2006/11/26(日)「水からの伝言」を信じないでください

 作家の高千穂遥さんのページにリンクが張ってあった。水に「ありがとう」などの美しい言葉を見せると美しい結晶を作り、「死ね」などの汚い言葉を見せると汚い結晶を作るという本に対する反論。デマに対して科学者が真剣に反論するのは一見、バカらしいとも思えるのだが、そうではないのである。なんせ相手方は1冊本を書いているのだから、中には信用してしまう人もいるだろう。科学者の立場でしっかりとした反論を書いてもらった方がいい。「水からの伝言」にみるにせ科学というページもあった。

 水からの伝言ですごいのは「言葉を見せると」という部分。水は日本語を理解するのか。英語だったらどうなのだろう。あるいはスワヒリ語とかエスペラント語とか。

 だいたい、美しいなどという基準で物事を判断するのはどこかの首相と同じで、あまりレベルが高いとは言えない。裏返せば、こういう「美しい」を基準にしている人は汚いものを差別するのだろう。物事を美醜や優劣で判断する考え方がいじめの要因の根幹にもあるのではないか。

2006/11/25(土)「ヨコハマメリー」

 「ヨコハマメリー」パンフレット上映終了後のトークショーが終わった後、ロビーでパンフレットへのサイン会があったので中村高寛監督に気になっていたことを聞いてみた。

 「監督はハードボイルドが好きなんじゃないですか?」

 そんなことを聞いたのはもちろん、この映画がハードボイルドの手法で構成されているからだ。いなくなった人物のことを周辺の人物に聞いてまわることで人物の肖像を浮かび上がらせるという手法。この映画の場合、探偵役は中村監督なのだが、ハードボイルド・ミステリと異なるのは監督がメリーさんの消息だけに関心があって聞いているわけではないところにある。それがなぜなのかはラストで分かる。このラストもこの手法からすれば、必然的なものだったと思うし、予想もついた。この手法は意図的なものなのか、偶然なのか。そこが気になった。

 監督は「好きですよ。なぜですか」と答えた。

 「映画の手法が似ていると思いました」

 「次(の作品)はもっとハードボイルドな実録的なやつです」

 僕はよく映画の感想の中に「ハードボイルドタッチに似ている」と書くけれど、ハードボイルド・ミステリを読んだことがない人にはまず誤解されているだろうなと思う。トレンチコートに帽子をかぶった探偵が出てきたりとかハードなアクションがある映画を想像しているのではないか、と心配になるのだ。僕がハードボイルドタッチと書くときは常に前述したような手法を指している。間接的な描写を積み重ねて焦点の人物像を描く手法を用いた映画のこと。監督の最後の答えは意図的なものではないのでは、という疑問を持たせるものだった。

 それに中村監督は上映前のあいさつで「この映画はメリーさんを描いたものではありません」と語った。ならば、この手法は偶然のものなのだろう。いや意図的かどうかは実はあまり重要な問題ではない。この映画がその手法である程度成功していることが重要なのだ。

 「ハマのメリー」と呼ばれる白塗りに白いドレスを着た高齢の娼婦がいた。背中が曲がったその姿は写真だけで十分にインパクトのあるものだ。1995年にメリーさんは伊勢佐木町から姿を消す。街の人々は「メリーさんはもう死んだ」と確信している。というのが映画の出だし。そこから映画はメリーさんにかかわったさまざまな人物にインタビューしていく。メリーさんを世話したゲイのシャンソン歌手・永登元次郎、エイズを気にする客のためにメリーさんの来店を断った美容室、メリーさんがよく行った酒場・根岸家を知る元愚連隊、メリーさんを取り上げた作家の山崎洋子、メリーさんをモデルにした一人芝居「横浜ローザ」で主役を演じた女優の五代路子、芸者、クリーニング店などなどだ。中でも永登元次郎の在り方が胸を打つ。永登は撮影時点で末期ガンにかかっている。それでもステージに立ち続け、カメラに向かってメリーさんとの交流を語る。永登がメリーさんにシンパシーを持っているのはどちらもマイノリティの立場にあるからだろう。

 中村監督がこの映画に取りかかったのは1997年。10年近くメリーさんを追い、計150時間のビデオを撮ったそうだ。メリーさんの消息は映画のラストで分かるのだが、ついに本人へのインタビューはない。ドキュメンタリーで、ある人物のことを描きたいなら、その人物へのインタビューが分かりやすいと思う。ところが、人間はカメラに向かって嘘をつくことも多いのだ。今村昌平の傑作「人間蒸発」は虚実皮膜を意識して構成した映画だったが、それは発言の中に嘘があることを承知した上で取った手法だったのだろうと思う。この映画でも五代路子がメリーさんの格好をして町中を歩く場面があり、そこに「人間蒸発」と同じような虚実皮膜の面白さを感じた。フィクションとノンフィクションが混じった場面なのである。

 パンフレットに監督は「『メリーさん』を通した、『ヨコハマ』の一時代と、そこに生きた人たちを、ただひとつの現象として撮っただけ」と書いている。だから「ヨコハマメリー」というタイトルであっても監督が描きたかったのは横浜の街と時代とそこに住む人々だったのだろう。ただ、見ているうちにもっとメリーさんについて知りたくなってくる。初めて撮ったドキュメンタリーでこれほどの作品ができれば大したものだが、この手法をもっと焦点の人物を浮かび上がらせる方向で徹底すれば、さらに映画は面白くなると思う。根岸家に集っていた愚連隊たちを取り上げるという第2作に期待したい。

 トークショーで監督が話したことを付け加えておくと、ラストの場面は2003年1月に撮影したものであり、監督はその3年前からこの場所に通っていたそうだ。パンフレットによれば、2004年に永登は死に、メリーさんは2005年1月に亡くなった。

2006/11/23(木)「ホテル・ルワンダ」

 「白バラの祈り」は主人公のまっすぐな姿勢に感銘を受けたが、この映画の主人公は生き残るために賄賂でもなんでも行う。それが地獄のような状況を強烈に浮かび上がらせている。僕がルワンダの虐殺を知ったのはビクトリア湖に流れ込んだ4万人の死体が報道されたころだが、ちょうどそのころ主人公は必死に生きる道を探していたのだろう。

 映画の中でジャーナリストの一人が言う。フツ族によるツチ族の虐殺場面がテレビで報道されても「人々は“怖いね”と言って、またディナーを続けるのさ」。西側諸国が一番ひどい状況の中でルワンダを見捨てたのは許せない。許せないけれども、報道を見たり読んだりしていた僕らも何もしていなかったのだ。その意味で西側諸国の対応を批判しつつ観客をも批判する映画と言える。

 少なくとも製作者たちは次に同じような事態が世界のどこかで起こった時に、観客に何らかのアクションを起こすことを求めているだろう。ユニセフの毎月の募金を始めなくちゃという気になる。

 監督のテリー・ジョージは「父の祈りを」は良かったが、「ジャスティス」には感心しなかった。この人、ジャーナリスティックな素材が向いているのかもしれない。

2006/11/22(水)「ヒストリー・オブ・バイオレンス」

 エド・ハリスが出てくるところまでは予告編で知っていたが、さらにその後があるとは。サム・ペキンパー「わらの犬」を引き合いに出していた評論家がいたけれど、全然違う。日本のヤクザ映画、高倉健主演の映画にありそうな話だ。逆に言うと、そこが少し不満な点で、もっと意外性のあるストーリーが欲しくなってくる。

 デヴィッド・クローネンバーグは肉体の変容から精神の変容を描くようになり、映画が難しくなった。これは単純明快なところがいい。しかも、変容のテーマはしっかりと引き継いでいる。

 よくあるストーリーにもかかわらず、映画を際だたせているのは殺しの場面のリアルさで、後頭部を打たれて顔を半分吹き飛ばされながら、口をもごもごさせている場面とか、鼻を何度も突き上げられて鼻がもげてしまった男とか、暴力の衝動の激しさを物語っていて面白い。ヴィゴ・モーテンセンもマリア・ベロも好演。

 上映時間が1時間36分と無駄がなく、シャープ。

2006/11/20(月)「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」

 とんでもない傑作。個人的にはベストテン入り確実。全編にみなぎる緊張感と核心を突いたセリフの応酬に震えがくるほど。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したそうだ。当然だろう。

 ヒトラー打倒のチラシをまき、ゲシュタポに逮捕されながらも良心と信念を曲げなかった21歳の女子大生の話。ゾフィーを演じるユリア・イェンチと取調官のアレクサンダー・ヘルトの主張は完全に平行線なのだが、取調官はゾフィーのその強固な姿勢に揺らぐ場面を見せる。ここでゾフィーが語るセリフが凄すぎるのだ。

「神を疑う者に教会は服従を求める」

「教会は意思を尊重するわ。ヒトラーは選択を与えないわ」

「なぜ若いのに誤った信念のために危険を冒す?」

「良心があるからよ」「過ちを認めても裏切りにはならない」

「でも信念を裏切るわ。間違った世界観を持ってるのはあなたよ。最善の事をしたと信じているわ」

 ゾフィーは逮捕されて5日目に死刑判決を受け、即日処刑される。まるでジャンヌ・ダルクを思わせるような生涯だ。白バラとはゾフィーが所属していた組織の名前で、この映画のほかに「白バラは死なず」「最後の5日間」という2本の映画があるそうだ。そちらも見てみたい。