2003/08/15(金)「過去のない男」
愛や夢や希望などという言葉を一切使わずにそれを表現しているのがこの映画である。アキ・カウリスマキ監督の2002年カンヌ映画祭グランプリ受賞作(この年のパルムドールは「戦場のピアニスト」)。暴漢に襲われて頭を強打され、記憶をなくした男の生き方を淡々と見せる。描写は淡々としているのだが、にじみ出るユーモアが心地よい。言葉で語らず描写で見せるのが映画の本質なら、カウリスマキのこの映画はその王道を行っている。
ヘルシンキの駅で降りた男(マルック・ペルトラ)がベンチで休んでいると、暴漢3人が男に殴りかかる。バットで頭を強打され、気を失った男から財布や鞄の中身を盗む。男は血だらけで病院に担ぎ込まれるが、心電図が停止し、医師は死亡を宣告する。しかし、医師と看護婦がいなくなると、男は起きあがり、包帯だらけの格好でベッドを抜け出す。川のそばで倒れていたところを2人の少年が見つけ、父親に告げて、男はこの一家の世話になることになる。この一家はコンテナに住み、貧しい暮らしをしている。傷が癒えた男は自分でもコンテナを借り、救世軍で働き始め、救世軍の女イルマ(カティ・オウティネン)を愛するようになる。
記憶を失った男が過去を追い求めず、現状に順応して生きていく様子がコミカルに綴られていく。男の過去はやがて明らかになる。男は家を訪ねる。家は立派だし、妻はイルマよりも美人だが、かつては喧嘩が絶えなかったという。男は何の感慨も見せずに過去と決別し、現在の暮らしに帰っていく。
病院での心電図停止の描写は過去をリセットして新しい人生を歩む男の姿を象徴しているのだろう。フィンランドの失業率の高さとか、役人のえらそうな態度とか、人々の貧しい暮らしを挟みつつ、過去は関係ない、現在が大事という当たり前のことを当たり前に描いていく。声高に訴えるわけでもなく、さまざまな描写を積み重ねていくカウリスマキの手法は好ましい。ゴミ箱をノックすると、中からそこに住んでいる男が出てきたり、口座を作りに行った銀行で強盗から金庫に閉じこめられたり、細部が微妙なおかしさに満ちていて、クスクス笑いながら見た。カティ・オウティネンはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞したが、むしろマルック・ペルトラの飄々とした演技に主演男優賞をあげたいところだ。
2003/08/15(金)「ウルトラマンコスモス VS ウルトラマンジャスティス The Final Battle」
長男と次女を連れて見に行く。「新世紀2003 ウルトラマン伝説 The King's Jubilee」という短編が最初にある。これがなんで作ったのか分からない出来。ウルトラマンたちのダンスコンテストである。去年も同様の短編があったが、あちらの方がまだましだった。
こういうのを最初に見せられると、本編の方に不安を持ってしまうが、予想に反してまずまずの出来だった。いや、これはあくまでも子ども向けとしてはという条件が付く。
2000年後に地球は有害な存在となるとの理由で、宇宙の調和を守る宇宙正義が地球上のすべての生命の抹殺を図る。ウルトラマンジャスティスはその決定に基づき、コスモスと対決。コスモスはジャスティスとロボット怪獣グローカーの連合軍に敗れ、消滅してしまう。地球滅亡まであと35時間。かつてのチームEYESの面々は消えたコスモスとムサシを探し求める。一方、ジャスティスは地球人の女の子に触れ、徐々にその心を変化させていくが…。
有害な存在になるのにまだ2000年の猶予があると言うムサシに対して、ジャスティスは「サンドロスにも2000年の猶予を与えて失敗した」と切り返す。サンドロスは昨年の「ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET」に出てきた怪獣で、このシリーズ、ちゃんと映画第1作、テレビ、映画第2作、そして今作と一応つながっている。VFXも一応整っている。だから子供たちはまずまず満足するだろう。
宇宙正義という存在が今ひとつよく分からないのは置いておくにしても、ジャスティスの心を変化させるのに愛や希望や夢という言葉を持ち出して説明するあたりがダメなのである。地球と人類を守るコスモスと宇宙を守るジャスティスの対比が映画のメインテーマになるはずなのに、そのテーマは深化されず、極めて表面的な描写で終わってしまう。宇宙にとって有害な人類をなぜ守るのか。このテーマを突き詰めれば、映画はもっと深みが出てきたはずだ。なのに脚本はテーマの設定だけで、その後の展開の工夫を放棄している。子ども向けと思って、この程度のことしかやらないようでは大した映画ができないのは自明のことだ。
人類の守護者と宇宙の守護者という対比は、「ウルトラマンガイア」の人類の守護者(ガイア)と地球の守護者(アグル)の対比によく似ている(監督・特技監督の北浦嗣巳はガイアシリーズも担当した)。そういえば、ガイアでもこのテーマは突き詰めきれずに終わったのだった。去年も思ったのだが、「ウルトラセブン」のような名作を生むにはやはりしっかりと話を作っていく必要がある。
2003/08/13(水)「ハルク」
アメリカン・コミックの原作を「グリーン・デスティニー」のアン・リー監督が映画化。アン・リーが「ハルク」を監督すると聞いた時には随分アンバランスだなと思ったが、映画もアンバランスなままに終わっている。前半のマッド・サイエンティストの父親とその実験台にさせられる息子の描写は「フランケンシュタイン」で、後半、暴れ回るハルクを恋人が止める描写は言うまでもなく「キング・コング」。脚本は原作とは違って、ハルク誕生の要因を父親のせいにして、父と息子の関係に焦点を当てているのだが、これがどうも中途半端。その意図があるのなら、後半をキング・コングにすることはなかったのだ。
アン・リーの演出にも緩い部分が目に付き、「パイレーツ・オブ・カリビアン」同様、2時間18分と無用に長い。ハルクの造型が動きも含めてお粗末だとか、ILMが担当したVFXに見るべき部分がないとか、全体的にまとまりを欠き、盛り上がらない映画になってしまった。良いのはヒロインのジェニファー・コネリーだけである。
冒頭、主人公ブルースの子ども時代を順を追って説明していく描写から工夫が足りない。ブルースの父親は軍の研究所に所属する科学者で人間の再生能力を高める研究をしていた。赤ん坊のブルースを実験台にしたことや父と母の争いの場面を映画は思わせぶりに描いて(これが長い)、現在のブルース(エリック・バナ)にようやく話が移る。ブルースも科学者になっており、やはり傷の再生能力を高める研究をするようになった。両親は子どものころに死んだと聞かされており、これは偶然の一致である。ブルースは元恋人のベティ・ロス(ジェニファー・コネリー)と一緒に実験しているが、ある日、致死量のガンマ線を浴びてしまう。まったくの無傷でいられたものの、怒りに駆られると、緑色の巨人ハルクに変身するようになってしまった。そして死んだと思っていた父親(ニック・ノルティ=ほとんど怪演)が生きており、かつて自分を実験台にしていたことを知る。
ハルクがつかまったジェット機がグングン高度を上げて成層圏に至り、一瞬、星がきらめくシーンは「ライト・スタッフ」を思わせる。しかし、そんな高度から海に落ちたのに、あの程度の水しぶきで良いものかどうか。ここだけでなく、VFXはどれもこれも映像のダイナミズムに欠けている。戦車を振り回すシーンは予告編で見ても漫画みたいだと思ったが、本編ではさらにブルースのDNAを注入されて怪物化した犬との戦いとか、漫画みたいなシーンが連続する。ILMがいつも良い仕事をしているわけではないのである。
恐らく、アン・リーはハルクの悲劇的な部分を中心に映画化したいと考えたのだろう。残念なことに主演のエリック・バナの演技が深みに欠けるので、ドラマも平板なままである。望まれない怪物の悲劇で比較するなら、これはデヴィッド・クローネンバーグ「ザ・フライ」の足下にも及ばない。第一、この映画でハルクを死なせるわけにはいかないのだから、基本的に悲劇になりようがないのである。アン・リーはアメリカン・コミックにもSFにも興味がないのだと思う。監督を引き受けるメリットはなかった。
2003/08/07(木)「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」
ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」を基にしていると聞いたのでお子様向けかと思ったら、そうでもなかった。牢屋の鍵をくわえた犬に向かって囚人がこっちへ来いと叫んでいる場面や、敵役が骸骨のゾンビたちである点はアトラクション通りで、あとは自由に作ってある。監督のゴア・ヴァービンスキーは「ザ・リング」に続いて、凡庸なりにまずまずの演出を見せ、「ザ・メキシカン」の汚名はぬぐい去ったようだ。しかし、話に広がりがないし(狭いところで、ごちゃごちゃやっている)、展開がもたもたしているし、2時間23分もつ話でもない。展開が難しくないのはやはりお子様を意識したからだろう。レイティングがPG-13とはいっても、アメリカでヒットしているのはファミリー映画であるからにほかならない。
タイトルが出てきただけで始まるオープニングがかつての海賊映画をなぞった感じである。カリブ海を航行中の英国海軍の船が漂流している少年ウィルを発見する。黒い海賊船に襲われたらしい。総督の娘エリザベスは少年が掛けていた髑髏の図柄入りの金のメダルをとっさに隠す。そして8年後、エリザベス(キーラ・ナイトレイ)は美しく成長し、ウィル(オーランド・ブルーム)は鍛冶屋となっている。総督の就任式に出席したエリザベスは海に落ちたところを海賊のジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)に助けられる。その夜、黒い海賊船ブラック・パール号が町を襲撃。エリザベスは船長バルボッサ(ジョフリー・ラッシュ)に囚われの身となる。ウィルはジャックの助力を得て、エリザベスを助けるためブラック・パール号を追う。
黒い海賊たちは実は呪いを掛けられて死ぬに死ねないゾンビで、月明かりの下では骸骨に変身する。ILMが担当したVFXは人間から骸骨への変化を実に自然に見せる。デップやブルームと骸骨との戦いもよくできている。しかし、原初的な感動に関してはレイ・ハリーハウゼンが「アルゴ探検隊の大冒険」で見せたモデル・アニメーションの骸骨との戦いの方が優れているようだ。あちらの方が手間がかかっていそうに見えるのである。
話は金のメダルを巡る争奪戦で単純なのはいいのだが、“死の島”で同じような場面を2度繰り返したり、話自体にも新鮮さが感じられない。もう少し脚本に工夫が欲しいところだった。ありきたりなのである。
ジョニー・デップは沈みかけた船で港町にやってくる登場場面からおかしい。会う女に殴られ続けるというのが実にピッタリな感じで、この映画を支えている。清楚に美しく、どこかウィノナ・ライダーを思わせるキーラ・ナイトレイはこれでブレイクすると思える演技。オーランド・ブルームは「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスの方が颯爽とした感じがあるが、この役柄も悪くなかった。
2003/07/28(月)「茄子 アンダルシアの夏」
黒田硫黄の連作短編「茄子」の一編「アンダルシアの夏」を「千と千尋の神隠し」などの作画監督・高坂希太郎が監督した47分のアニメーション。47分という長さは映画としては商売になりにくい中途半端さで、オリジナルビデオとして企画されたのではないかと思ったら、やはりパンフレットにそう書いてあった。いくら短編が原作だからといっても、劇場にかける以上は1時間20分程度の作品にするものなのだ。その代わり料金は1,000円だったが、これには異論があって、以前3時間の映画で2000円だったか3000円だったかを取った作品があったけれど、上映時間の長さと料金とは決して比例するものではないだろう。無駄に長くて心をピクリとも動かさない作品はたくさんあるし、短くても十分満足できる作品もある。
劇場用映画としての長さはともかく、これは自転車レースをアニメではたぶん初めて取り上げて、CGも駆使した佳作になった。主人公の心情とレース展開がクロスしてくるところが定石とはいえ、うまく、ラスト近く、かつて兵役から帰った主人公が故郷でつらい思いをした経験とレースを終えた今の主人公がオーバーラップするところでなんだかジーンと来てしまった。この作品は十分、こちらの心を動かしてくれた。
スペイン全土を駆け抜ける自転車レース「ブエルタ・ア・アスパーニャ」。主人公のぺぺはパオパオビールチームのアシストとして故郷のアンダルシアでのレースを走ることになる。摂氏45度の中で行われる過酷なレース。集団から抜け出したペペを8人の選手が追う。故郷ではちょうど兄のアンヘルがカルメンと結婚式を挙げたところだった。カルメンはかつてのペペの恋人。兵役に行っている間に兄に奪われた。ちょうどペペが兄の兵役の間に兄の自転車を自分のものにしたように。パオパオビールのエース・ギルモアがレース中に事故を起こしたことから、ペペはエースとして最後までトップを行くよう命じられる。スポンサーから首を言い渡されそうになっていたペペは必死でペダルをこぐが、後方にいた集団からみるみる迫られてくる。
ペペは兄とカルメンのこともあって故郷を遠く離れたいと思っているが、現実はなかなかうまくいかない。絶望的なつらさは乗り越えたけれど、まだちょっとつらい思いが残っている主人公なのである。描き込めば、さらに深く描ける題材なのだが、映画は47分という短さもあって、淡泊である。しかしその淡泊さが、かえってスマートに見える。主人公が自分の不幸を嘆くようなダサダサの展開から逃れられたのはこの描写のスマートさがあったからだろう。高坂希太郎の脚本・演出は間違っていないと思う。レース場面のCGも迫力がある。
それにしても、後方集団から3分以上離れていたのに集団が残り5キロでみるみる追いついてくるのはマラソンでは考えられない展開。自転車レースはそういうものなのか。