2003/05/04(日)「ザ・グリード」
スティーブン・ソマーズが「ハムナプトラ」の前に撮った作品で、98年の公開時、一部SFファンの間では話題になったが、僕は見のがしていた。B級映画と思ってみたら、意外に面白いという映画。いや、今となってはソマーズのその後の作品を見ているのでこれぐらいは当たり前と思える。出演者はトリート・ウィリアムズとファムケ・ヤンセンを除けば(入れても)、ほとんどB級なのだが、怪物造型はロブ・ボーティン、音楽はジェリー・ゴールドスミスなのだからA級も入っているのである。
最初の30分ほどはなにをグダグダやってるんだと思えるぐらいにまだるっこしい。しかし深海の怪物が豪華客船の乗客3000人をあっという間に食べ尽くしてしまって(その描写はない)からは、なかなか凝った話を見せてくれる。全編に漂うユーモアがソマーズらしいところ。怪物に食べられて半分消化されてしまった人間の描写などは「ハムナプトラ」のミイラにそっくりだった。「アナコンダ」のジョン・ボイトよりも消化の具合が進んでいるのが笑える。
2003/04/26(土)「ゴースト・オブ・マーズ」
「火星のゾンビ」あるいは「エスケープ・フロム・マーズ」というタイトルでも良さそうな映画である。IMDBを見ると、10点満点で4.7点という最低の評価。僕はまずまず面白かった。火星が舞台でもSFではなく、ゾンビ化した人間たちからどう逃げるかを中心にしたサスペンス・アクションである。「要塞警察」や「ニューヨーク1997」などジョン・カーペンターの過去の作品に通じるものがあり、まあカーペンターらしいなと思える出来だ。火星の生物にもっとSFXを使い、SF的な展開が加わると、一般受けするような映画になったと思う。
テラフォーミングが80%進んだ火星には60万人以上の人間が移住しているという設定。凶悪犯を護送するため、警察の一行がある炭坑町に向かう。街には人影がない。屋内に入ると、多数の人間が首を切断されて惨殺されていた。逃げてきた女性科学者の話によると、地下の洞窟から赤い風のような生物が出てきて、人間に乗り移り、人間がゾンビ化したのだという。ゾンビを殺すと、その生物はまた別の人間に寄生する。建物に立てこもった警官と凶悪犯たちは、大量のゾンビ軍団を相手に必死の逃亡を試みる。
うーん、この話だと、別に火星が舞台でなくてもよいような気がする。主演のナターシャ・ヘンストリッジ(「スピーシーズ」)は悪くはないが、同じような役柄の「バイオハザード」ミラ・ジョヴォヴィッチほどの魅力はない。ほかにアイス・キューブ、パム・グリアー(ほとんどゲスト的な扱い)、ジェイソン・ステイサム(「スナッチ」)など。役者に金を使っていないのは予算が少なかったためか。
特典映像に映っているカーペンターを見て、年取ったなという思いを強くした。
2003/04/25(金)「シカゴ」
故ボブ・フォッシーのミュージカルの映画化でアカデミー作品賞受賞作。ミュージカル初挑戦のレニー・ゼルウィガーと過去に経験のあるキャサリン・ゼタ=ジョーンズがセクシーで華麗な歌と踊りを見せてくれる。ゼルウィガーが無難にこなしました、というレベルなのに対して、ゼタ=ジョーンズは意外にうまいので驚いた。ただもう少し体を絞った方が良かったと思う(ゼルウィガーは「ブリジット・ジョーンズの日記」とは打って変わってスリム)。無難にこなしたのは監督のロブ・マーシャルについても言え、舞台を映画に置き換える際の際だったアイデア、演出はあまり見えない代わりに、これはまずいと思える部分も一切ない。エンタテインメントとしては十分に満足できる仕上がりである。
冒頭、舞台で「オール・ザット・ジャズ」を歌い上げるヴェルマ・ケリー(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)のシーンがいい。これで画面に引き込まれる感じ。現実のミュージカル的場面は実はここだけで、あとは空想ということになっている。これはロブ・マーシャルのアイデアというが、映画のキャラクターが急に歌ったり踊ったりする不自然さを嫌ったのだろうか。舞台で踊るヴェルマを見つめるのがショウビズ界に憧れるロキシー・ハート(レニー・ゼルウィガー)。ロキシーはマネジャーを紹介するという口車に乗って家具のセールスマンと不倫関係を続けていたが、それが嘘と知らされ、発作的に男を銃で殺してしまう。一方、ヴェルマも妹と夫が関係しているのを知って殺害。2人は同じ女性刑務所に入れられる。ヴェルマは看守長のママ・モートン(クイーン・ラティファ)を買収し、辣腕弁護士ビリー・フリン(リチャード・ギア)を雇い、マスコミを使って新聞の一面を飾るスター的存在になる。スキャンダルを逆手に取るわけだ。ロキシーはそれを見習い、夫のエイモス(ジョン・C・ライリー)に頼んで、ビリーを雇う。ロキシーとヴェルマの関係は逆転。しかし、新しもの好きなマスコミは新たなスキャンダルがあると、ロキシーに見向きもしなくなってしまう。
刑務所と言えば、似非ミュージカル「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にも登場したが、ここで繰り広げられる歌と踊りは当然のことながらずっと洗練されている。ダイナミックでセクシー。踊りは元々セクシーなものだし、ボブ・フォッシーの映画でもセクシーな踊りが多かったが、この映画もその伝統を受け継いでいる。やや不健康で猥雑な感じがいい。ミュージカル場面を空想にしたことで、映画は歌と踊りを見せるための作品に特化したようだ。感情が高まって歌になり、歌が高じて踊りになるという原則はだからここにはなく、ダンスと主人公たちの感情とが今ひとつしっくりこないのはそのためでもあるようだ。ミュージカル場面を見せるためのドラマという感じ。そうはいってもこの歌とダンスにあふれた構成は楽しく、やはりアメリカはショウビズの本場だなという思いを強くする。
監督デビューのロブ・マーシャルは舞台とは違った振付を取り入れたそうだ。そこがオリジナリティーと言えばそうなのだが、ホントの実力は2作目を見ないとよく分からない。バズ・ラーマンと並んでミュージカルに精通した監督が出てきたことは喜ぶべきか。
リチャード・ギアは最初に登場する場面の歌と踊りはおずおずといった感じだが、その後のタップダンスはぴったり決まっていた。欲を言えば、10年前にミュージカルに出ていた方が良かったのではないかと思う。ジョン・C・ライリーも「俺はセロファン~」とダメ男の悲哀を込めて歌う場面があり、意外なうまさを見せる。「チャーリーズ・エンジェル」のルーシー・リュウがカメオ出演していた。
2003/04/11(金)「デアデビル」
派手さがない。話がありきたり。雰囲気が暗い。アメリカン・コミックの盲目のヒーローをベン・アフレック主演で映画化したこの作品、先行する「バットマン」や「スパイダーマン」に比べて大いに地味だ。地味が悪いわけではないが、話の展開もいつかどこかで見たようなものでは面白くなりようがない。禿げ頭のブルズアイを演じるコリン・ファレルには見どころがあるが、もう一人の悪役キングピン(マイケル・クラーク・ダンカン)も含めて生かしておくのは続編を考えての措置であることが見え見えだ。それ以上にエレクトラ(ジェニファー・ガーナー)をあまり活躍もさせずに殺してしまうとは、監督のマーク・スティーブン・ジョンソン(「サイモン・バーチ」に続く2作目)、いったい何を考えているのか。続編が作られるとしたら、きっとエレクトラは死んでいなかったことにするのだろう(エレクトラをスピンオフした作品の計画もあるらしい)。
といっても、ジェニファー・ガーナー、それほど魅力的ではない。スラリと伸びた足はアクションに向いた体型ではあるが、今ひとつ輝くものがないし、やや、とうが立っている。ベン・アフレックはいつものような演技で、俳優人生のプラスになる役柄とは思えないから、続編には出ないのではないか。
主人公のマット・マードックは子どものころ、有毒産廃を浴びて失明するが、視覚以外の感覚が超人的に発達する。ボクサーだった父親を暗黒街の組織に殺されたマットは悪を正すため、昼は弁護士、夜はデアデビルとして悪人たちを倒していく。デアデビルの活動範囲はヘルズキッチンで、世界各地で活躍するスーパーマンなどとは土台スケールが違う。小さな街のヒーローといったところ。超人ではなく、単に体を鍛えているだけだから(バットマンもそうだが、さまざまな秘密兵器がある)、あんなコスチュームは不要なのではないかと思えてくる。普通のヤクザ映画でも通る話なのである。
ダークな雰囲気は悪くはないけれど、もう少しオリジナルなものが欲しいところだ。原作自体、当初は人気がなかったという。二番煎じの感が拭えないのは、映画にもそのまま当てはまる。
回想でデアデビルの少年時代からを描く脚本にも工夫が足りない。ヒューマンな感動作「サイモン・バーチ」から5年。マーク・スティーブン・ジョンソンは映画作りの勘を取り戻せなかったようだ。
2003/04/09(水)「スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする」
デヴィッド・クローネンバーグの「イグジステンズ」以来3年ぶりの作品。精神分裂病の主人公(レイフ・ファインズ)が過去の母親(ミランダ・リチャードソン)の死を回想する話である。主人公のスパイダーことデニスは終始ブツブツつぶやいている。ノートにびっしりと何かを書きつづっている。精神病院から出て故郷の町に帰ってきた主人公と過去の出来事とが交互に描かれる。回想の中に現在の主人公が傍観者として登場するのは面白い趣向ではあるが、クローネンバーグの映画としては特に成功もしていない。「裸のランチ」ほどのわけの分からない面白さはなく、ストーリーが分かり易すぎるのである。そうか、そういうことかと納得してしまうようでは精神分裂病患者を描いた映画としては何だか面白くない。妙に辻褄が合ってしまっている。エンタテインメントになっているわけでもなく、あるのはクローネンバーグのジュンブンガク趣味だけということになる。
原作はパトリック・マグラー。脚本もマグラーの手によるものだ。キネマ旬報によると、マグラーは「文学系ホラー作家として人気を博す」とある。この物語の根幹は母親の死の真相で、浮気した父親が衝動的に殺したのかと思ったら、実はという展開にある。加えてここに精神分裂病の症状が絡んでくる。もういくらでも面白くできそうな題材である。真実と思っていたものが違っていたという展開は描写次第では現実と虚構との揺らぎを描くこともできただろう。クローネンバーグも「イグジステンズ」でそういうものを描いていた。しかし、この映画は冒頭から主人公の症状を中心に描いていく。残念ながら、これがストーリーと有機的なつながりをしているとは思えない。ノートをタンスの引き出しに入れたり、カーペットの下に隠したりの強迫神経症的な描写と物語の核とをもっと結びつける必要があった。単に精神分裂病の男を描いただけの話に終わっていて、プラスαの部分がない。
かつてのクローネンバーグは肉体の変容を描く作家だった。初期の「ラビッド」から「スキャナーズ」「ビデオドローム」「ザ・フライ」などSF的な展開にわくわくしたものだ。これが「戦慄の絆」など精神世界をメインの題材にするようになって、やや難しくなってきた。難しいというのは映画の内容ではなく、演出の方法としてである。肉体の変容が主人公の精神にも影響を及ぼすという話は分かりやすいのだが、精神の変化は視覚的でない分、描写の方法が難しい。最近の作品がどこかマイナーなのはそのためでもある。こういう話ならば、小説で読めば十分と僕は思うし、小説の方が面白くできるだろう。視覚的でないものを選んで無理に映画にしている感じが近年のクローネンバーグにはあり、それは初期のころからのファンとしては残念なところでもある。