2006/04/16(日)「プロデューサーズ」
オープニングの「オープニング・ナイト」というわくわくするような爆笑の歌を聴いて、これは面白いかもと思ったのだが、その後は感心するスコアはなかった。ミュージカルとしては歌と踊りの抜群にうまい役者がいないことが決定的にもの足りず、どれもこれもB級の歌、B級の踊りだと思う。ミュージカルが血肉となった本物のソング&ダンスマン(ウーマン)がいないことがこの映画の弱いところなのだろう。舞台のオリジナル・キャストでもあるマシュー・ブロデリックは額のしわや体型の緩みが気になった。舞台ではしわまでは見えないからいいにしても、映画に出すなら、もっと若い役者の方がこの役柄には似合っていたと思う。毛布が手放せない幼児性を持つこのブロデリックをはじめ、出てくるのはエキセントリックなキャラクターばかり。それがいかにもメル・ブルックス映画を基にした作品らしい。プロデューサー役のネイサン・レインや脚本家役のウィル・フェレル、ゲイの演出家役のゲイリー・ビーチ、およびその“内縁の助手”ロジャー・バートはおかしくて良いが、映画自体は平凡な出来である。
メル・ブルックスの1968年のコメディを基にして作られた2001年のブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ブルックスもこの映画の脚本とプロデューサーを務めている。監督は舞台での振り付けと演出を担当したスーザン・ストローマン。ストローマンの演出は舞台をそのまま映画にしたような感じを受ける。ブロデリックなどのキャラクターの性格はデフォルメされていてリアリティーとは遠いところにあり、これがコメディだからといって、オーバーな描写ばかりでは面白くない。いや、メル・ブルックスの映画でもこうしたデフォルメされたキャラクターはおなじみなのだけれど、映画にするのであれば、それなりの脚色が必要だと思う。せめて主人公ぐらいはまともなキャラクターにした方が良かった。まともな主人公がおかしな人々に巻き込まれていくという展開の方が個人的には好きなのである。観客に笑いの間を与えるような舞台目線があることも、僕には違和感となった。
時代は1959年。ブロードウェイの売れないプロデューサー、マックス(ネイサン・レイン)のところに会計士のレオ(ブロデリック)がやってくる。帳簿を見たレオは「売れないミュージカルの方が儲かる場合もある」とつぶやく。それを聞いたマックスは絶対にヒットしないミュージカルを作ろうと決意。ブロードウェイのプロデューサーになることが夢だったレオも会計事務所を辞めてマックスに協力することになる。ニューヨークの老婦人を色仕掛けでだまして出資させ、最低の脚本を探し、最低の演出家に担当させ、言葉のおかしなスウェーデン出身の女優ウーラ(ユマ・サーマン)をキャスティングする。と、ここまでが緩んだペースで描かれる。もう少しメリハリをつけるべき演出だ。脚本家のフランツ(ウィル・フェレル)が主役を務める予定だったが、開演前日に足を骨折。代わりに演出家のロジャー(ゲイリー・ビーチ)が主役を演じることになる。この「ヒトラーの春」という舞台が映画の白眉で、ヒトラーとナチズムを嗤い倒した内容と派手な演出が楽しい。ここが溌剌としているのはやはりストローマンが舞台の人だからなのだろう。
内容から見て、僕はバズ・ラーマン(「ムーラン・ルージュ」)が監督していたら、もっと面白くなっていたのではないかという感じを受けた。ユマ・サーマンは僕は好きなのだが、ニコール・キッドマンほど歌に魅力がない。キャサリン・ゼタ=ジョーンズあたりをキャスティングすると良かったかもしれない。大いに笑わせてもらったけれど、ミュージカルとしては不満が残った。
2006/04/15(土)「クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」
シリーズ第14作。子供2人を連れて見に行く。初日だけあってけっこうな入りだった。
今回はジャック・フィニィ「盗まれた街」を思わせる侵略もの(秘密組織のお姉さんがジャクリーン・フィーニーという名前なのはそれを意識したものだろう)。カスカベの住人が次々に偽物に入れ替わるという話で、野原一家とカスカベ防衛隊の幼稚園児たちがいつものような活躍をする。
前半はこの設定に沿ったホラーっぽい描写がある。入れ替わった偽物の顔が怪物に変わる描写などもそれだが、ネタが分かってみると、こうした描写、整合性が取れない感じがする。視覚的な怖さだけでなく、心理的な怖さももっと強調すると良かったかもしれない。入れ替わる理由にも説得力が足りず、設定だけがあって話をまとめきれなかったようだ。いつものようにギャグを満載した展開はおかしいのだけれど、話の底が浅いので物足りない気分になる。これが原恵一なら、もっと話を面白くしたのだろうな、というのは無い物ねだりの感想か。
カスカベで次々に人が偽物に変わるといううわさが流れる。外見はそっくりだが、本人とは違う。しんのすけの通うふたば幼稚園の先生や園児もどこかおかしい。この偽物たち、なぜかサンバが大好きで音楽が流れると踊り出す。しんのすけたちは襲われたところを辛くも逃げ出す。しんのすけの父ヒロシの会社でも部下が偽物に変わったようだ。スーパーで襲われた野原一家をジャッキーという謎の女が助ける。ジャッキーの話によると、世界的にこうした現象が起こっているという。
ヒロシが偽物と対峙する場面はどちらが本物かを分からせるのにヒロシの足のにおいを持ってくるあたり、いつものクレしんの世界。この後に本物かと思われたしんのすけが実は偽物だったと分かるところなど面白いと思う。本物と偽物という概念はフィリップ・K・ディックが好んで用いたように、哲学的にもなるアイデアだ。子供向けなのでそこまでは行っていないが、できる監督ならこれをもっと巧妙に入れていただろう。ちょっと難しい部分を入れると、映画は深みがあるように思えてくるものなのである。ムトウユージ監督は素直にまとめすぎたきらいがある。
ムトウユージはテレビシリーズの監督で、映画は昨年の「伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃」に次いで2作目。オープニングのよしなが先生が入れ替わるシーンから手際がスマートではない。ここはもっと短くした方が良かった。しんのすけの友人である風間君とその母親の描写などは永井豪の漫画「ススムちゃん大ショック」を参考にしているのではないか(あるいは「妖怪人間ベム」とか)。ムトウ監督は1962年生まれなので、そのあたり、僕と嗜好が似ている。
2006/04/09(日)「タイフーン」
復讐の鬼と化したシンをもっと詳細に描くべきだったのだと思う。北からも南からも見捨てられ、家族を殺されたシン(チャン・ドンゴン)の恨みは一応描かれるのだけれど、それが南北朝鮮に核廃棄物を降らせるテロにまで説得力を持たせているかというと、そうはなっていない。激しいアクションを納得させる動機付けの部分が弱い。はっきり言って、前半はどんなに激しいアクションがあろうとも退屈。中盤、姉の口からシンの身の上が明らかになってエモーション的に盛り上がるのだけれども、以降はまたも激しいアクションだけで退屈。ドラマとアクションの融合がうまくいっていない。韓国の国家機関の人間から描くのではなく、これはシンの立場から描くべき話だったのだと思う。クァク・キョンテク監督はアクション場面の撮り方は合格点だけれども、ドラマの描き方に課題を残している。
アメリカ船籍の貨物船が海賊に襲われ、乗員を皆殺しにされて積み荷を奪われる。奪われたのは核ミサイル用の衛星誘導装置。日米両国は韓国に黙認を要請するが、韓国国家情報院は独自の捜査を始める。捜査に当たるのはアメリカで特殊訓練を受けたカン・セジョン(イ・ジョンジェ)。カンは海賊のリーダーがシンという男であることを突き止める。シンは誘導装置と引き替えにロシアから30トンの核廃棄物を手に入れようとしていた。シンは20年前に家族とともに北朝鮮から亡命しようとしたが、韓国政府は受け入れず、両親は北朝鮮兵士の手で殺された。シンと中国ではぐれ、今は娼婦となった姉のミョンジュン(イ・ミヨン)からその詳細を聞いたカンはミョンジュンと会わせることを条件にシンから誘導装置を取り戻そうとする。しかし、ロシアに既に誘導装置が渡ったと知った韓国政府は作戦の中止を命じ、シンを殺そうとする。
シンの意図は台風を利用して核廃棄物を積んだ多数の風船を朝鮮半島に運び、そこで爆発させることだった。クライマックスは史上最大級の台風が2個接近する中で、シンの船に乗り込み、テロ行為をやめさせようとするカンとその部隊の活躍が描かれる。アクション場面には別に何の文句もない。オリジナリティがそれほどあるわけではないけれども、日本のアクション映画に比べれば、はるかに迫力があり、よくできている。ただし、アクション映画の魅力というのは単なるアクションだけにあるのではない。登場人物の心情がいかに激しいアクションにシンクロしていくかにかかっているのだ。そこがこの映画は弱いと思う。「ブラザーフッド」の時にも思ったのだが、アクションの割に細部の作り込みが雑に感じるのだ。
カンの上司役で阪本順治「KT」のキム・ガプスが出演。相変わらず凄みのある顔つきをしていて良い感じである。チャン・ドンゴンもイ・ジョンジェも顔つきだけはアクション映画にぴったりな感じ。脚本をもっとうまく作ってさえいれば、傑作になっていたのにと思う。それにしても南北分断の悲劇が描かれるあたりで映画の雰囲気がきりっと引き締まるのは日本映画にはない長所だなと思う。こうした政治的材料がないのが日本のアクション映画の弱いところなのだろう。
2006/04/02(日)「ショーン・オブ・ザ・デッド」
イギリス製のゾンビ映画。登場人物たちがその言葉(ゾンビ)を言うなと怒ったり、ゾンビの大群から逃れるためにゾンビの動きをまねしたりのコメディタッチに好感。ちゃんと怖いシーンもあるが、まあ小学生でも我慢できる程度の怖さ(PG-12指定)。ゾンビ映画としては本家と肩を並べる面白さ、というのは褒めすぎか。面白さの質は全然違うんですけどね。
監督はエドガー・ライト。主人公のショーンを演じるのはサイモン・ペッグ。IMDBのトリビアによると、ペッグは「スター・ウォーズ」の熱烈なファンとのこと。この映画で友人役のピートを演じたピーター・セラフィノウィックは「エピソード1 ファントム・メナス」でダース・モールの声を演じたそうだ。ペッグは「M:I-3」にも出ているそうで、楽しみだ。
2006/03/28(火)「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」
「ハウルの動く城」「ティム・バートンのコープス・ブライド」を抑えてアカデミー長編アニメーション賞を受賞したクレイ(粘土)アニメ。野菜畑を荒らすウサギに対抗する発明家ウォレスと愛犬グルミットの活躍を描く。と、簡単にストーリーは要約できず、途中で狼男や「ザ・フライ」を思わせる展開になる。ウサギ吸引装置の場面などにCGも使っているが、そこもクレイ・アニメの雰囲気に似せて作ったそうだ。イギリスのスタッフらしく、細かいギャグやサスペンスタッチも取り入れて粋な仕上がりである。ただし、あくまでも子供向け。随所にある過去の映画の引用やパロディ的な描写も子供に分かる程度の内容になっている。その品の良さがアカデミーでは好まれたのかもしれない。あまのじゃくなファンとしては、長編よりも5分か10分ぐらいの短編をたくさん見た方が満足感が高いのではないかと思ってしまう。短編の方が向いている題材ではないかと思うのだ。
巨大野菜コンテストが間近に迫った町で、ウォレスとグルミットは害獣駆除隊「アンチ・ペスト」として畑を守っていた。いたずらウサギを捕まえて、被害を防ぎ、新聞の一面を飾る。それを見たコンテストの主催者レディ・トッティントンから連絡が入り、ウォレスとグルミットはトッティントンの畑にいた大量のウサギを吸引装置で駆除する。捕まえたウサギは地下室で飼っていたが、ウォレスは自分が発明した装置を使って、ウサギを野菜嫌いにしようとする。チーズ好き、野菜嫌いの自分の思考をウサギの脳に送って野菜嫌いにする計画。しかし満月の光も借りて行った実験は失敗に終わる。ある夜、巨大なウサギが畑を荒らす事件が発生。再びかり出されたウォレスとグルミットは先日の実験に使ったハッチと名付けたウサギが巨大化しているのを発見する。ここからのストーリーにはちょっとしたヒネリがある。ヒネリはあるが、ヒネった先は定跡を踏んだ展開で、想像はつく。
いたずらウサギたちの描写は「グレムリン」風で、そこから狼男や「ジキル博士とハイド氏」を思わせる展開になり、最後は「キング・コング」風になる。ウォレスとグルミットに対抗する役柄としてウサギを銃で駆除しようとするハンターのヴィクターとその愛犬フィリップが登場し、生き物を殺さないウォレスとグルミットの人のいいキャラクターを強調しているのが品の良さにつながっている。物語にヒネリはあるが、キャラクターは(少しぐうたらなところはあるけれども)品行方正なのである。そこが映画の心地よさでもあるので、否定はしない。
「ウォレスとグルミット」は時々、カートゥーン・ネットワークで放送している。あれは1分のシリーズなのか、それともアカデミー賞を受賞した短編の方なのか、じっくり見ていないので分からないが、発明家なのにちょっと抜けているウォレスとしっかりしたグルミットの関係はなんとなくチャーリー・ブラウンとスヌーピーの関係を思わせて微笑ましい。日本語吹き替え版はウォレスを萩本欽一、トッティントンを飯島直子が担当。ちょっと違うかなと思ったが、見ているうちに違和感はなくなった。飯島直子には実写映画にも出てほしいものだ。