2014/09/21(日)「柘榴坂の仇討」

 原作は浅田次郎の短編集「五郎治殿御始末」に収められた同名作品。映画を見た後に読んだら、5つの場面で構成され、38ページしかない。映画と同じ冒頭の長屋のシーンと回想の桜田門外の変の場面、主人公の志村金吾(中井貴一)が司法省の秋元警部(藤竜也)宅を訪ねる場面、柘榴坂での対決とその後の場面の5つである。浅田次郎作品の中でこの短編が特に優れているわけではなく、泣けるわけでもなく、これがなぜ映画化されたのかよく分からなかったが、公式サイトを見ると、「男たちの矜持を映画にしたい」というプロデューサーの好みによるようだ。

 それはそれとして、原作だけでは長編映画にはならないので脚本はそれを大きく膨らませている。登場人物を増やし、エピソードを加え、金吾とその妻セツ(広末涼子)の長屋での貧しい暮らしを描く。映画が付け加えたエピソードで良いのは中盤、金貸しに返済を迫られた元侍を助けようとした金吾に周囲の町民が次々と元武士であることを名乗り出て手助けしようとする場面だ。明治維新後の廃藩置県で180万人の武士たちは野に下ったが、武士の気概をなくしたわけではないことを象徴している。

 主人公の金吾は剣の達人で井伊直弼の警護を担当していたが、桜田門外の変で奪われた槍を取り返しに行っている間に井伊は殺されてしまう。両親が自害したために切腹も許されず、逃亡した犯人たちの一人を討つことを命じられ、13年間、犯人の姿を追い求めることになる。若松節朗監督の「ホワイトアウト」「沈まぬ太陽」はいずれも信念を曲げない男を描いていた。この映画の主人公もそういうタイプであり、愚直な生き方を貫いている。

 しかし個人的に映画で最も心を動かされたのは「ひたむきに生きる」主人公ではなく、人力車夫の直吉(阿部寛)が同じ長屋に住むマサ(真飛聖)に言うセリフだ。

 「今度、おちよ坊を(俥に)乗っけて、湯島天神の縁日にでも行きやせんか」

 直吉は桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した18人の刺客の1人。事件後に逃亡し、本名の佐橋十兵衛から名前を変え、人力車を引きながらひっそりと暮らしている。マサは出戻りで幼い娘のチヨと暮らす。チヨがなついている直吉に密かに思いを寄せているが、「出戻りの女なんて相手にされるはずがない」と思い込んでいる。このセリフはそんなマサを思っての言葉であるだけでなく、桜田門外の変後、ほとんど人生を捨てていた直吉が再び生きようとする決意が表れたセリフでもあるのだ。飾らない阿部寛のたたずまいが実に良く、13年間の直吉の逃亡生活をもっと見たくなる。

 雪が降りしきる桜田門外の場面など映画の描写やエピソードはどれも悪くはない。ただ、全体的にもっと細やかな情感が欲しいところだ。正直な映画化で大きく減点すべき部分はないのだけれど、十分に満足できたわけでもないのだ。

2014/09/07(日)「ぼくたちの家族」

 「キョウコさん、今日は一晩中付き合ってほしいんですけど」

 「あたし、童貞君はNGだから」

 という池松壮亮と市川実日子のやり取りでクスッと笑い、その後のラッキーカラーとラッキーナンバーのエピソードで石井裕也監督、うまいなあと思った。ラッキーカラーのだめ押しで黄色いタクシーが出てきたところで場内は爆笑である。物事がそんなにうまくいくはずはないし、そんなに偶然が続くわけでもないが、「こうしたことあるある」「こんなことがあってもいいよね」と思わせるのだ。

 母親(原田美枝子)が脳腫瘍で余命1週間と宣告されるのが発端となるような映画で誰が笑いを予想するだろう。脳腫瘍のほかに両親の多額の借金も出てくるし、無粋な監督が撮ったら、陰々滅々の映画になっていてもおかしくなかった題材なのだ。突然、関係ないことを口走る原田美枝子の絶妙の演技で幕を開けた映画は家族(父親と息子2人)の苦悩を描きながら、ユーモアを挟むことでキャラクターに血肉を通わせる。これが映画に膨らみを持たせることにもつながっている。実際、どんなに深刻なシチュエーションであっても人間、1人でなければ、家族や仲間がいれば、ずーっと苦虫を噛み潰したような顔をしているわけではないだろう。映画が終わっても、家族が抱えた問題は何一つ解決しないが、それでも気分はとても晴れやかになる。

 石井裕也監督の手つきは日本映画がかつて得意だった笑いとペーソスではなく、かつての良質なハリウッド映画の洗練を感じさせる。小品だが、秀逸な家族映画だ。

2014/07/20(日)「私の男」

 熊切和嘉監督の前作「夏の終り」はドロドロした話なのに、画面にはドロドロさがまったくなかった。主演の満島ひかりが健康的すぎたためだろう。似合わない役柄だったのだ。きれいすぎる女優はリアルな役柄には向かないのではないかと思う。「私の男」の二階堂ふみは中学生から20代前半までを演じて、そのドロドロさを画面に充満させている。

 とはいっても、こちらが考えるドロドロさとは違う映画だった。おどろおどろしさもなければ、陰湿さもない。浅野忠信と二階堂ふみの濃厚な絡みの場面を見て、日活ロマンポルノや神代辰巳の映画のようになっていくのかと思ったら、そうはならず、映画は少女の成長と変貌に焦点を絞っていくのである。絡みの場面で血の雨を降らせる演出は画面のショッキングさとは裏腹にメタファーが分かりやすすぎて気恥ずかしい(後の殺害シーンで血しぶきを浴びる浅野忠信の場面と呼応している)し、映画は終盤、エピソードを大胆に省略・改変しているのだけれど、それでも話はつながるし、よく分かる。

 何よりもこの終盤は二階堂ふみの変貌に目を奪われるのだ。これは小説では表現しにくい、映画の利点と言える。二階堂ふみ、まったくうまいとしか言いようがない。幼虫から成虫になる過程を思わせる二階堂ふみの演技は映画の説得力を背負っており、モスクワ国際映画祭で浅野忠信が主演男優賞を取ったのは何かの勘違いとしか思えない(ニューヨーク・アジア映画祭で二階堂ふみはライジング・スター・アワードを受賞した)。

 映画には納得して深く感心したが、死体の処理を描かないのが気になって桜庭一樹の原作を読んだ。同じように気になった人のために書いておくと、死体はビニールのふとん収納袋に入れて密閉した上でふとんにくるみ、奥の四畳半の押し入れに入れてある。だから2人の住む古びたアパートには饐えた臭いがかすかに漂うことになっている。映画ではアパートの周囲と部屋の中にゴミ袋が散乱しているので死体をバラバラにしてゴミ袋に入れたのかと想像したが、何も処理していなかったわけだ。

 原作は映画のラストシーンから始まる。あの後の話(結婚式とそれ以降)を描いた後、第2章から原作は過去にさかのぼっていく。2008年現在から2005年、2000年7月、同1月、1996年を経て発端の1993年、北海道南西沖地震で津波に襲われた奥尻島へ。この時系列を逆にした構成が秀逸だし、細部の描写がいちいちうまい。直木賞受賞も当然の傑作だと思う。

 映画は原作の構成を捨て、物語を時系列に沿って語っている。冒頭の流氷の海から這い上がる主人公花(二階堂ふみ)の場面から津波で生き残った子供の頃へと画面が切り替わるジャンプショットを除けば、起きたことを順番に描いている。映画化の企画は多数あったそうだが、この単純とも言える構成が逆に幸いしたのではないか。

 良かれと思ってしたことが徒になって、流氷の上でなすすべもなく遠ざかっていく藤竜也。雪と氷に覆われたオホーツク海に臨む紋別の描写が魅力的だ。

2014/07/13(日)「渇き。」

 ロドリゲス&タランティーノの「グラインドハウス」のようなタイトル、「オールド・ボーイ」のような残虐性。殴られ蹴られ刺され撃たれる主人公(役所広司)の姿は肉体ばかりでなく、精神的にも壊れてきてかなり痛々しい。

 中島哲也監督の編集はいつものようにアップテンポで、3年前と現在を自在に描きながら、失踪した娘加奈子(小松菜奈)の実相と事件の真相を徐々に明らかにしていく。あまりのバイオレンス描写に思わず笑ってしまう場面もあるけれど、見終わって気分が晴れないのは「オールド・ボーイ」のような驚愕の真実があるわけではなく(こちらの想像の範囲を超えない)、刑事から落ちぶれてやさぐれた主人公の精神が病んでいるからだろう。

 というか、登場人物のほとんどがビョーキだ。異常な人物ばかり出てきて、感情移入できるキャラが見当たらない。叫び、喚き、傷つけ合い、殺し合う人間たちを見ていると、こちらの神経もささくれ立ってくる。この異様な世界の中では加奈子の実は真っ当な(そして単純な)動機の方にむしろ違和感が出てくる。

 救いのない話であることはかまわないが、カタルシスがないのは困ったもので、事件の真相が明らかになっても、主人公にとっては少しも終わらない話になっている。無間地獄のようなラスト。中島哲也の語り口はやや一本調子のきらいがあることを除けば今回も一流だと思う。それをもってしてもこの話では傑作になることは難しかったようだ。描写の過激さに比べてストーリーが弱い。

2014/02/09(日)「麦子さんと」

 同じ吉田恵輔監督作品で麻生久美子主演の「ばしゃ馬さんとビッグマウス」も良かったが、この映画にも感心させられた。微細な感情の動きを表現した脚本がうまい。繊細だ。普通なら、登場人物の気持ちを説明するために、あと一押しのセリフを言わせたくなるところを吉田恵輔と仁志原了の脚本は踏みとどまり、リアリティーのある細やかな表現を選んでいる。言葉ですべてを説明しない。描写で語っている。それは映画の本来的な在り方だろう。おかしくて、やがて感動的な母と娘の物語という、かつての日本映画が得意だった家族の物語を吉田恵輔は見事に受け継いでいる。小品だけれど、ハートウォーミングにしっかりと作られていて、見ていてとても心地よかった。見終わった後、「赤いスイートピー」を口ずさみたくなる。

 父親が死んで3年後、兄(松田龍平)と麦子(堀北真希)が暮らすアパートに突然、母親(余貴美子)が訪ねてくる。麦子は幼い頃に離婚して家を出た母親のことをまったく覚えていない。母は最近、収入が少なくなったので一緒に暮らせば、お互いに助かるという理由で来たのだった。いったんは追い返したが、ひょんなことから母親と同居することに。兄は恋人と同棲するために出て行き、麦子は反発しながら母親と二人で暮らし始めるが、「あんたなんか母親とは思っていないから」と厳しい言葉を投げつけた後、和解する間もなく、母親はあっけなく死んでてしまう。末期の肝臓がんだった。だから母親は一緒に暮らしたかったのか? 麦子は納骨のため母の故郷の町に行き、死んだ母の思いを知ることになる。

 脚本がうまいと思うのは例えば、トンカツのシーン。麦子はいつも手料理を作ってくれる母親のためにトンカツを作る。スナックのバイトで疲れ切って遅く帰ってきた母親にぶっきらぼうに「トンカツ好き?」と聞くと、母親は「最近、脂っこいもの苦手で」と答えるが、冷蔵庫にトンカツがあるのを見つけて「私のために作ってくれたの?」と喜んで食べる。しかし、その後にやっぱり気分が悪くなり、トイレで吐いてしまうのだ。このシーンの前にスーパーで麦子が外国産の豚肉を手に取った後、思い直して国産の高い豚肉を買う場面を入れているのが芸が細かい。こういう細部で場面に登場人物の微妙な気持ちが出てくる。

 吉田監督は堀北真希のファンで、主人公の麦子は堀北真希にあて書きに近い形だったそうだ。そのためか堀北真希はとてもかわいく撮られており、母親への相反する思いを表現した演技と相まって代表作になったと思う。吉田監督にはぜひぜひ、堀北真希主演でまた映画を撮ってほしい。松田龍平も余貴美子も麻生祐未も温水洋一もことごとく良かった。