2000/10/18(水)「インビジブル」
ポール・バーホーベン監督の“透明人間”もの。天才だが、性格は悪い科学者(ケビン・ベーコン)が自分を人体実験にして透明になる。そして性格がもっと悪くなるというお話。SFというよりもホラーで、科学者が透明になってからの振る舞いは化け物そのもの。秘密を守るため、部下の科学者を1人1人殺していくクライマックスはスラッシャー映画を思わせる。殺す動機も無茶苦茶である。
透明人間をテーマにした映画はH・F・セイント「透明人間の告白」をジョン・カーペンターが監督した「透明人間」(1992年)以来か。ま、カーペンターの映画もあまり出来は良くなかったから、このテーマ難しいのだろう。
「インビジブル」が変わっているのは透明になる技術は簡単に確立できたのに元に戻すのができないという設定。ケビン・ベーコンは元に戻す方法を思いつき、ゴリラで成功する。しかし、人間には通用せず、あわれ透明になったままになる。やけになってやりたい放題の振る舞いをするわけだけれど、女子トイレに侵入したり、隣に住む憧れの女に迫ったりで、どうも天才科学者とは思えない品性の低さである。そこがバーホーベンらしいといえばらしいところ。
主人公は科学者の元恋人で、やはり科学者のエリザベス・シュー。「エイリアン」のシガニー・ウィーバーを彷彿させる役柄だ。バーホーベンはオランダ時代の作品を含めて好きな監督なのだが、最近は不調といっていいのではないか。
2000/10/16(月)「オータム・イン・ニューヨーク」
中年プレイボーイと難病の若い女性との愛。と聞いただけでほぼ内容の想像はつくし、映画もそういう風に収斂していくのだけれど、そんな不満をウィノナ・ライダーが救っている。間もなく29歳になるライダーは22歳の役をやってもなんら違和感がなく、この映画の魅力はライダーが一身に背負っていると言っていい。まったく、ほれぼれするほど美しく、いつまでもいつまでも見ていたくなる。
女優が輝く時期というのは実はとても短い。せいぜい30代前半までだろう。10代のころから映画に出ているライダーは今が本当の旬の女優なのではないかと思う。
だからこそこのありふれた結末では惜しい。難病だからといって、お涙ちょうだいものにする必要は何もないのである。むしろハッピーエンドになっていたら、そんな馬鹿なと思いつつも、もっともっと気持ちの良い映画になっていただろう。いや、もちろん、この映画で感動する人もいると思う。僕だって途中、いくつかジンと来る場面があった。でもね。そんなありふれたパターンでは感動の限界というものがあるのである。
監督2作目のジョアン・チェンの演出が悪いわけでもリチャード・ギアら俳優の演技が悪いわけでもなく、この映画の不備はすべて脚本にある。
2000/10/11(水)「X-メン」
アメリカン・コミックスのヒット作を「ユージュアル・サスペクツ」(傑作)のブライアン・シンガー監督が映画化した。今からそう遠くない未来を舞台に、人類を憎悪し、滅ぼそうとするミュータント、マグニートー(イアン・マッケラン)の一味とそれを阻止しようとするエグゼヴィア教授(パトリック・スチュアート)率いるX-メンが対決する。設定もストーリーもまずまずなのだが、なんとなく盛り上がりに欠ける。主人公格のウルヴァリンを演じるヒュー・ジャックマン(若い頃のクリント・イーストウッドみたい)がやや弱いためか。
「敵は強大、味方はわずか」というのがこの映画のコピー。でも敵だって4人しかいない。数から言えば、X-メンの方が多いんですよね。ただ、弱い。ウルヴァリンもストームもサイクロップスもジーン・グレイもクライマックスにマグニートー一人に歯が立たない。テレキネシスだ、破壊光線だといっても一人一人の力は大したことないんですね。
ミュータントはその恐ろしい能力ゆえに社会から阻害された存在という設定だけれど、それをもう少しストーリーに絡めると良かった。ティム・バートン「バットマン リターンズ」のような深みが欲しかったところ。ブライアン・シンガーの演出は可もなく不可もなくといったレベルで、物語が発端のせいもあって、交通整理で終わった感がある。3部作となることが決まっているらしく、次はウルヴァリンの改造の秘密が中心になるのだろう。ウルヴァリンは仮面ライダー(あるいはロボコップ)のような存在で、改造人間ゆえの悲劇性がつきまとう。これを前面に押し出せば、もっとなんとかなるかもしれない。次に期待したい。
パトリック・スチュアートは適役。ファムケ・ヤンセン、アンナ・パキン、ハル・ベリー、ついでに変幻自在のミスティーク役レベッカ・ローミン・ステイモスも含めて女優陣は良い。
2000/09/27(水)「マルコヴィッチの穴」
ビルの7と1/2階に15分間だけ俳優ジョン・マルコヴィッチになれる穴がある、という設定がもう奇想そのもの。監督のスパイク・ジョーンズの手腕というよりも脚本を書いたチャーリー・カウフマンの発想を褒めるべきだろう。主人公のクレイグ(ジョン・キューザック)は売れない人形使いで、生活のために就職する。オフィスは7階と8階の間の天井の低いフロアにある。天井が低い代わりに家賃も低く、入っているテナントは零細企業ばかり。勤務者はみんな背をかがめて歩かざるを得ないというこの設定からおかしい。
クレイグはふとしたことからロッカーの裏に小さなドアがあるのを見つける。中に入ると、そこはジョン・マルコヴィッチの頭の中だった。そこではマルコヴィッチの目で外を見て、感じることができる。クレイグは思いを寄せるマキシン(キャスリーン・キーナー)とともにこれで商売を始める。1回200ドルでマルコヴィッチを体験させるわけである。妻のロッテ(キャメロン・ディアス)もこれを一度体験し、病みつきになる。ロッテは実は性倒錯者(と本人は言うが、性転換を望んでいるから性同一性障害だろう)で、マルコヴィッチの穴の中にいる時、マキシンと愛し合ったことから複雑な三角(四角?)関係が始まる。
SFオンラインはウディ・アレンと絡めて評していた。確かにアレンの短編小説のおかしな味わいに通じるものがある。小説ではこうした奇想、珍しくはないが、映画ではなかなかない。それこそアレンの「SEXのすべて」(「ウディ・アレンの誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」)とかオムニバス映画「ニューヨーク・ストーリー」の第3話とかを思い起こさせる。
アイデンティティーの話なども出てくるが、基本的にこれは奇想を楽しむユーモア映画。なぜマルコヴィッチになれるかもきちんと説明している点に好感が持てる。そしてその説明からもストーリーが発展するのである。不条理な設定だが、不条理な映画ではなく、SFに近い。クスクス、ゲラゲラ笑って見た。
2000/09/20(水)「ミュージック・オブ・ハート」
「エルム街の悪夢」のウェス・クレイブン監督による心温まる実話の映画化。ドキュメンタリーとして以前映画化され(邦題「ハーレムのヴァイオリン教室」)、1996年のアカデミー長編ドキュメンタリーにノミネートされたそうだ。
それをクレイブン監督が見て感動したのが、映画化のきっかけ。クレイブンとしては初のホラー以外の映画になるが、演出には前から定評があるので、まず面白い映画に仕上がった。映画は前半と後半にはっきり分かれる構成。前半は主人公のロベルタ・ガスパーリ(メリル・ストリープ)がハーレムの小学校でバイオリン教室を軌道に乗せるまで。後半は一気に10年後に飛び、市教委から予算を打ち切られ、教室が危機に陥る話。ここがドキュメンタリーで描かれた部分で、ロベルタは生徒の親や友人の助力を得て、教室を存続するためのコンサートを企画。アイザック・スターンをはじめ一流のバイオリニストが協力してカーネギー・ホールでの公演にこぎつける。
最初は“ハーレムの子どもを救うためにやってきた白人教師”と皮肉に受け止められるロベルタの前半の描写が良く、ここだけでも1本の映画として面白くなったと思う。しかし、それではエドワード・ジェイムス・オルモス「落ちこぼれの天使たち」の二番煎じになってしまう。ウェス・クレイブンは教室の中よりもロベルタの人となりを描く部分を重視したようで、ストリープが監督の期待に応えて絶妙の演技を見せる。後半はまあ、ドキュメンタリーには負けるのではないか。トントン拍子に話が進みすぎる気がしないでもない。実話でなければ、カーネギー・ホールでそんなに簡単にコンサートなどできるかい、と思うところだ。
全体的にハッピーな感覚が好ましい映画で、へたに感動を強要しないところがいい。