2004/05/16(日)「タイガーランド」
ジョエル・シューマカー監督の2000年の作品で、コリン・ファレル主演。ファレルはこの映画から注目され、ボストン批評家協会賞の主演男優賞を受賞している。
1971年、ルイジアナ州ポーク基地で、ベトナム戦争に行く前の新兵たちの地獄の訓練を描く。「フルメタル・ジャケット」の最初の40分が延々と続く感じの映画で、ファレルが演じるのは上官にたてつくボズという問題兵。ボズは病身の妻と4人の子供がいる新兵に除隊の道を開き、電気ショックの実験台にされて精神的に参っている小隊長を、上官をだますことで病院に行かせる。タイガーランドとはベトナムそっくりに作られた最終的な実戦訓練の場所。ボズを恨むウィルソン(「この世の外へ クラブ進駐軍」のシェー・ウィガム)とボズとのここでの確執がクライマックスとなる。
シューマカーはボズの存在を通して軍隊の非人間的な仕打ちを浮き彫りにしていく。ボズの軍隊への嫌悪感は単なる正義感でも反戦意識でもなく、人間的な部分から生まれているのがうまいところ。16ミリの手持ちカメラによる撮影がドキュメンタリーのような効果を挙げている。「フォーン・ブース」も面白かったし、ファレルとシューマカーは相性がいいようだ。
2004/05/15(土)「28日後...」
ダニー・ボイル監督の破滅SF。というよりは、ゾンビもので、新型ウィルスが急速に拡大し、感染によって凶暴化した人間が正常な人間を襲ってくる。冒頭の人っ子一人いないロンドンは「バイオハザード」のラストを思わせるが、他のゾンビ映画と違うのはゾンビに重ね合わせて人間の狂気を描いているからか。感染する前も後も人間は殺し合ってきたというわけだ。クライマックス、残虐な方法で軍人を殺した主人公ジム(キリアン・マーフィ)をセリーナ(ナオミ・ハリス)が一瞬殺そうとするシーンはそれを端的に表している。
2つあるラストはハッピーエンドの方が好み。劇場公開バージョンはアンハッピーエンドの方だったんですね。特別編のDVDには4種類のラストが収録されているそうだ。そんなにラストシーンばかり作ってどうする…。
ゾンビ映画にいかにクズが多いかは身にしみて知っている。これはその中では良い方だった。
2004/05/11(火)「フレディVSジェイソン」
エルム街の人々に忘れ去られたために力を失ったフレディ・クルーガーが復活しようと、クリスタルレイクの殺人鬼ジェイソンをエルム街に連れてくる。だから最初はフレディwithジェイソンであり、現実でも夢の中でも人々は恐怖に陥る。恐怖はフレディを強くするのだ。
しかし、ジェイソンが手当たり次第に殺し始めたため、これでは自分への恐怖が不十分と怒ったフレディがジェイソンを倒そうとして、フレディVSジェイソンになる、という話。例によって例のごとくの展開。結末も予想通り。
殺人鬼が2人出てきても2倍の恐怖にはなりませんね。というか、もともとどちらの映画も怖くない。面白かったのはどちらも1作目だけという点でも共通している。
2004/05/10(月)「世界の中心で、愛をさけぶ」
「ロボコン」で魅力を見せつけた長澤まさみの主演第2作。と、言い切ってしまっていいだろう。物語はサク(大沢たかお)の視点で語られるが、映画を背負っているのは長澤まさみである。その証拠に長澤まさみが画面から消えた後は途端に魅力がなくなってしまう。いや、もっと正確に言うと、長澤まさみ演じるアキが白血病で入院してからは、話自体が類型的なものになり、面白みに欠ける。
白血病(ほかの難病でも同じ)を話の軸に使うというのは劇中、アキが非難するように本当の病気の人の身になって考えれば、ひどい話であり、映画としてみても手あかのつきまくった設定である(これは原作がそうなっているのだから仕方がない)。行定勲監督は映画化に当たって、原作にない大人のサクとその婚約者律子(柴咲コウ)のストーリーを付け加えた。片足の不自由な律子もまた、サクとアキの過去につながっていく女性であり、2人はそれぞれ故郷の高松に帰って、過去を振り返り、過去へのオトシマエを付けることになる(行定監督によると、律子が足を引きずるのと過去を引きずるのは同じことという。なるほど)。この脚色はうまいと思うのだが、極めて残念なのは現在のパートが高校時代のサクとアキのパートに負けてしまっていることだ。
引っ越しの荷造りの最中、突然、家を出た婚約者の律子が高松にいることを知ったサク(大沢たかお)は通りを走る。その大沢たかおの足が港の防波堤を走る1986年のサク(森山未來)の足に重なって、過去の話となるジャンプショットは映画らしい手法である。台風が近づき、曇り空の現在に比べて高校時代の夏は光り輝いている。サクは校長先生の葬儀で弔辞を読んだアキに目を止める。アキは美人で頭が良くてスポーツ万能。劣等生のサクには手が届かない存在に思えたが、ふとしたことから2人には交流が生まれる。交換日記の代わりにカセットテープに声を吹き込んで交換したり、深夜放送でどちらの葉書が先に読まれるかを競ったり。2人は夏休みの思い出に無人島への一泊旅行をする。このあたりのゆっくりと愛が育まれる描写が心地よい。森山未來は少しもハンサムではないけれど、実直な感じに好感が持てる。2人の夢のような幸福は永遠に続くと思えたが、無人島から帰る日、アキは倒れてしまう。アキは白血病に冒されていたのだ。
この過去のパートは恐らく、長澤まさみではない他の女優が演じていたら、どうしようもないお涙ちょうだいものにしかならなかったはずだ。ところが、長澤まさみが実に魅力的に演じきってしまい、もうここだけでいいと思えてしまう。あとの部分は付け足し。そんな感じである。もちろん、映画の中でも“後かたづけ”と表現されている。
2時間18分が長い映画ではないけれど、気になるのはサクと律子がどうやって知り合ったのか、律子はあのテープをなぜ引っ越しの荷物の中から見つけるまでサクに聞かせなかったのか、ということ。まさか忘れていたわけでもないだろう。そのあたりは現在のパートに説得力を持たせるためにも必要な描写だった。といって、そのあたりを詳しく描くと、魅力的な過去のパートを削る必要が出てくる。難しいところだ。
過去を包み込むようにして構成された脚本自体は悪くないし、出演者たちもそれぞれに好演している。しかし、出来上がった映画を傑作と呼ぶのにはためらいが残る。凡庸ではないけれど、特別に優れた映画でもない。たぶん、話の軸足を現在に置くか、過去に置くか、監督にも踏ん切りが付かなかったのではないか。
2004/05/09(日)「星に願いを。」
香港映画の「星願 あなたにもういちど」を日本風にアレンジした作品(函館で全編ロケ)で、オリジナルに比べると、かなり落ちるらしい。
交通事故で死んだ笙吾(吉沢悠)は流星の力で数日間だけ再び生きることを許される。ただし、自分の正体を知られた瞬間に消えるという条件付き。笙吾はかつて交通事故に遭って、視力と声を失い、自暴自棄になったが、看護婦の奏(竹内結子)に支えられて生きる意欲を取り戻した過去がある。その奏と愛が芽生え始めたのを自覚したところで、死んでしまうのだ。生き返った笙吾は自分の生命保険3000万円を思い出し、保険会社の社員を装い、アメリカに行きたがっていた奏を受取人にしようと画策する。しかし、絶望に沈む奏にとって、見ず知らずの男は迷惑なだけで、拒絶される。
「天国から来たチャンピオン」のように笙吾は生前とは違う姿で生き返るが、どんな風貌なのか映画を見ている者には分からないのがつらいところ。良いところもあるのだけれど、隅々まで気を配っていない作りが惜しい。吉沢悠の目が見えないようには見えないとか、交通事故を3度も出すのはどういうわけだとか、いくらなんでもリハビリのシーンであの暴力はないだろうとか、所々に引っかかる部分がある。
竹内結子は「黄泉がえり」とは立場を逆にした役柄。彼女はナチュラルな感じがいいのだから、過剰な演出は不要だろう。監督は冨樫森。もっと細やかな作りが欲しいところだ。