2009/12/30(水)「アバター」

 資源開発会社RDAの保安部隊を騎兵隊に、ヒューマノイド型の種族であるナヴィをアメリカ先住民に置き換えれば、これは西部劇。先住民と暮らすことで主人公が認識を改めていく「ダンス・ウィズ・ウルブズ」とよく似た構成の物語となる。時は22世紀、映画の舞台となるパンドラは地球から5光年離れたアルファ・ケンタウリ系の巨大ガス惑星ポリフェマスの衛星という設定だ。地球の燃料危機を救うカギとなる鉱物アンオブタニウムを採掘するため、人間たちはこの衛星にやってきた。アバターとはナヴィと人間のDNAを組み合わせて作ったハイブリッドの肉体で、これを遠隔操作して主人公はナヴィに接近していく。

 自然と共生するナヴィの姿は「風の谷のナウシカ」を思わせ、エコロジーの視点とアメリカ侵略主義への批判も含んでいるのだけれど、物語自体に新しい視点は少ないように思う。ジェームズ・キャメロンは過去の作品と同じようにビジュアル重視で映画を構成しており、俳優の演技をトレースするパフォーマンス・キャプチャーとCGをめいっぱい使ってゼロから映画を作り上げている。自然に見えるが、これは大変手のかかった作品と言える。

 映画ではパンドラの生態系の詳細が分からないことと、物語自体に新鮮さが欠けているのが少し不満な点。オリジナルな設定ではあってもオリジナルなストーリー展開とは言えない。これは「ターミネーター2」でも思ったことで、キャメロンの関心は脚本よりもビジュアルに大きく傾いている。キャメロン自身、相当なSFファンらしいけれど、もっとSFの分かった脚本家がかかわれば、コアなSFファンをも満足させる映画になっていたと思う。ただ、手のかかったVFXを見ていると、ダン・シモンズの傑作「ハイペリオン」なども映像化できるなと思った。

 主人公のジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は事故で脊椎を損傷した車いすの元海兵隊員。死んだ双子の兄に代わって、アバター・プロジェクトに参加することになる。アバターの肉体を手に入れたジェイクはパンドラの森の中で、先住民オマティカヤ族の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と出会う。ネイティリはスカイ・ピープルであるジェイクを殺そうとしたが、聖なる木の精がジェイクに集まるのを見て、ジェイクを特別な存在と見なした。ホームツリーと呼ばれる高さ300メートルの巨大な木の中で暮らすナヴィはパンドラの自然と深くかかわり、先祖の霊と交信することもできる。飛行動物のバンシーや馬によく似たダイアホースなどの動物とも髪の毛の先にある触手フィーラーでつなぐことによって心を通わせる。ナヴィの生き方はパンドラの自然と切り離せないものだった。そこにアンオブタニウムを狙ったRDAが攻撃を仕掛けてくる。

 RDAの大量の重火器に弓と槍で対抗する構図は言うまでもなく、アメリカが過去に行ってきた侵略行為を想起させる。焼き払われる森、倒れるホームツリー。自然を破壊する行為への異議申し立てをちゃんと盛り込んだところが好ましい。

 サム・ワーシントンは「ターミネーター4」に続いてSF大作映画の主演をきちんとこなした。RDAの部隊を指揮するマイルズ・クオリッチ大佐役のスティーブン・ラングと破壊行為に嫌気が差してジェイクたちと行動を共にする女性隊員ミシェル・ロドリゲスも好演している。

2009/12/24(木)「わたし出すわ」

できるだけ儲けて

できるだけ貯めて

できるだけ与えなさい

 冒頭に出るエピグラフのような在り方の主人公(小雪)が、かつての同級生にお金をあげる話。大金をもらって不幸になる人もいれば、幸福になる人もいる。事件に巻き込まれる人もいる。分不相応な大金は不幸の元と分かって、処分する人もいる。しかし、庶民的に一番共感できるのは、もらったお金でタイ旅行して奥さんを見つけて仕事でも出世した青年だ。青年がもらったのは大金ではなかったけれど、それでも十分、幸福は手にできるのだ。

 森田芳光監督は終盤に心地よい2つのエピソードを用意して、映画の後味を良いものにしている。エピソードはどれも常識的なもので、この着地のさせ方も常識的ではある。他の監督なら、最後の青年のエピソードを前面に出して人情的な側面を強調した物語を組み立てたかもしれない。

 だが、この映画の在り方も嫌いではない。主人公がなぜ大金を持っているのか、なぜ同級生にあげるのかは終盤に明らかになる。淡々とした描写は森田芳光らしいし、何より小雪が良い。真意の分からない不思議な役柄を静かに好演している。小池栄子も役柄にピッタリだった。

2009/12/20(日)「REC/レック」

 リメイク版では謎の伝染病が狂犬病として最初紹介されるが、オリジナルではそんなことはない。たとえ新種であっても狂犬病ではちょっとがっかりで、なぜリメイクがこんな改変をしたのか理解に苦しむ。クライマックスに最上階の部屋に出てくる存在もリメイク版とは異なり、こちらの方が好ましい。撮影のリアルさと相まって、ホラーとして良い出来と思う。ストーリー上に強烈なオリジナリティーはないし、ゾンビもののパターンではあるのだけれど、それでもこの映画には強烈な個性がある。上映時間が80分程度と短いのも良い。

 カメラの主観撮影のことをPOV(ポイント・オブ・ビュー)と言うそうで、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド HAKAISHA」が有名だ。「ブレア・ウィッチ…」には直接的な怪異の存在は登場せず、怖い雰囲気だけの映画だったけれど、怖さの盛り上げ方がうまかったと思う。「REC/レック」もカメラのブレや動きが真に迫っている。これがこの映画のキモだろう。ストーリーや撮影の仕方などはほとんど同じなので、amazonのレビューではリメイク版のことを(オリジナルの)ダビングと言っているが、ダビングよりも劣化コピーと言うべきか。緊迫感やシャープさがリメイク版には欠けているのだ。冒頭の消防署のシーンなどはオリジナルもちょっと冗長だけれど、リメイク版の退屈さよりははるかにましである。

 字幕が好まれないアメリカでは吹き替え版を作る代わりにリメイクしてしまうことがあるが、このリメイク版もそのような意図から作られたのだと思う。だが、同じ脚本で撮っても、出来上がった映画には大きな差がある。

 オリジナル版の脚本・監督はジャウマ・バラゲロとパコ・プラサ。この2人は「REC/レック2」でもコンビを組んでいる。劇場公開が10月だったから、DVDがいずれ発売されるだろう。楽しみに待ちたい。

2009/11/30(月)「イングロリアス・バスターズ」

 ほぼ失敗作だと思う。なぜこの程度の話に2時間32分もかかるのか理解しがたい。脚本にコンパクトさが欠け、演出がそれに輪をかけている。だからダラダラした映画にしかならない。クエンティン・タランティーノの前作「デス・プルーフ in グラインドハウス」のアクションが僕は好きだけれど、ダラダラ感はいなめなかった。感想を読み返してみると、こう書いていた。「ボロボロにしてしまったダッジはどうなるとか、余計なことを描いていないのがいい。惜しいのはこのラストのあり方を全体には適用してないことで、こうした映画なら1時間半程度で収めて欲しかったところだ。短く切り詰めれば、もっと締まった映画になっただろうし、もっとグラインドハウス映画っぽくなっていただろう」。

 その前の「キル・ビル」2作にしても撮っていたら長くなったために2作に分けることになったわけで、演出のコンパクトさをもっと考えないと、数々の映画へのオマージュだけでは惜しいと思う。タランティーノが愛するかつての映画はどれもコンパクトだったはずだ。その技術を引き継がず、表面上の描写をマネしてみても空しいだけである。タランティーノに必要なのは演出のシャープさとスマートさだ。

 冒頭、ナチに占領されたフランスの田舎でユダヤ人の少女がドイツ兵から辛くも逃げ出す場面は15分前後はあり、早くもダラダラ感を覚える。ここは導入部なのだから、シャープな監督なら5分程度にまとめるはずだ。この第1章「その昔…ナチ占領下のフランスで」に始まり、第2章「名誉なき野郎ども(イングロリアス・バスターズ)」第3章「パリにおけるドイツの宵」第4章「映画館作戦」第5章「ジャイアント・フェイスの逆襲」と続く。ユダヤ人の少女ショシャナ・ドレフュス(メラニー・ロラン)が家族を皆殺しにしたハンス・ランダ(クリストフ・ヴァルツ)への復讐とブラッド・ピット率いるイングロリアス・バスターズと呼ばれるナチ殺しに命をかけるアメリカの秘密部隊の作戦が交差していくという作り。誰が生き残り、誰が死ぬのか予断を許さない展開はタランティーノらしい。さまざまな映画からの引用もまたタランティーノ映画にはおなじみだ。

 その引用、とても僕には全部は分からなかったが、パンフレットによれば、「ナチスやアメリカの戦意高揚映画、お洒落な40年代ハリウッドのラブコメ、60年代の男臭いアメリカ製戦争映画、血みどろのマカロニ・ウエスタン」などなどが入っているそうである。「暁の7人」や「追想」に影響を受けたシーンもあるとか。しかし、それがどうした、と思う。そういう過去の映画を引用しても、面白い映画にならなければ仕方がない。キャラクターや展開の奇抜さだけでは映画はもたないのだ。ダラダラが唯一、効果を上げたのはレストランでの銃撃シーンぐらいか。ここはダラダラと銃撃のすさまじさの対比が面白かった。

 一人の女のナチスへの復讐という部分に関してはポール・バーホーベン「ブラックブック」に完璧に負けている。タランティーノ、次は完全オリジナルの映画を目指してはどうだろうか。ヒロインのメラニー・ロランは若い頃のカトリーヌ・ドヌーブを思わせて良かった。

2009/11/23(月)「曲がれ!スプーン」

 超常現象を信じなくなったかどうかを確かめるため、テレパスの椎名(辻修)が湾岸テレビ「あすなろサイキック」のAD桜井米(長澤まさみ)の手を握る。そこで椎名が見たものは、空から海に落ちる謎の火球を目撃した子供の頃から現在に至るまでの米の足跡。ことごとく自称超能力者から裏切られてきた米は子供の頃から信じてきたものなくしてしまいそうになっている。そこからのクライマックスが素晴らしい。

 喫茶店「カフェ・ド・念力」に集う7人のエスパーたちは力を合わせて米にあるものを見せる。超能力を必死に隠してきた彼らが米の心に取り戻そうとしたのは超常現象を信じさせることではもちろんない。信じる心を失わせないこと、夢見ることを失わせないことだ。そして起きるもう一つの奇跡。夜空を飛ぶ光を見上げる子供たちを次々に映すショットは脚本の上田誠、監督の本広克行の思いであり、エスパーたちの願いと重なっている。超常現象を信じることを「大人げないよね」と切り捨てそうになっていた米は信じる心を取り戻し、同時にエスパーたちの優しさを知るのだ。これはコナン・ドイルが「失われた世界」を捧げた「半分子供の大人たちと半分大人の子供たち」に贈るクリスマスイブの素敵なプレゼントだ。

 劇団ヨーロッパ企画の演劇「冬のユリゲラー」を作・演出の上田誠自身が脚本化し、本広克行が監督したとなれば、「サマータイムマシン・ブルース」の再来を期待せざるを得ない。いや、正直に言えば、僕は「サマータイムマシン・ブルース」については良くできた映画と思っただけで、それほど入れ込んではいない。でも今回は違う。前半はゲラゲラ笑わせられながらも快調とは言えない出来で、単なる良くできた舞台の映画化かと思っていたが、このクライマックスがすべてを補って余りある。予告編から予想したクライマックスはエスパーたちが力を合わせて世界の危機に立ち向かうのではないかということだったが、それは世界の危機ではなく、米の心の危機だった。これが映画のスケールをわきまえていてとてもいい。1人の人の心の危機を救うことは世界の危機を救うのに劣らない価値があるのだ。それに懸命になるエスパーたちがいい。

 上田誠の脚本は監督と話し合って14稿に及んだという。「サマータイムマシン・ブルース」と同様に最後にピタリと決まるさまざまな伏線が気持ちよい。舞台でも同じ役柄を演じた透視の中川晴樹、念力の諏訪雅をはじめ、電子機器を操作できるエレキネシスの川島潤也、テレポーテーション(実は時間を止める能力)の三宅弘城らいずれも演劇の役者たちがそろって好演。おかしくて楽しい。本広監督の過去の映画の楽屋落ちのギャグも散りばめられていて、見ている人はニヤリとするだろう。主人公は本来なら10代の女の子の方が良いのではないかと思うが、役柄がテレビ局のADなのだから長澤まさみにはピッタリだ。

 「小さい頃は今よりずっと不思議な世界への扉が近かったような気がする」というセリフに少しでも共感できる人は見逃してはいけない映画だと思う。