2005/05/23(月)「ザ・インタープリター」

 「ザ・インタープリター」パンフレット国連の通訳が要人の暗殺計画を聞いたことから命を狙われるサスペンス。同名の原作があるが、設定だけを借りてまったく違う話にしてあるそうだ。オリジナルな話としては良くできているけれど、映画としては人間関係が入り乱れて分かりにくくなったきらいがある。シドニー・ポラック監督は場面場面を的確に演出していながら、人間関係の整理がうまく表現できていないのだ。にもかかわらず映画が魅力的なのは、ひとえにニコール・キッドマンとショーン・ペンのお陰である。脚本でもこの2人のキャラクターは心に傷を持った設定にしてあって奥行きが深いが、2人の演技はそれに輪をかけてキャラクターをくっきりと浮かび上がらせている。さすがに2人ともアカデミー主演賞を取った俳優だけのことはある。血肉の通ったキャラクターであり、多少の語り口のまずさを超えさせる力がある。特にキッドマン。知的で美しく毅然としていながら、弱さも見せる女を演じて文句の付けようがない。ハリウッドを代表する女優だなと改めて思った。

 ショッキングな場面で映画は幕を開ける。アフリカのマトボ共和国にあるサッカー場に来た2人の男が少年3人にいきなり射殺される。同行していたカメラマンは車に残っていて難を逃れた。場面変わってニューヨークの国連本部。同時通訳のシルヴィア・ブルーム(ニコール・キッドマン)は忘れ物を取りに通訳ブースに戻り、暗がりの中で男たちの会話を偶然耳にする。そこで照明がついてシルヴィアは顔を見られる。男たちは「先生は生きてここを出られない」と話していた。先生とはマトボ共和国のズワーニ大統領のことで、シルヴィアは翌日、国連本部に報告する。マトボ共和国でズワーニ大統領は住民を虐殺しており、その弁明のために近く国連で演説することになっていた。シルヴィアはその日から周囲に不審な動きがあることを察知する。ズワーニはかつて民衆の指導者だったが、大統領になってから独裁政治を行うようになった。それに反対する勢力が2つあった。ゾーラとクマン・クマンの2人がそれぞれ率いる勢力。暗殺計画はこのどちらかが計画しているらしい。大統領暗殺計画を阻止するためシークレット・サービスのトビン・ケラー(ショーン・ペン)とウッズ(キャサリン・キーナー)が捜査に乗り出す。

 というのが大まかな設定である。単なる通訳と思われたシルヴィアは実はマトボ共和国の出身であり、両親と妹を政府軍が仕掛けた地雷によって亡くした過去を持つことが分かってくる。シルヴィアは一度は銃を取り、ゾーラの反政府勢力に入ったが、ある出来事をきっかけに祖国を離れた。国連の通訳になったのは銃よりも言葉による外交を信じたからだ。ケラーは交通事故で妻を亡くして仕事に復帰したばかり。向かいのビルからシルヴィアを監視しているうちに2人にほのかな心の交流が生まれるのはこうした映画の常套的な手法だろう。眠れないシルヴィアが携帯電話で向かいのビルにいるケラーと話すシーンなどはロマンティックだ。

 シドニー・ポラックはそうしたロマンティックなシーンには冴えを見せるが、過去の作品を見てもサスペンスはあまり得意ではないらしい。ロバート・レッドフォード主演の「コンドル」を見たときも話の本筋が分かりにくかった記憶がある。それにもかかわらずレッドフォードとフェイ・ダナウェイによって映画はある程度面白く見られた。それと同じことがこの映画にも当てはまっている。ストーリーテリングがうまい監督ではなく、俳優の演技を引き出すタイプなのだろう。

2005/05/22(日)「Ray/レイ」

 「Ray/レイ」パンフレットジェイミー・フォックスが終盤、空想の中で目を開けるシーンで、レイ・チャールズとはあまり似ていないことがはっきり分かる。目を瞑って動作を真似るだけでこんなに似てくるものかと思う。フォックスはアカデミー主演男優賞を受賞したが、それに恥じない熱演だと思う。映画化に15年かけたというテイラー・ハックフォード監督はレイ・チャールズの生涯を女好きやヘロイン中毒というネガティブな部分を含めて描き出す。これは賢明な判断で、そういう部分がないと映画は嘘っぽくなるのである。弟を目の前で死なせたことがトラウマ(心的外傷)になったエピソードなどもレイ・チャールズという人間を描くのに欠かせないことだし、失明したレイを厳しく育てる母親(シャロン・ウォレン)の存在もそうだろう。人間的なレイを浮かび上がらせることにハックフォード演出は成功し、力作となっている。

 とは思うものの、音楽的な才能の秘密がどこにあったかについてはないがしろにされている感が強い。子供のころ失明したレイが周囲の物音に目覚めるシーンは“耳で見る”能力を表現して秀逸だが、音楽に関してはそういう部分がない。有名な曲がたくさん流れるにも関わらず、音楽映画的部分が物足りないのは人間レイを追求した結果、音楽家レイの追求が手薄になったからではあるまいか。

 実際、映画を見終わって印象に残るのは盲目、ヘロイン、女好きという3つのことなのである。一度はレイを追放したジョージア州議会が謝罪し、州歌を「わが心のジョージア」に決めるというレイの復権を描いて映画は終わるが、黒人差別、公民権運動に対するレイのスタンスは詳しく描かれない。中盤、ジョージアでのコンサートに訪れたレイがファンからコンサートの中止を求められるシーンがある。ジョージア州はアフリカ系アメリカ人を隔離席に押し込めるという施策を取っていた。コンサート会場の前でその施策に抗議していたファンの1人がレイに駆け寄り、コンサート中止を依頼する。「自分はただの音楽家だ」と最初は断っていたレイは話しているうちになぜか心変わりして公演を辞める。それが元でジョージア州はレイを追放するのだが、この心変わりの部分をもっと知りたくなるのだ。復権のシーンを効果的に見せるにはそれが必要だと思う。スパイク・リーなどのアフリカ系アメリカ人が監督すれば、そういう社会派的な部分をもっと描いたに違いない。

 人の生涯を描く上で何を取り何を捨てるかは難しい。ハックフォードはヘロイン、女好き、盲目を取った。僕は他の部分にもっと興味がある。要するにそういうことで、この映画で満足する人も多いだろう。

 ただし、ハックフォードの技術は決してうまくはないと思う。2時間32分が長く感じるのは語り口にくどい部分があるからだ。これはうまいという表現の仕方もなかった。ハックフォード、とりあえずまとめ方に難はないけれど、見せ方には相変わらず凡庸な部分を引きずっている。

2005/05/09(月)「甘い人生」

 「甘い人生」パンフレットパンフレットのイ・ビョンホンのインタビューによると、キム・ジウン監督は撮影中、ビョンホンにアラン・ドロンのイメージを重ね合わせていたそうだ。僕も映画を見ながらアラン・ドロンの映画をなんとなく思い浮かべていた。外見がハンサムとかそんなことではなく、アラン・ドロンの映画は暗黒街の組織に刃向かった男を描いたものが多かったイメージがあるのだ。フィルム・ノワールといわれるフランスの暗黒街を描いた映画に通じる臭いがこの映画にはあり、だからこそ韓国ノワールという言い方も的を射ていると思う。ただし、アラン・ドロンの映画はもっとクールであり、こんなにハードでも凄惨でもなかった。

 この映画で描かれるアクションは凄まじい。無造作に銃を放ち、頭の一部が飛び、指が飛ぶ。殴り殴られるシーン、刃物で刺されるシーンなど肉を切り骨を断つ描写が続いて、画面から痛いイメージが伝わる。銃の撃ち方にはチョウ・ユンファの香港ノワールも思い起こさせたが、描写はよりリアルだ。キム・ジウンの狙いは物語よりもこうした描写の方にあったのではないかと思える。ボスの女に情けをかけたために主人公は組織から殺されかけ、危うく逃げ延びて復讐を図る。それが単なる設定としか思えないほど、この映画、アクション描写の方に力がこもっているのだ。それが半面で弱さにもなっている。主人公は女を愛してしまったのかどうか、なぜ命を狙われねばならなかったのか、どうも釈然としない。ほんのささいな出来事で人生の歯車が狂っていく男の不幸を描いた映画として見るならば、それはそれでいいのだが、激しいアクションの根底をなす部分なのであいまいなままではどうもすっきりしない。ボスの愛人を演じるシン・ミナが若すぎて、大人の女の魅力に欠けるのもマイナス要因ではないかと思う。普通の小娘にしか見えず、それまで女を愛したことがなかった男が惹かれる相手として説得力を欠くのである。

 主人公のキム・ソヌ(イ・ビョンホン)はレストランとラウンジの支配人。裏社会を牛耳るカン(キム・ヨンチョル)の右腕として信頼を得ている。カンは3日間の出張の間に自分の愛人ヒス(シン・ミナ)を見張るよう命じる。最近、ヒスには若い男の影があった。もし、本当に男がいるのなら、「カタを付けるか、自分に電話しろ」とカンはソヌに言う。ソヌはこれまで女を愛したことがない。カンがソヌに頼んだのもそのためだった。ソヌはヒスを監視して、一緒に食事を取るようにもなるが、予想通り、ヒスは若い男と付き合っていた。ある夜、ソヌはヒスが自宅で男といる現場に踏み込む。電話をするか、殺すか。ヒスの表情を見ていたソヌは一瞬ためらい、2人に別れるように言っただけで去る。初めてボスの命令に背いたこと。それが破滅の始まりだった。

 ここから映画はアクションに次ぐアクションの展開となる。アクションというよりは暴力描写といった方がふさわしいかもしれない。ソヌは徹底的に痛めつけられ、生き埋めにされる。そこからなんとか逃げ延びる場面は「キル・ビル」を思わせるが、地中から命からがら這い出しても再び、待ちかまえていた組織の男たちに捕らえられ、痛めつけられる。血まみれになりつつ、一瞬のすきをついてソヌは逃げ出す。そしてカンへの復讐を始めるのだ。

 イ・ビョンホンはナイーブな2枚目のイメージがあるが、冒頭、素早い動きでチンピラを叩きのめすシーンでアクション俳優としてもなかなかやるなと思わせる。キム・ジウンは描写力、演出力では完成された技術を持っている。脚本に磨きをかければ、さらに面白い映画を作る監督になるのではないか。この監督、職人ではなく、作家的な資質を持っていると思う。

2005/05/03(火)「SAW」

 いやあ、面白い。B級映画だろうと思って見始めたら、ぐいぐい引き込まれ、ラストで驚かされた。こういう犯人だったのか。まるで見当がつきませんでしたね。血なまぐさい部分があるので、万人向けではないだろうが、アイデアを詰め込んだ脚本の緻密さには感心。きっちり作ってあるミステリだと思う。

 薄汚いバスルームで鎖につながれた2人の男。真ん中に自殺死体。閉じこめた犯人は2人にノコギリを与える。目の前の男を殺さなければ、家族を殺す、と片方の男は言われる。予告編ではこのシチュエーションだけが描かれていた。本編を見ると、サイコキラーとそれを追う刑事(ダニー・グローバー)の話が絡んでくる。そのサイコキラーが2人を閉じこめたわけだ。

 これほど知能的な犯罪を繰り返すには犯人像に少し無理がある(シチュエーションにもある)のだが、小さな傷と言うべき。ジェームズ・ワン監督と脚本・出演を兼ねたリー・ワネルが考えたストーリーは最近のミステリ映画の中では出色の出来だと思う。中盤で犯人と思われる人物が出てきたあたりで、後は普通のサスペンスになるのかと思ったら、ラストで意外な人物が登場して観客に“最後の一撃”を与える。出し方もアンフェアではない。謎とサスペンスとスリラーが絶妙のブレンドで、昨年見ていたら、ベストテンに入れていただろう。

 ワンとワネルは2006年公開を目指して「Silence」という作品を準備中とのこと。どういう映画になるのか楽しみだ。

2005/04/29(金)「海を飛ぶ夢」

 「海を飛ぶ夢」パンフレット東京で見たのはこの映画。「女性の日」だったので、上映開始20分前に行ったら、シャンテシネには既にオバサマたちの長い行列があった。

 「あなたがテレビで言ったことを忘れない。ラモンが家族の愛に恵まれていないですって! 私は28年間、ラモンの世話をして自分の息子のように思っているわ」。

 首から下が麻痺した主人公ラモンの義姉マヌエラが同じ障害を持つ神父に怒りをぶつける。自分の人生に尊厳はなかったとして死を望むラモンは支援者とともに裁判で尊厳死の法制化を訴えた。神父はテレビのインタビューでそれに対するコメントをして、話し合うためにラモンの家にやってきたのだ。この映画が巧みなのは決して裁判をメインに持ってこず、ラモンの家族や友人たちの描写を丹念に積み重ねることで尊厳死の問題を自然に浮かび上がらせていることである。「アザーズ」の時にも思ったが、アレハンドロ・アメナーバルは描写がうまい。主人公が夢の中で空を飛ぶシーンなどにもそれは発揮されている(このシーンの飛翔感、浮遊感はとても印象的なので、邦題にした理由もうなづける)。細部の描写に説得力があるためにテーマも深化する。アメナーバルが言うようにこれは家族愛や男女の愛などさまざまな愛を描いたラブストーリーとして成立している。語りたいテーマをどう語ればいいのかよく分かっているからこうした巧みな映画になるのだと思う。

 今年のアカデミー外国語映画賞受賞。実話を基にした映画なのだという。船乗りだったラモン・サンペドロ(ハビエル・バルデム)は25歳の夏に海に飛び込んで首の骨を折り、首から下が麻痺してしまう。以来、ベッドに寝たきりとなった。家族はそのラモンを献身的に支える。兄のホセ(セルソ・ブガーリョ)、その妻マヌエラ(マベル・リベラ)、息子のハビ(タマル・ノバス)、老いた父親ホアキン(ホアン・ダルマウ)の4人。農場と小さな菜園が一家の収入源である。寝返りを打つのにも家族の手を借りなければならないラモンは自分に尊厳はなく、生きる義務を負わされていると感じて、死ぬ権利を要求する。

 個人的には人間、放っておいても死ぬのだからそれを早めることはないじゃないかと思うが、義務と感じるほどラモンにとって生きることはつらいことなのである。四肢麻痺の患者すべてに尊厳がないということか。そうではない、とラモン自身も否定する。四肢麻痺の神父はそれを例証する存在でもある。愛に恵まれたラモンのような存在であっても、死にたいと思うことはある。自分一人の力では自殺できない人間は死ぬために他人の力を借りなければならない。しかし、死を手助けした人間は犯罪に問われる。その現状を変えろ、死ぬ自由を与えろというのが映画のシンプルな主張である。

 ただし、映画に感動するのは献身的にラモンの介護をするマヌエラの姿であり、自身も痴呆の病気を持つ弁護士フリア(ベレン・エルダ)であり、ラモンに好意を寄せるロサ(ロラ・ドゥエニャス)であり、ラモンの主張を理解して手助けするジェネ(クララ・セグラ)たちの姿である。ラモンを死なせたくない兄、ラモンの言うことに従う甥のハビ、なすすべもなく見守る年老いた父親など、それぞれの描写に豊かな情感が込められる。それが大上段にテーマを振りかざすような幼稚な映画になることを免れた理由だろう。死にに行くラモンの乗った車を見送っていたハビが思わず追いかけて走り出すシーンはそうした登場人物たちのしっかりとした描写に支えられていっそう感動的になる。

 アメナーバルはテーマ主義の監督では決してなく、描写主義の人なのだと思う。そしてその姿勢は優れた映画監督に欠かせない条件なのである。36歳のハビエル・ハルデムが詳細なメイクで50代のラモンを演じている。メイクだけでなくその演技の充実には驚嘆せざるを得ない。