2013/05/26(日)「セデック・バレ」

 長いけど平凡。いや、長くて平凡か。「第1部 太陽旗」2時間23分、「第2部 虹の橋」2時間11分。合わせて4時間34分もある。平凡に感じるのは語り方が単調なためで、「霧社事件」という題材はとても良かったのに惜しい。3時間ぐらいにぎゅっと凝縮した方が良かったと思う。

 霧社事件は1930年、日本統治下の台湾で起きた抗日暴動事件。原住民族であるセデック族の戦士300人が駐在所を襲撃し、運動会に参加していた134人の日本人を殺害した。セデック族は敵を殺し、首を刈ると勇者として認められる。だから霧社事件も血を捧げる儀式としてとらえている。問題は事件に至るセデック族側の気持ちが十分に描かれないこと。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は一応描かれるが、具体的に耐えがたきを耐え、爆発せざるを得なかった内容をもっと詳細に描いた方が良かっただろう。そうしないと、女子供まで殺したことに説得力がない。

 霧社事件後の日本軍によるセデック族制圧を描く描く第2部はほとんど戦争アクションの趣。映画を観ながら「ラスト・オブ・モヒカン」を思い浮かべたが、当然のことながら、ウェイ・ダーションはマイケル・マンの演出力には及んでいない。

 もしかしたら、興行上の配慮をした結果なのではないか、と勘ぐりたくなるぐらい日本人が極悪非道には描かれていない。だから、第1部のクライマックス、セデック族の300人の戦士が駐在所と運動会を襲うシーンに説得力がない。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は描かれるが、それが女子供を含む134人を殺す理由としては機能していないのだ。1部、2部合わせて4時間半余りの映画の根幹を成す部分だから、これはきちんと描くべきだった。もちろん、他の国の領土を勝手に支配し、「理蕃政策」などと称して文明化を進めることは大きなお節介であり、原住民に反感が高まっていたであろうことは容易に推測できるが、それを通り一遍ではなく、観客に十分に共感を持たせる形で描くべきだった。

 セデック族が女子供まで殺したのはなぜか。映画はセデック族に「通報させないために皆殺しにする」と理由を言わせている。脚本家が頭で考えた幼稚な理由づけと言うほかない。日本人が大量に虐殺されて、それがセデック族の住む地域であったら、誰の犯行か分からないなんてことがあるわけがない。女子供まで殺したのは日本人が排除すべき、憎むべき敵であったからにほかならないだろう。だから憎しみが爆発する過程を丁寧に描くべきだったのだ。日本軍による制圧作戦が展開される第2部は特に戦争アクションと言って良いぐらいに殺戮シーンに終始する。どんなにアクションをうまく撮ろうが、そのアクションを引き起こす要因を描かなくては空しいだけだ。

 「霧社事件」について僕は何も知らなかったし、ウェイ・ダーション監督がこの題材を取り上げたことは称賛に値する。だが、それだけで終わってしまった。日本人を徹底的に悪く描いていて、そのことでもし、日本での興行成績が振るわなかったにしても、それは映画の本質的な価値を少しも貶めるものではない。セデック族がなぜ蜂起しなければならなかったのかを詳細に描くことこそが亡くなった蜂起して死んだセデック族ばかりでなく、殺された日本人にも報いることになったはずだと思う。

 ある文化が別の文化に接触する時、そこには必ず摩擦が起きる。霧社事件の本質的な原因はそこにあると僕は思う。

2013/05/10(金)「野獣の青春」

 懐疑的な目で見始めたら、途中から引き込まれた。鈴木清順独特の演出は所々に見られるが、それは映画を効果的に語るために使われ、それだけが浮き上がっていないのが良い。ジャンルアクションの傑作と思う。

 「血の収穫」+「さらば愛しき女よ」風のストーリーをハードボイルド調にまとめてある。二枚目半になる前の宍戸錠の演技を堪能でき、小林昭二、金子信雄、信欣三、渡辺美佐子、郷鍈二ら一癖あるキャストがそろっている。原作は大藪春彦の「人狩り」。脚本は池田一朗(隆慶一郎)と山崎忠昭。問題は内容をまったく伝えないタイトルで、「野獣の街」などとすると良かったと思う(エルモア・レナードに同名の小説があるが)。

 渡辺武信さんは「日活アクションの華麗な世界」の中で「日活アクションの世界の成熟と深まりを示した傑作」と評している。

2013/05/06(月)「人狼村 史上最悪の田舎」

 2011年のスペイン映画だが、60年代のハマー・プロの作品を思わせる作り。シチェス映画祭作品賞ノミネートだそうだ。シチェスならでは。本筋に入るまで30分ほどかかるのが難だが、それからのブラックなユーモアがいい。主人公が指2本を失う展開が笑えた。

 今時珍しい着ぐるみの狼男も慣れてくれば、気にならない。出だしはムムムと思ったが、結局、好感をもって見終えることができた。脚本もそれなりに工夫している。

2013/05/05(日)「セイビング・フェイス 魂の救済」

 信じられないことにパキスタンでは夫や恋人から顔に硫酸をかけられる被害が年間100件以上あるそうだ。「セイビング・フェイス 魂の救済」は被害者の女性たちとそれを助ける医師、弁護士、議員らの活動を描き、昨年のアカデミー賞で短編ドキュメンタリー賞を受賞した。

 顔の半分に硫酸をかけられ、失明どころか眼球をも失った女性が登場するなど痛切きわまりない映像がいくつもある。夫たちのほとんどが無罪放免となってきたのも信じられない。パキスタンは徹底した男尊女卑の国なのだろう。

 それだけで終わっていたら、やりきれないところだが、映画のラストには大きな希望と喜びがある。被害を受けてきた女性たちがこれで救われるわけではないけれど、こうした卑劣な犯罪は今後、抑止されていくに違いない。

2013/04/29(月)「愛、アムール」

 カンヌ映画祭パルムドールとアカデミー外国語映画賞受賞。老いと老老介護と人間の尊厳を織り込みつつ、映画は普通に進行するが、最後でミヒャエル・ハネケらしさが出たと言うべきか。納得のいくラストだ。これは途中にある夢(悪夢)のシーンと呼応していて、悪夢で叫び声をあげた主人公はラストでは穏やかに(知らずに)運命を受け入れる。

 83歳のジャン=ルイ・トランティニャンと86歳のエマニュエル・リヴァが老夫婦を演じる。劇中、若い頃のアルバムが出てくるが、そこに写っているトランティニャンは精悍な顔つきをしている。僕にとってのトランティニャンは「男と女」の男ではなく、アラン・ドロンと共演した「フリック・ストーリー」の犯罪者役だ。若い頃の姿を知っているからこそ、この映画はリアルに迫ってくる。

 ある朝、食事中に突然、妻は反応しなくなる。病院で手術を受けるが、うまくいかず、右半身が麻痺してしまう。妻は家に帰って、「もう病院には入れないで」と懇願する。そこから夫の自宅での介護が始まる。妻は一向に良くならず、病状は進んでいく。老いが絡んでいるから、回復する見込みはない。車いすから、ついには寝たきりになる。自分の寝たきりの姿を他人には見せたくない妻と、言うことを聞かない妻への苛立ちを持ちながらも懸命に介護する夫。ハネケは2人の姿を淡々と描いていく。

 同じくパルムドールを受賞したハネケの前作「白いリボン」とはまるで題材が異なるが、不思議なことに冷たい感触は共通する。「愛」というタイトルだからといって、決してこの映画、温かな映画ではない。介護の現実はそんなに生やさしくはなく、きれい事では済まないことをハネケはわきまえている。

 幸福感を持たせて締めくくったのは70歳のハネケにとっても老いは他人事ではないからだろう。元々、この映画、ハネケの家族に起こった同じようなことを題材にしているのだという。