2001/09/25(火)「東京マリーゴールド」
林真理子の短編「1年ののち」を市川準が田中麗奈主演で映画化。市川準の映画を見るのは久しぶりだが、これは傑作。
契約社員の酒井エリコ(田中麗奈)が合コンでエリート・ビジネスマンのタムラ(小沢征悦)と出会う。酔っぱらったタムラを介抱したエリコにタムラは「携帯の番号もらってくれないか」と手渡す。なんとなく電話をかけたエリコはタムラとデートするが、そこでタムラにはアメリカに留学している恋人がいることが分かる。もう会うこともないと思っていたが、ある小劇場で偶然再会。タムラを本当に好きになってしまったエリコは「彼女が帰ってくるまでの1年間だけでいいから、わたしとつき合って」と言ってしまう。ここから1年間の期限付きの恋愛が始まる。
市川準はいつものように淡々と撮っているが、田中麗奈の魅力は画面の隅々まで弾けている。タムラとの何気ない生活ぶりもいいのだが、ラスト近く、喫茶店での場面の鬼気迫る表情には脱帽した。この場面、田中麗奈自身、「自分で見ても衝撃的だった」と語っている。アイドルではなく映画女優として大きく羽ばたく逸材であることを田中麗奈はこの場面で証明した。
1年間の期限付きだからラストは別れるか、続けるかの2つしかない。映画もそのように進行するが、その後に絶妙のオチがある。それまでのストーリーを別の視点で見なくてはいけなくなるようなオチ。いや素晴らしい。感心した。これによって映画は単なるラブストーリーではなく、1人の女性の成長を描くものになった。スーザン・オズボーン「ラブ・イズ・モア・ザン・ディス」が流れるラストが晴れ晴れとしてとてもいい。
タイトルのマリーゴールドは1年で花を咲かせて散ってしまう1年草。期限付きの恋愛とかけているわけだ。正社員になりたいと思いながら、1年間の契約社員であるエリコの境遇も内容と符合している。
2001/09/22(土)「仮面ライダーアギト PROJECT G4」
無数のアンノウンが超能力研究所を襲う。超能力を持つ沙綾香とレイは難を逃れるが、離ればなれになってしまう。数週間後、警視庁G3ユニットの小沢澄子(藤田瞳子)のもとに自衛隊から深海理沙(小沢真珠)が派遣される。理沙の狙いは澄子が開発途中でやめたG4の研究を盗むことだった。理沙は翌日、一方的に辞めてしまう。2カ月後、流行を始めた携帯サイト「ESPクイズ」が呼び水となり、ふたたびアンノウンの群れは蠢動を始める。アンノウンは超能力者に感応して現れるらしい。津上翔一=アギト(賀集利樹)と氷川誠=G3(要潤)がアンノウンと戦っているところにG4も現れ、圧倒的な強さを見せつける。しかし、G4には弱点があった。それを装着する人間の命をやがて奪ってしまうのだ。理沙はG4のパワーを高めるため、超
能力者を利用しようとしていた。そして理沙は翔一と暮らす予知能力者・風谷真魚(秋山莉奈)を誘拐する。アギトとG3はアンノウンの襲撃に迎え撃ちながら、真魚の救出に向かう。
と、プロットを書くと、何が焦点だか分かりにくいが、このシリーズ、人間を超えてしまったものの悲哀が根底にあるようだ。パンフレットにある田崎竜太監督の3人のライダーに関する説明が非常に分かり易い。
力を得る=一つの戻れない境界線を越えてしまうこと。3人はその境界線に対してそれぞれ違うポジションにあって、いつの間にか越えちゃってるの
がアギト。越えたくないのに越えちゃったのがギルス。越えようとしてもがいてるんだけど、絶対に越えられないのがG3。
アギトがどういう存在なのか、まだテレビシリーズでも明らかにはされていないらしいけれど、位置づけとしては改造人間である従来の仮面ライダーとそう大きくは変わらないだろう。変身することで自分の体を傷めるギルスの風貌は仮面ライダーアマゾンみたいな感じだが、超能力者の悲哀を最も感じさせるキャラクター。G3-Xは単純にパワードスーツ(強化防護服)である。警視庁に所属しているところを見ると、G3の元ネタはロボコップなのだろう。もっともロボコップも元ネタは日本のテレビシリーズなわけですが(「宇宙刑事シャリバン」だったか)。
今回の映画は死を厭わないG4の悲哀をもっと重点的に描く必要があったように思う。その悲哀はアギト、ギルス、G3-Xにも共通してくるものなのである。上映時間が短いこともあって、プロットをなぞっただけの印象に終わっている。設定は面白いのに、惜しい。
といっても、僕もテレビシリーズは一度しか見ていないので物語の背景はよく知らない。アギトのホームページであらすじを読んだ程度。見たことがない人は読んでおいた方が、映画はより楽しめるかもしれない。
2001/09/18(火)「ウォーターボーイズ」
男子校の唯一の水泳部員がひょんなことからシンクロナイズド・スイミングを始める青春映画。発端はなんだか「リトル・ダンサー」に似ているが、感動的な展開だったあの映画とは異なり、こちらはゲラゲラ笑って見終わる。下品な笑いはなく、実にさわやか。気持ちがいい。矢口史靖監督の演出はスピーディーかつ的確で、しみじみなどという湿った世界とは無縁のカラリとした世界。あれよあれよと言う間の1時間31分である。シンクロの専門家に教わらず、上達するのは現実的ではないし、ちょっと気にはなるが、大会に出るわけでもなく、文化祭での発表が目的なのだからこれでいいのかもしれない。
大会で主人公の鈴木智(妻夫木聡)が100メートルを泳ぎ終わると、コースの左右に他の選手がいない。まだ他の選手はゴールしていないのか? 「え、まさか」とつぶやく智に「速く上がれよ」との声。何のことはない、他の選手はとっくにプールから上がっていたのだった。というオープニングから快調そのもの。智は唯野高校の唯一の水泳部員。3年生最後の大会も終わり、部は廃部寸前だった。そこにスタイル抜群の若い佐久間先生(真鍋かおり)が赴任してくる。水泳部の顧問になった佐久間先生を目当てに部員は28人に増える。しかし、佐久間先生、実は水泳ではなくシンクロの先生だったことが分かり、一挙に5人にまで減ってしまう。男子のシンクロに意欲を燃やす先生は文化祭で披露することを勝手に決めるが、なんと妊娠8カ月であることが判明。出産準備のため実家に帰ってしまう。もうこのあたりのつるべ打ちのギャグが最高である。智たち同様、観客もあっけにとられるほかない展開。
5人はこれ幸いと文化祭での発表は取りやめにする。しかし、周囲からバカにされたのに腹を立て、やはり文化祭を目指すことになる。ところが、プールは既にバスケットボール部が釣り堀にするため、魚を放流していた。魚をすべてすくい上げたら、プールを使わせてやるとのバスケット部の言葉にカチンと来ながらも5人は魚をかき集めようとする。水を抜いて捕まえようとしたのはいいが、途中でガードマンに見つかり、魚はすべて死んでしまう。こうなったら、文化祭で入場料を取って弁償するしかない。という風に追いつめられた設定を用意しているのが非常にうまい。
落ちこぼれの生徒が困難を克服しながら目標に突っ走るというのはスポーツ映画の常道で、「がんばれベアーズ」や「シコふんじゃった。」、近くは「タイタンズを忘れない」まで必ずこういう設定を用意している。矢口監督はそうしたスポ根映画になるのを嫌ったそうで、確かにスポ根とは一線を画した笑い満載の青春映画になっている(文化祭の最大の目標が近くの桜木女子高の生徒をいかに多く集めるか、という点で実行委が一致するのがおかしい)。しかし、成功の要因はやはり落ちこぼれがヒーローになるというスポ根映画の快感にある。矢口監督はその過程に細かいギャグをたくさん詰め込んでいるので、スポ根には見えないが、路線としては同じなのである。だからシンクロの専門家に教わるシーンを少し入れれば、説得力は増
したと思う。
主人公をはじめ高校生を演じる役者たちは決して演技がうまいわけではないが、実に好感が持てるキャラクターばかり。主人公のガールフレンドで空手の達人を演じる平山綾もいいし、水族館のイルカの調教師役で5人に(いいかげんな)合宿特訓をする竹中直人も「Red Shadow 赤影」よりおかしい。シンクロシーンに関しては世評ほど僕はすごいとは思わなかったが、映画を締め括るクライマックスとして申し分ない仕上がりである。
2001/09/11(火)「Red Shadow 赤影」
かつてのテレビシリーズ「仮面の忍者 赤影」とは別物。いや、影一族が出てくるのは同じだが、怪獣は登場しない。テレビの赤影の魅力は怪獣映画と思わんばかりの怪獣登場シーンにあったわけだから、この映画化、あまり面白くない。しかしそれよりも問題なのはストーリーに骨太なものがないこと。
最初の30分ぐらいのアホさ加減にはほおが引きつる。かっこいい正義の味方という赤影のイメージぶち壊し。赤影(安藤政信)も青影(村上淳)も軽薄すぎる。唯一いいのは飛鳥役の麻生久美子。もっと活躍させるべきでした。
敵も味方もボス役には貫禄がある。津川雅彦、神山繁、根津甚八、陣内孝則といった役者は時代劇らしい演技を見せてくれる。しかし、赤影と青影がこれではね。ユーモアに逃げた前半はまったくダメ。笑えないのが致命的。物語らしくなる後半は少し良くなったという印象。最初から、後半のタッチで作れば良かったのだ。
中野裕之監督の映画は実はこれが初めて。もうちょっと、しっかり作らなきゃダメでしょう。音楽も忍者映画には合わない気がする。
麻生久美子と奥菜恵は髪型を同じにすると、外国人には見分けがつかないのでは? 顔の形が似てますね。竹中直人は白影役にはぴったり。大凧に乗って登場するシーンはテレビシリーズへのオマージュか。
2001/09/04(火)「大河の一滴」
五木寛之のエッセイと原案から新藤兼人が脚本化し、神山征二郎が監督した。このコンビならまず死角はないと思えるが、残念ながら映画の出来は芳しくない。主人公を演じる安田成美の幼稚な演技が誤算。この人、黙っていれば、まだ何とかなるが、セリフをしゃべり、身振り手振りが加わると、その硬さ、稚拙さにあきれる。もっと自然な演技を身につけてほしいものだ。脇を固める三国連太郎や倍賞美津子らが自然体演技なので余計にそう感じられる。もう一人、渡部篤郎の演技は自然体とは言えないが、うまさを感じる。硬いセリフを普通の人間がしゃべる言葉に変換してしゃべっているよう。アドリブだろうが、うまいし、好感が持てる。
主人公・小椋雪子は29歳。東京で友人の川村亜美(南野陽子)が経営する輸入雑貨店で働いている。商品の買い付けにロシアへ行った際、ロシア人のガイド、ニコライ・アルテミコフ(セルゲイ・ナカリャコフ)と知り合う。ある日、東京の雪子にニコライから電話がある。ニコライはトランペット奏者でオーケストラのオーディションを受けるため、来日していたのだ。しかし、オーディションは不合格。そんな時、金沢に住む雪子の父親(三国連太郎)が倒れたとの知らせが届く。父親は肝臓ガンと肝硬変を併発していた。もって半年の命。父は手術をせず、今まで通り祖父から継いだ特定郵便局長としての仕事に打ち込む。
映画は後半、父親の生き方とそれを支える母(倍賞美津子)の姿、雪子と幼なじみの昌治(渡部篤郎)、ニコライの三角関係に焦点が絞られる。これはいいのだが、前半の描写が性急で、余計なものが多すぎる。亜美が恋人に金をつぎ込んで、店を潰し、自殺するという描写などは何のために描いたのか。南野陽子は好演しているのだが、映画の本筋に絡んでこないし、語り口が性急すぎる。さーっと表面的に描いて終わりである。
主人公のキャラクターもいただけない。このバカな女は「あたしやっぱり昌治と結婚するのかなあ」などと言いつつ、不法滞在で送還されたニコライに会いにロシアまで行くのに、昌治に同行するよう頼むのである。人の良い昌治は悩みながらも承諾する。三角関係の決着の付け方も不十分だし、これでは昌治がかわいそうである。
こういう関係で思い出したのは、たとえが古くて申し訳ないが、山本周五郎「柳橋物語」。主人公の娘はバカな男の良いところだけを見て、男を待ち続け、そばにいる素晴らしい男に気づかない。そばの男がいなくなって初めてその男の良さが分かり、思いを寄せてきた男のバカさに気づく。
もしかすると、新藤兼人脚本は渡部篤郎を描くためにこういう設定にしたのかもしれないとも一瞬思ったが、それにしてもこの主人公の設定はないだろう。神山征二郎は「わがままというのは心が純粋ということ」と言っているけれど、29歳にもなった女のわがままは迷惑なだけである。
ニコライ役のセルゲイ・ナカリャコフは国際的に活躍するフランス在住のトランペッターとのこと。これまた稚拙な演技にあきれ果てる。トランペットはできなくても本職の役者を起用すべきだったのではないか。