2024/06/23(日)「あんのこと」ほか(6月第3週のレビュー)
「あんのこと」
母親に売春を強要され、覚醒剤中毒となり、辛すぎる人生を生きた実在の女性を描く入江悠監督作品。入江監督のベストという声が多く、僕もラストを除けばそう思いました。主人公の香川杏(河合優実)は21歳。ホステスの母親(河井青葉)、足の悪い祖母(広岡由里子)と3人でゴミ屋敷のような団地の一室に暮らしている。杏は子どものころから母親に殴られて育ち、困窮のため万引を繰り返して小学4年生で学校に行かなくなった。12歳の頃、母親の強制で初めて体を売った。覚醒剤はヤクザのような男に打たれて中毒になった。覚醒剤を買う金のために体を売る生活を送っていたが、刑事の多々羅(佐藤二朗)に補導され、覚醒剤中毒のグループ療法に参加して更生を目指すようになる。多々羅の友人でジャーナリストの桐野(稲垣吾郎)も協力し、杏は少しずつ生き方を変えていく。しかし、コロナ禍がやって来る。
前半、どん底の暮らしから立ち上がっていく主人公の姿がとても良いです。売春をやめ、介護施設で働き、覚醒剤を断ち、夜間中学で学び始める姿は希望を持たせます。一方でそんなにうまく事が運ぶはずがないと思えるのも事実で、予想通りというか、それ以上にひどい事態が出来します。
昨年公開された「遠いところ」(工藤将亮監督)は沖縄の17歳のシングルマザーの苦境を描いていましたが、あの主人公は父親や同棲相手など周囲のクズ男が苦境の原因でした。杏の場合は毒親と言うべき母親の存在がそれに当たります。この母親から逃げることが唯一の解決方法であり、これはDV男から逃げるのと同じことでしょう。
キネ旬レビューでは星5個、2個、1個と賛否が分かれていますが、見終わってどんよりした表情で映画館を後にする観客もいるようです。実際の事件を基にしたからといって、映画も同じラストにする必要はないと、僕も思いました。
経済的に困窮し、切実に助けを求める人がいること、そうした人たちを助けなくてはいけないこと、行政の支援はもっと充実させ、相談に来た人を追い返すような対応を改めるべきこと、などなどは悲しいラストにしなくても観客には伝わるでしょう。
平日午後の映画館は女性客が多かったです。河合優実は女性にも人気なのでしょうが、しっかりこういう役柄も演じられるのが役者としての可能性を感じさせます。佐藤二朗は前半の型破りな刑事を見ていると、ソン・ガンホのような存在になれるのでは、と思いました。稲垣吾郎も良いです。
▼観客多数(公開13日目の午後)1時間54分。
「ディア・ファミリー」
心臓疾患で余命10年を宣告された娘のために、医療には素人の町工場の社長が人工心臓の開発に着手し、その経験を生かして日本人向けのバルーンカテーテルを開発した実話。監督は「君の膵臓をたべたい」(2017年)の月川翔。このカテーテルで17万人の命が救えたそうです。何度も何度も飽きるほど予告編を見せられて、すっかり本編を見た気になっていましたが、このカテーテルの話は予告編にはありませんでした。月川監督は安易なお涙頂戴に流れず、多くの困難を乗り越えながら開発に打ち込む主人公の姿と家族の絆を手堅くまとめた感動作に仕上げています。
原作は清武英利のノンフィクション「アトムの心臓 『ディア・ファミリー』23年間の記録」。生まれつきの心臓疾患の次女・佳美に福本莉子、父親で町工場の社長・宣政に大泉洋、その妻に菅野美穂。ほぼ出ずっぱりの大泉洋は過不足のない演技を見せて良いです。
公開初週の週末3日間興行成績ランキングで1位。平日でも観客が多かったのは大泉洋の人気の高さも要因なのでしょう。
▼観客多数(公開4日目の午後)1時間57分。
「ありふれた教室」
中学校内での盗難事件の犯人探しをした女性教師が逆に窮地に追い詰められていくドイツ映画。学校は社会の縮図と、パンフレットでイルケル・チャタク監督も語っていますし、一般的にも指摘されることですが、ドイツの場合、移民も多いので、学級運営は一段と難しさを伴うでしょう。監督自身、両親はトルコからの移民。この脚本には自身の体験も含まれているそうです。盗難が頻発する学校が舞台。主人公の女性教師カーラ(レオニー・ベネシュ)は同僚の教師が小銭をくすねるのを見て、職員室で財布を入れた上着を椅子に掛け、それをパソコンのカメラで動画撮影する。後で確認すると、財布からはお金が抜き取られており、記録された動画にはある人物が上着を触る様子が映っていた。顔は写っていなかったが、星模様のブラウスから、どうやら事務員のクーン(エーファ・レーバウ)らしい。カーラは校長とともにクーンを問い詰めるが、クーンは怒って全面的に否定する。
盗みの証拠が完全ではないのが敗因で、ここから、こっそり撮影したカーラへの非難とカーラ自身のミスと周囲の誤解が重なり合って、カーラは追い詰められていきます。さらに学校新聞のインタビューがたたり、学級崩壊どころか学校崩壊の様相まで呈する始末。不条理とも思える展開ですが、この脚本の構成は緊密で見事でした。最後はカタストロフかカタルシスがあるのかと予想していたら、そうはなりません。安いスリラーになることを避け、心理的サスペンスに徹したのがうまくいっていると思います。
チャタク監督は1983年生まれ。長編映画はこれが4作目のようです。
IMDb7.5、メタスコア82点、ロッテントマト96%。アカデミー国際長編映画賞ノミネート。
▼観客3人(公開7日目の午後)1時間39分。
「関心領域」
「ありふれた教室」の主人公はポーランド系でしたが、これはポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所の隣で優雅に暮らすドイツ人家族の日常を描いた作品。マーティン・エイミスの原作を「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」(2013年)のジョナサン・グレイザー監督が映画化しました。収容所の隣で暮らしているのは所長のルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその家族たち。家の中には収容所からの悲鳴や銃声がかすかに聞こえてきますが、そんな中、妻(ザンドラ・ヒュラー)や親族たちは殺されたユダヤ人の下着や服の中から欲しいものをあさります。収容所の煙突からは黒い煙が上がり、川で水遊びしていると、人骨が混じった灰が流れてきます。そうしたことは一家にとっては深刻な問題ではありません。というか、まったく気にしていません(灰で体が汚れることは気にしてます)。塀の向こうのユダヤ人の運命には想像が及ばず、一家にとって収容所は無関心領域なわけです。無関心でなくては、とてもこんな所には住めないでしょう。
そうした描写が淡々と続き、ユダヤ人の姿はほとんど描かれません。それをもっと描けば、映画はもっと天国と地獄の対照を際立たせたのではないかと思います。だから、と言うべきか、アウシュヴィッツの未来を一瞬見てしまうヘスのシーンは秀逸です。日常を超えた描写であり、ヘスがあれをどう見たのか気になるところ。極めて映画的なシーンだと思いました。
IMDb7.4、メタスコア92点、ロッテントマト93%。アカデミー国際長編映画賞、音響賞受賞。カンヌ国際映画祭グランプリ。
▼観客7人(公開8日目の午前)1時間45分。