2002/12/23(月)「ミニモニ。じゃMOVIE お菓子な大冒険」

 「ガメラ」などのVFXを担当した樋口真嗣(クレジットはヒグチしんじ)の監督デビュー作。ミニモニ。を主人公にするというお仕着せの企画を逆手にとって実写と3DCGアニメを融合させた楽しい作品に仕上げてある。

 極彩色で人工的なセットはそのままアニメの世界に通じるものになっており、樋口真嗣のビジュアルな設計は見事。シュークリームのロボットは「ギャラクシー・クエスト」の岩のエイリアンを思わせる。「シュレック」あたりも参考にしているようだ。ミニモニ。が歌と踊りも披露するというアイドル映画として正しい映画化といえる。女王の声を演じる中沢裕子の歌のみ減点対象(下手だね)。2本立てにするなら、こちらがメインの方が東映らしくてよかったかも。5歳の次女も満足した様子。

 併映のというか、本来はメインの「仔犬ダンの物語」は沢井信一郎監督作品。普通の児童映画にモーニング娘。がゲスト出演しているという感じ。子役のセリフがすべて棒読みであるとかを除けば、2chで滅茶苦茶にたたかれているほど悪い出来ではない。原田美枝子や柄本明、榎木孝明、斉藤慶子ら脇役陣はいい。

 ただ、モー娘。の映画を期待していくと、肩すかしを食うだろう。いや、本来はモー娘。の映画のはずなのだが、モー娘。をすべて取り除いても成立してしまうのが、企画のまずいところ。結局、パッケージングでモー娘。を前面に出したいのなら、この話ではだめだろう。映画の内容とクレジット(というか、大ラスのエンディング。これは2本を合わせたエンディングとしての演出か)で流れる歌と踊りが、これほど合わない映画も珍しい。

2002/12/15(日)「ゴジラ×メカゴジラ」

 手塚昌明監督の前作「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(2000年)とは正反対にVFX部分が良いのにドラマがまったくダメである。釈由美子扮する主人公の家城茜は1999年のゴジラ襲来の際、メーサー砲の操縦を誤り、仲間の自衛隊員が乗った車を崖下に転落させてしまう。車の乗員はゴジラに踏みつぶされて死亡。茜は資料課に転属させられる。この設定ならば、「私はゴジラを許さない」的展開になるはずなのだが、それをやってしまっては「ゴジラ×メガギラス」の田中美里の役柄と同じになってしまう。

 手塚昌明はそれを避けようとして、茜をだれからも希望されずに生まれた天涯孤独な人間として、社会のすべてと戦ってきたキャラクターに仕立てた。それはいいのだが、こうした設定は茜の口から説明されるだけで、描写としては一切ない。これが弱い。釈由美子は「修羅雪姫」を引きずったようなキャラクターを懸命に演じているのに、手塚昌明の演出とストーリーはそれを十分に生かしていないのである。1時間28分の上映時間は併映の「とっとこハム太郎」に圧迫されたためでもあるだろうが、主人公の心情を十分に描かないと、説得力を欠き、薄っぺらな映画になってしまう。通り一遍の描き方が惜しい。宅間伸親子のエピソードなどばっさり削り、ヒロインを十分に描いてくれたなら、傑作になる可能性もあったと思う。

 機龍(メカゴジラ)の設定はテレビの巨大ロボットものを踏襲したものになっている。メカゴジラは昭和29年に芹沢博士のオキシジェン・デストロイヤーで殺されたゴジラの骨からDNAを抽出して生体ロボットとして作られた。このため、ゴジラとの最初の戦いでゴジラの咆哮を聞いたことでメカゴジラは操縦不能になり、暴走してしまう。それを修復した2度目の戦い。最初は遠隔操作で操るが、ゴジラの攻撃にダメージを受けて操縦系が故障し、ヒロインはメカゴジラのメンテナンスルームに乗り込んで直接操縦することになる。ここでメカゴジラとヒロインの心情がシンクロする場面はエヴァンゲリオン的な描写なのだが、これまたドラマティックなポイントにはなっていない。ここを効果的な描写にするためにもヒロインをもっと緻密に描く必要があった。そしてここをポイントにすれば、SF的にも評価できる映画になったのではないかと思う。

 メカゴジラが発射するミサイルの楕円を描く軌道の描写などVFXは満足できるレベルにある(特殊技術担当は「ガメラ3」や「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」にも参加した菊地雄一)。最近のゴジラ映画の中では屈指といっても良いVFXなのに、ドラマ部分の弱さで平凡な作品になってしまった。いろいろと制約の多いことは分かるが、手塚昌明にはもう一度、自分の作りたいゴジラに挑戦してほしいと思う。

2002/11/08(金)「たそがれ清兵衛」

 意外な気もするが、山田洋次77作目にして初の本格的時代劇。そして山田洋次作品の中でもかなり上位にランクされる傑作だ。食事や内職や畑仕事などなど下級武士の日常の描写がしっかりしており、登場人物の深い描き方だけでも、いつまでもいつまでも見ていたくなる。身の丈に合った生活に不平不満を言わず、清貧に生きる主人公の潔い姿勢には深く共感させられる。山田洋次が時折撮る説教くさい映画が僕は好きではないし、この映画にもそんな部分がかすかに残ってはいるのだが、時代劇であることによってそれは薄められている。貧しいけれども真摯に生きる者たちに注ぐ監督の視線がストレートに伝わってくる。藩の命令に逆らえない主人公の姿は現代のサラリーマンとも重なっており、見事なまでの完成度を持つ作品と思う。

 原作は藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」。山田洋次と朝間義隆はこれを清兵衛の娘の視点から組み立て直した。この脚本も相当うまい。庄内地方にある海坂藩の下級藩士・井口清兵衛(真田広之)は仕事が終わると、同僚の誘いも断ってさっさと家に帰るので、たそがれ清兵衛と呼ばれている。清兵衛は五十石の身分で娘2人とボケ始めた母親と暮らす。妻は長患いの末に労咳で亡くなった。もともと貧しい暮らしだが、妻の病気で借金が重なり、清兵衛は虫かご作りの内職をしている。同僚と飲みに行く金もないのだ。しかし、「二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、草花の成長を眺めるのにも似て、楽しいものでがんす」と話す清兵衛に今の生活への不満はない。映画は前半でこうした境遇にある清兵衛の日常をじっくりと描く。

 清兵衛の生き方はストイックで、ある意味ハードボイルドでもある。幼なじみの朋江(宮沢りえ)に思いを寄せているが、貧しい家に迎えれば、苦労させるのは目に見えている。だから清兵衛は思いを打ち明けられずにいる。それをついに打ち明ける場面が泣かせる。剣の腕を見込まれて、家老から無理矢理上意討ちを命じられた清兵衛は、朋江に身支度を頼む。そしてこう話すのだ。「幼いころから、あなたを嫁に迎えることは私の夢でがんした。これから私は果たし合いに参ります。必ず討ち勝って、この家に戻ってきます。そのとき、私があなたに嫁に来ていただくようお頼みしたら、受けていただけるでがんしょか」。静かな言葉の中に熱い思いがあふれる。真田広之と宮沢りえの演技が素晴らしい。

 これに続く上意討ちの場面(田中泯の凄みのある侍は見事)のリアルな殺陣もこの映画の見どころではあるが、まず、清兵衛の生き方と朋江との関係を描きこんだことが成功の大きな要因だろう。物語を語ることにおいて山田洋次の技術は相当高いとあらためて思う。「ロード・トゥ・パーディション」で感じた技術の高さをこの映画でも感じた。この技術は普遍的なものだから、海外でもきっと通用するだろう。どこかの映画祭に出品してみてほしいものだ。

2002/11/01(金)「Dolls ドールズ」

 いつも行く駐車場に止めてある車がやけに多い。これはもしかしたら、G優勝セールのためか、と思ったら、何のことはない「映画の日」だからか(忘れていた)。あまり見に行く映画もないので懸案だった「Dolls ドールズ」にする。北野武監督の第10作。ベネチア映画祭ではかすりもしなかったという作品である。評判はあまり良くなかったので期待しなかったが、そんなに悪い出来ではない。最初の30分ほどをもう少してきぱきと見せれば、もっと良くなっただろう。

 「つながり乞食」というイメージはパンフレットによると、北野武が大学を辞めて浅草で働いていた頃に見た男女を基にしているという。赤い紐で結ばれた男女が美しい風景の中を歩くイメージにはインパクトがある。インパクトはあるが、話の作りはうまくない。結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を捨てて社長令嬢と結婚式を挙げるところだった松本(西島秀俊)は佐和子が自殺未遂を起こし、精神に異常を来したと知らされる。松本は結婚式を放り出して病院に駆けつけ、佐和子を連れて放浪の旅に出る。車の中で暮らすホームレス同然の生活。2人はやがて車を捨てて歩き出す。赤い紐は佐和子が勝手に歩き回らないようにするためだ。

 最初の30分で映画はこうしたことを説明するのだが、ここの手際が悪い。演出が律儀すぎる感じがある。2人は正体不明のオブジェにしてしまって、他のエピソードを語った方が良かったのではないか。もっとも、他のエピソードといっても2つしかない。一つは松原智恵子演じる初老の女が何十年も2人分の弁当を作って公園で男を待ち続ける姿。男は不況のため務めていた工場を辞め、「立派になって迎えに来る」と言い残して姿を消す。女はそれ以来、毎週土曜日に弁当を持ち、待ち続けているのだった。ヤクザの親分になった男(三橋達也)は数十年後に公園に行き、女の姿を見つける。

 もう一つはアイドル歌手の追っかけの男(武重勉)のエピソード。アイドル(深田恭子)が顔にけがをして引退したのを知り、男は自分の目を潰して会いに行く。「たぶん、見られたくないだろうと思って」と男はアイドルに言うのである。これは北野武が自分で言っているように「春琴抄」そのままの話である。

 赤い紐の男女のエピソードも含めて、3つに共通するのは深すぎる愛、あるいは異形の愛を描いていること。それぞれに悪くはないが、オムニバス形式になるところを無理矢理に話をつないだ感もある。赤い紐の男女を描くのなら、あとの2つのエピソードを大きく扱う必要はないし、愛の深さを描くのなら、赤い紐の男女のエピソードをもう少しうまく演出する必要があっただろう。

 北野武が最初に意図したのは日本の四季の風景を美しく撮ることらしく、その点に関しては桜並木や紅葉の森や雪景色が十分に美しく撮られているので成功はしている。北野武はイメージ先行型の演出家なのだな、と思う。

 菅野美穂を映画で見るのは個人的には「エコエコアザラク」「富江」以来。テレビのバラエティ番組で笑顔を振りまく好感度もいいが、こうした無表情な役柄も似合っていると思う。

2002/10/29(火)「なごり雪」

 「または、五十歳の悲歌(エレジー)」とサブタイトルが付く。28年前、22歳で名曲「なごり雪」を作った伊勢正三も50歳。三浦友和もベンガルも50歳だそうだ。確かにこの映画はそうした中年男たちの悔恨と苦渋に満ちた回想を描く映画でもあるのだが、こちらが感動するのは回想の中で語られる青春のほろ苦さと残酷さ、純粋でひたむきな少女の姿にある。主人公の祐作(細山田隆人。現在は三浦友和)を愛した雪子(須藤温子)は東京に帰る祐作を臼杵駅で見送る場面でこう言う。

 「…わたし今は駄目だけど、来年の春までには、きっと綺麗になる。うんと綺麗になって、あなたを驚かせてあげるわ。…だから帰ってきて。…」

 「…今度この駅のホームであなたと会う時、あなたは言うわ。きっと、こう言うわ。…春が来て君は綺麗になったって。…去年より、ずっと綺麗になったってね」

 主人公は東京の大学に入って、2年目の夏休みに女友達のとし子(宝生舞)を連れて故郷の臼杵に帰ってくる。冬休みと春休みに帰らなかったのは大学生活が忙しかったからだと雪子に説明するのだが、ふとしたことで実はとし子とスキー合宿に行っていたことが雪子に分かってしまう。だからこのセリフの前に雪子はこう言っている。

 「冬休みの事は、わたし諦めます。又志賀高原のスキー合宿でしょう。大学生活の為には、それも大切ですもの。でもお願い、春には帰ってきて。今度の三月でわたしは十七歳。わたしあなたに約束するわ。…」

 雪子はとし子から祐作を取り戻したい一心でこのセリフを言うのである。ここで不覚にもボロボロと泣いてしまった。大学1年の夏休みに祐作が帰ってきた時は夢に見るような幸福な日々だった。それがたった1年で変わってしまった。そんな思いが故郷で祐作の帰りを待ちわびる雪子にはあったのに違いない。

 大林宣彦はこの映画でロマンティシズムの復権を図ったのだと思う。撮影に入って、2日目で米同時テロがあり、大林宣彦はこう決意したという。

 「だからこそ僕は『なごり雪』では穏やかでチャーミングな映像を撮ろうと思いました。『なごり雪』の映像を見れば、あんな破壊の映像なんか観たくないと、みんなに思わせるものにしようと」(キネマ旬報10月上旬号)。

 それはつまり、大林にとって初心に返るということでもあるのだろう。この映画の須藤温子は尾道3部作の第2作「時をかける少女」の原田知世のように素敵だ。クレジットがせり上がってくる場面で描かれる4人の男女が臼杵駅に並んでいる場面で、須藤温子がカメラに向かって来る場面は「時をかける少女」の原田知世のように演出されている。

 俳優たちのセリフ回しが実にいい。まるで増村保造の映画を見るよう(大林宣彦はセリフをぜんぶ朗読するように演出したそうだ)。これは言葉に重きを置いた映画なのである。その効果で増村映画の主人公にあった切実さをこの映画の登場人物たちも受け継ぐことになった。時代背景が70年代であれば、それも当然のことだ。ベンガルの若い頃を演じる反田孝幸(南原清隆のような顔つき)の役柄も含めて、役者がことごとく良く、この美しくて切なくて哀しい物語にリアリティを与えている。

 大林宣彦は素晴らしい映画を作ったと思う。「なごり雪」という名曲はこの映画を生むために28年前に生まれたのではないかとさえ思える。パンフレットで伊勢正三が「僕はまず『なごり雪』という歌を、こんなに大切に扱っていただいたことに感動しています」と話しているが、分かりすぎるぐらいによく分かる。そんなに素敵な映画なのだ。日常生活のすべてを放り出して見る価値のある傑作。