵を産み、そこで息絶える。主人公は涙をにじませながら、タコとの別れを話すのだ。センチメンタルな音楽まで流す念の入れようだ。

 動物を擬人的に扱うドキュメンタリーには昔から批判が多い。以前読んだ筒井康隆さんの動物に関するエッセイには動物学者が動物の行動を判断する場合には人間の行動から一番遠い判断をするのが正しいと書かれていたと記憶する。この映画、タコを擬人化しすぎではないか。にもかかわらず、IMDbの評価は8.2、メタスコア76、ロッテントマト100%と、すこぶる高い。皆さん、コロッと騙されているのではないですか。

2020/09/21(月)「怪獣映画の夜明け」

 Hulu上で開催の「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2020」で上映された1本。映画「ゴジラ」誕生の過程と意義を中心にゴジラ映画の変遷を関係者のインタビューを通じて探る。監督はスペインのジョナサン・ベレス。上映時間51分。

 ゴジラ映画のドキュメンタリーとして特に優れているわけではないが、入門編としてはまずまずだし、関係者の多くにインタビューしていることに好感が持てる。登場するのは宝田明、中島春雄(ゴジラ第1作のスーツアクター、2017年死去)、薩摩剣八郎(1984年版「ゴジラ」以降のスーツアクター)、監督の大森一樹、金子修介、手塚昌明、特技監督の川北紘一(2014年死去)などなど。俳優の小泉博(2015年死去)、久保明の姿が見られたのは懐かしかった。既に亡くなっている3人の死去した年を見ると、数年がかりでインタビューしたのだろう。この3人に対する献辞が最後に出る。

 IMDbのデータThe Dawn of Kaiju Eiga (2019)によると、日本で2019年4月2日公開とある。セルバンテス文化センター(インスティトゥト・セルバンテス東京)が特別試写会を行ったらしい。IMDbの採点は8人が投稿して8.6。これは高すぎる。僕は7点を投稿した。

 さて、Huluで初開催の「ゆうばりファンタ」の評価はどうなのだろう。普通の映画祭同様にタイムテーブルに沿って上映(配信)されているのだが、Huluのような配信サービスの特性を生かすなら、上映時間を定めずに期間中何度も見られるようにした方が良かったのではないか。その方がより多くの視聴者の目に届くだろう。せっかくの試みなのにもったいないと思う。

2020/06/22(月)「ウエスタン」と「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」

 NHK-BSプレミアムが19日に「ウエスタン」を放映した。ところが、これ上映時間は2時間45分あった。ご存じのようにセルジオ・レオーネ監督の「ウエスタン」は1969年の日本公開時に2時間21分の短縮版が上映された。興行上の理由だろう。そして昨年9月、2時間45分のオリジナル版が「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」のタイトルで「日本初公開」と銘打って劇場公開された。

 だから「ウエスタン」というタイトルならば、短縮版だろうと思い込んでいたのだ。考えてみれば、劇場公開時の短縮版にすぎないわけだから、テレビ放映やソフト化の際に短縮版を使う必要はないのだ。ちなみにアメリカの劇場公開版は日本版より4分長いそうだ。こういう時、配給会社が勝手にフィルムを切って良いのだろうか。それとも監督やプロデシューサーに短くするよう依頼するのだろうか。気になるところだ。

 映画はベルナルド・ベルトリッチとダリオ・アルジェントがストーリーの原案を書いていることと、ヘンリー・フォンダが珍しく悪役を演じているという注目点がある。ハーモニカを吹く謎のガンマン(チャールズ・ブロンソン)がフォンダ演じる極悪ガンマンのフランクを倒すのが本筋。これに鉄道工事を巡り、フランクに家族を殺されたジル(クラウディア・カルディナーレ)と、その冤罪を着せられたガンマンのシャイアン(ジェーソン・ロバーズ)が絡んでくる。はっきり言って、2時間ぐらいに収まりそうなストーリーなのだが、悠揚迫らぬタッチというのもレオーネ映画の魅力ではあるのだろう。

 映画を見始めて、タイトルが出ないことに気づいた。これはもしかして、と思ったら、やはり最後にタイトルが出た。クエンティン・タランティーノ監督は「この映画を見て映画監督になろうと思った」そうだから、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のタイトルがこの映画の影響を受けているように、タイトルの出し方も影響されたのだろう。もっとも、タランティーノの映画でタイトルが最後に出たのはとても効果的だった。シャロン・テート事件をまるでおとぎ話のような結末にした後に見せるこのタイトルは絶妙なのである。

 amazonでは「ウエスタン」のブルーレイが980円で販売されている。上映時間は166分で1分長いが、誤差の範囲内でしょう。


 それにしても、去年の劇場公開時の「日本初公開」はいかがなものか。あくまで「日本の劇場で初公開」でしょう。DVDやブルーレイ、動画配信サービスでは何年も前から完全版を見ることができていたのだから。