2012/01/26(木)「ALWAYS 三丁目の夕日'64」
「人には身の程というものがあるんです」。鈴木オートの六ちゃん(堀北真希)が東北弁で言う。「私と菊池先生とじゃ、釣り合いが取れません」。仕事中にやけどをした六ちゃんは病院に行き、そこで治療してくれた菊池先生(森山未來)に恋をしてしまった。身分違いの恋と分かってはいても、思いは抑えられない。だから六ちゃんは毎朝、着飾って、通りで菊池先生とどきどきしながらすれ違うことに小さな幸福を感じている。しかし、たばこ屋のおばちゃん(もたいまさこ)が病院で聞いた菊池先生の悪い噂を聞かされて、六ちゃんの心は揺れ動く。
映画はこの六ちゃんの純情な恋と鈴木オートの隣に住む小説家茶川竜之介一家の話を描く。これも父親と息子を描いて良い出来だ。東京オリンピックが開催され、夢と希望にあふれた昭和39年を舞台に思い切り笑わせて、ほろりとさせる場面をちりばめた作劇に拍手を送りたい。1作目よりも2作目よりも今回が最も充実した仕上がりになっている。
話自体にまったく新鮮さはないのに、いくつもの場面で泣かされたり、胸が熱くなったりする。これはいったいなぜなのか。それは明らかに作り物の古い時代(監督の言う「記憶の中の昭和」)を背景に人の理想を描いているからだろう。リアルな背景で「幸福は金じゃない」ということを大まじめに真正面に描かれるとしらけてしまうが、この映画は人工的に古い時代を構築し、オブラートにくるむことでそれをクリアしている。リアルさから離れることで、オーソドックスな物語を堂々と成立させているのだ。
宅間先生(三浦友和)がクライマックスに言うセリフもそのど真ん中の言葉だ。「幸せとは何でしょうなあ。今はみんなが上を目指している時代です。医者だってそうだ。なりふり構わず出世したいと思っている。しかし、彼はそれとは違う生き方をしている」。
観客が見たい物語、自分もそうありたいと願う姿をこの映画は描いているのだ。寅さんやサザエさんや松竹新喜劇のように大衆性を備えた映画と言えるだろう。直情型の堤真一が相変わらずおかしい。堀北真希はこれまでの作品の中でベストの演技。ちょっぴり冗長な部分はあるにしても、山崎貴監督、「SPACE BATTLESHIPヤマト」の汚名を返上して余りある会心作ではないか。
2012/01/15(日)「ヒミズ」
「頑張れ、住田、がんばれーっ」という二階堂ふみの叫びに震災後の風景を重ねる場面などあまりにも意図が見え見えであざとくてシラケそうになるし、内容は「なんだ、長谷川和彦『青春の殺人者』の劣化コピーじゃないか」と悪口の一つも言いたくなるのだけれど、言わない。二階堂ふみと染谷将太が素晴らしく良いからだ。ベネチア映画祭での新人賞ダブル受賞はまったくふさわしい。未来を背負う2人にぴったりな上に、映画のテーマともはっきりと重なっている。
60年代から70年代にかけての青春映画の重要なモチーフとなったのは貧しさから来る閉塞感だった。貧しさが消えた今、日本映画にはふやけた青春映画しかなくなった。それを打ち破ってくれたのは一昨年の「悪人」だったのだけれど、「ヒミズ」の閉塞感は人の荒んだ心から生まれている。
中学3年生の主人公住田祐一(染谷将太)と茶沢景子(二階堂ふみ)の両親はどちらも親としての役目を果たさないばかりか、子供に悪意(どころか、殺意も)を向ける最低の親たちだ。茶沢がべたべたと住田にまとわりつき、お節介を焼くのは住田が自分と同じ境遇であることをどこかで分かっているからなのかもしれない。映画は若者2人の閉塞感に震災後の社会の閉塞感を重ね合わせるという分かりやすいことをやっているが、そうした演出上のマイナスを差し引いても主演の2人の切実な姿には胸を強く打たれる。染谷将太と二階堂ふみは「青春の殺人者」の水谷豊と原田美枝子に匹敵すると言って良い。
園子温の映画の作りは今回もデフォルメにデフォルメを重ねた極端なもので、叫び、罵り合い、殴り合うシーンが多い。パンフレットで佐藤忠男は「はじめから終わりまでずっとクライマックスが続くような映画」と評しているが、それが可能になったのはデフォルメの中に真実を込めたからだろう。
住田の父親が借りた600万円を消費者金融に肩代わりする夜野正造(渡辺哲)は「なぜ見ず知らずのあの坊主のためにそんなことをするんだ」と聞かれて「未来です。あの子に未来を託したいんだ」と答える。単純な悪いやつかと思われたその消費者金融会社の社長(でんでん)は「お前には腐るほど道があるのに、勝手に自分を追い込んでいる」と住田に話す。デフォルメした過激な描写と随所にある真実の言葉がうまく融合しており、この映画のスタイルは園子温独自のものだ。
人が一生懸命に走る姿はそれだけで感動的だ。二階堂ふみが染谷将太と一緒に走るラスト、2人は未来に向かって走っているのであり、未来を信じた姿なのだと思う。
吹越満と神楽坂恵の「冷たい熱帯魚」の夫婦が住田のボート小屋のそばに住んでいたり、黒沢あすかが茶沢の母親だったり、「愛のむきだし」の西島隆弘が街角で歌っていたりと、園子温の過去の映画の面々が至る所に出てくるのも楽しい。叫ぶだけの青春映画ではなく、過激さの果てにあるユーモアがこの映画にはある。
2012/01/13(金)「恋の罪」
神楽坂恵に主役を張る力量はないということはよく分かった。ビリングでトップに来るのは水野美紀なのだが、水野美紀よりもはるかに多くの場面に出てくる神楽坂恵、見ているうちに飽きてくる。女性としてはともかく、女優としては魅力に欠ける。「冷たい熱帯魚」の時のような出方がちょうどいい。スクリーンを背負って立つには演技に幅がなさすぎるのだ。
水野美紀の出番が少ないのが個人的にはこの映画への大きな不満の原因になっているのだけれど、まあ、それはいいとして。東電OL殺人事件を描いたというよりもあの事件の設定だけを借りて、自由に作ったという感じの映画になっている。あの事件、昼間は一流企業のOLで夜は売春婦という被害者の実態がセンセーショナルだったが、この映画では大学の助教授に置き換えられている。これを演じる富樫真は昼間っから、どうも普通の人には見えないのが惜しいところ。そしてその二面性の理由が深く掘り下げられるわけでもないのが映画の決定的な欠陥を生んでいるようだ。
この映画で最も面白いのはその助教授と母親(大方斐紗子)の口論の場面で、憎しみ合った2人が激烈な言葉の応酬を繰り返し、ブラックなおかしさにあふれている。こういう感じで全編作ってくれれば、もっと面白くなっていただろう。
キネ旬11月下旬号の批評特集で首肯できたのは新藤純子、増田景子の2人の女性評論家による批評で、男性評論家が褒めているのに対してきちんと欠陥を指摘している。園子温は女性映画と言っているけれど、女性から評価が得られないのでは仕方がない。
それにしても、水野美紀、出番が少ないにもかかわらず、魅力は十分に確認できた。この映画を足がかりにもっと映画に出てほしい。
2012/01/04(水)「冬の小鳥」
描かれる韓国の70年代の子供たちの姿は「クロッシング」の北朝鮮の子供たちに比べれば、まだ幸せだが、映画の作りはこちらの方が上。へたなセンチメンタリズムに陥らないところがいい。ウニー・ルコント、名前を覚えておくべきだろうが、自伝的な作品だった第1作だったからうまくいった可能性もある。2作目にどんな映画を撮れるのかは未知数だと思う。「クロッシング」はベタな展開で社会派の視点が希薄なのが惜しかった。