2014/07/13(日)「渇き。」
ロドリゲス&タランティーノの「グラインドハウス」のようなタイトル、「オールド・ボーイ」のような残虐性。殴られ蹴られ刺され撃たれる主人公(役所広司)の姿は肉体ばかりでなく、精神的にも壊れてきてかなり痛々しい。
中島哲也監督の編集はいつものようにアップテンポで、3年前と現在を自在に描きながら、失踪した娘加奈子(小松菜奈)の実相と事件の真相を徐々に明らかにしていく。あまりのバイオレンス描写に思わず笑ってしまう場面もあるけれど、見終わって気分が晴れないのは「オールド・ボーイ」のような驚愕の真実があるわけではなく(こちらの想像の範囲を超えない)、刑事から落ちぶれてやさぐれた主人公の精神が病んでいるからだろう。
というか、登場人物のほとんどがビョーキだ。異常な人物ばかり出てきて、感情移入できるキャラが見当たらない。叫び、喚き、傷つけ合い、殺し合う人間たちを見ていると、こちらの神経もささくれ立ってくる。この異様な世界の中では加奈子の実は真っ当な(そして単純な)動機の方にむしろ違和感が出てくる。
救いのない話であることはかまわないが、カタルシスがないのは困ったもので、事件の真相が明らかになっても、主人公にとっては少しも終わらない話になっている。無間地獄のようなラスト。中島哲也の語り口はやや一本調子のきらいがあることを除けば今回も一流だと思う。それをもってしてもこの話では傑作になることは難しかったようだ。描写の過激さに比べてストーリーが弱い。
2014/02/09(日)「麦子さんと」
同じ吉田恵輔監督作品で麻生久美子主演の「ばしゃ馬さんとビッグマウス」も良かったが、この映画にも感心させられた。微細な感情の動きを表現した脚本がうまい。繊細だ。普通なら、登場人物の気持ちを説明するために、あと一押しのセリフを言わせたくなるところを吉田恵輔と仁志原了の脚本は踏みとどまり、リアリティーのある細やかな表現を選んでいる。言葉ですべてを説明しない。描写で語っている。それは映画の本来的な在り方だろう。おかしくて、やがて感動的な母と娘の物語という、かつての日本映画が得意だった家族の物語を吉田恵輔は見事に受け継いでいる。小品だけれど、ハートウォーミングにしっかりと作られていて、見ていてとても心地よかった。見終わった後、「赤いスイートピー」を口ずさみたくなる。
父親が死んで3年後、兄(松田龍平)と麦子(堀北真希)が暮らすアパートに突然、母親(余貴美子)が訪ねてくる。麦子は幼い頃に離婚して家を出た母親のことをまったく覚えていない。母は最近、収入が少なくなったので一緒に暮らせば、お互いに助かるという理由で来たのだった。いったんは追い返したが、ひょんなことから母親と同居することに。兄は恋人と同棲するために出て行き、麦子は反発しながら母親と二人で暮らし始めるが、「あんたなんか母親とは思っていないから」と厳しい言葉を投げつけた後、和解する間もなく、母親はあっけなく死んでてしまう。末期の肝臓がんだった。だから母親は一緒に暮らしたかったのか? 麦子は納骨のため母の故郷の町に行き、死んだ母の思いを知ることになる。
脚本がうまいと思うのは例えば、トンカツのシーン。麦子はいつも手料理を作ってくれる母親のためにトンカツを作る。スナックのバイトで疲れ切って遅く帰ってきた母親にぶっきらぼうに「トンカツ好き?」と聞くと、母親は「最近、脂っこいもの苦手で」と答えるが、冷蔵庫にトンカツがあるのを見つけて「私のために作ってくれたの?」と喜んで食べる。しかし、その後にやっぱり気分が悪くなり、トイレで吐いてしまうのだ。このシーンの前にスーパーで麦子が外国産の豚肉を手に取った後、思い直して国産の高い豚肉を買う場面を入れているのが芸が細かい。こういう細部で場面に登場人物の微妙な気持ちが出てくる。
吉田監督は堀北真希のファンで、主人公の麦子は堀北真希にあて書きに近い形だったそうだ。そのためか堀北真希はとてもかわいく撮られており、母親への相反する思いを表現した演技と相まって代表作になったと思う。吉田監督にはぜひぜひ、堀北真希主演でまた映画を撮ってほしい。松田龍平も余貴美子も麻生祐未も温水洋一もことごとく良かった。
2014/01/29(水)「小さいおうち」
黒木華はそれほど美人じゃないなと思いながら見ていたら、「ちっともべっぴんさんではなかった」から芸者や女郎に売られることはなかった、というセリフがあった。そういう意味も含めてのキャスティングなのか? しかし、黒木華はいい。クライマックス、意を決して「奥様、行ってはなりません」と松たか子を引き留める場面など、それまでに黒木華の役柄が寡黙で控えめで誠実に描かれているからこそグッとくる。行かせてしまえば、人の噂にのぼって平井家の穏やかな生活は壊れてしまうのだ。
中島京子の直木賞受賞作を山田洋次監督が映画化。昭和11年、東京オリンピックの開催が決まりそうな景気の良かった日本が戦争に傾斜していく時代を背景に、ある一家の恋愛事件を描いている。山田監督が戦前を今の日本に重ね合わせていることは明らかだが、それを声高に主張しているわけではない。ノスタルジーが前面に出ているわけでもないけれど、その時代に慎ましく生きる人々への愛おしい思いは感じられ、次第に息苦しくなっていく時代の空気もまた端々に描かれている。1931年生まれの山田洋次はこの時代の雰囲気を肌で知っており、それをフィルムに刻みたかったのだろう。
主人公のタキ(黒木華)は山形から奉公のために東京に出てきた。女中として仕えたのは赤い瓦屋根の小さな家に住む平井家。玩具会社常務の雅樹(片岡孝太郎)と時子(松たか子)、一人息子の恭一の3人家族だ。美しい時子はタキに優しく、タキも「一生この家で勤めさせていただきます」と考えるほど平穏な生活が続いていたが、夫の会社の部下・板倉(吉岡秀隆)の出現で時子の心が揺れ動き始める。
映画は現在のタキ(倍賞千恵子)が遺した自叙伝の大学ノートを親類の健史(妻夫木聡)が読む形で進む。少し気になったのは美人の時子が惹かれていく存在として、どうも吉岡秀隆には説得力が欠けること。時子が惹かれた理由は美大出身の板倉が夫の会社の他の社員にはない雰囲気を持っており、クラシック音楽の趣味が合ったかららしい。映画を見た後に原作を読んだら、時子は恭一を連れての再婚で夫とは十数歳の年の差があり、性的関係はないらしいことが示唆されていた。
パンフレットの監督インタビューを読むと、山田監督の主眼が小市民的な幸せにあることが分かる。60年安保から70年安保の時代、小市民という言葉は蔑称的な意味合いでしか使われなかった。小さい家で幸せに暮らすという憧れは口にできなかったそうだ。この映画では小さな幸せこそが重要だということをはっきりと言いたかったのだろう。だからタキが必死に時子を押しとどめる場面が心に響く。
時子の姉を演じる室井滋がなんだか小津安二郎映画の杉村春子を思わせておかしかった。医者役の林家正蔵やタキの見合い相手・笹野高史ら脇役のコミカルな扱いが山田監督らしい。山田監督の傑作群の中で、この映画は特別な存在ではないけれども、良い映画を見たなという満足感が残った。
2013/12/23(月)「永遠の0」
染谷将太がこんなちょい役であるはずはないと思っていたら、終盤、みるみる大きな役になっていった。なるほど。やっぱり。
百田尚樹の同名小説の映画化。日経のインタビューによれば、百田尚樹は映画化の話を何度も断ってきたそうだが、山崎貴監督の脚本は素晴らしく、映画化にゴーサインを出したという。映画の出来も「10年に一度の傑作」と思っているそうだ。僕は「10年に1本」の映画とは思わないが、よくできた映画であることには同意する。山崎貴監督は「ALWAYS 三丁目の夕日」と同じように過去を再現するために自然で過不足のないVFXを使い、ミステリータッチのドラマをうまく演出している。「ALWAYS」と同じように大衆性を備えて涙を絞る展開なので、これもまた大ヒットするだろう。
映画は原作の狙いでもある「戦争を語り継ぐこと」と「かけがえのない命を大切にすること」というテーマをきちんと押さえ、「帝国海軍一の臆病者」「海軍の恥さらし」と言われた宮部久蔵(岡田准一)とはどんな人間だったのかを描き出していく。宮部の謎を探っていくのが孫の佐伯健太郎(三浦春馬)と慶子(吹石一恵)で、真珠湾からミッドウェーを経て、特攻隊で死ぬまでの4年間の宮部の足跡をたどる。宮部は人並み外れた操縦技術を持っていたが、愛する妻子のために必ず生きて帰ることを決意していた。そして若い兵士たちにも命を粗末にすることを許さなかった。
岡田准一も好演しているが、何よりも田中泯や橋爪功、山本學、夏八木勲ら年配の俳優たちがいい。特にヤクザの組長を演じる田中泯。若い頃を演じる粗暴な新井浩文が年を取ると、こうなるという感じが出ている。
山崎貴の専門分野であるVFXに関しては、それが必要以上に前面に出てこないのが良い。零戦の登場する戦闘シーンもそこだけが目立つわけではないのに、日本映画として水準以上の出来になっている。あくまでも映画の主眼はドラマにあり、それをわきまえた山崎貴は強いな、と思う。
2013/12/01(日)「劇場版SPEC 結 爻ノ篇」
「漸ノ篇」がこれまでの総集編みたいな内容だったから、たぶん「爻の篇」はスケールを大きくするのだろうと思ったら、警視庁の屋上だけで話がほとんど終始する。周囲をCGでいくら表現しても、これでは動きが少なくて間が持たないし、広げた風呂敷をうまくたためてもいない。話のスケールに舞台が合っていないのだ。この話を考えたらしいプロデューサー植田博樹はアイデアをうまく消化できていないのではないか。
戸田恵梨香&加瀬亮のコンビに僕はかなり好感を持っているので、けなしたくないのだけれど、映画としてこれでは不完全だ。誰でも発端のアイデアぐらいは思いつく。それを観客が十分に納得するほどうまくまとめられるのがプロというものだろう。テレビシリーズから延々と作ってきた「SPEC」の完結編がこれではあまりにお粗末だ。
元々、この「SPEC」、当麻(戸田恵梨香)と一十一(神木隆之介)の対決だけで、ということは「劇場版SPEC 天」までで終わっても良かった話だ。「天」の最後にセカイ(向井理)を出したがために、「結」つくることになった。というか、「結」を作りたいからセカイを出したのだろうが、このために物語がツギハギめいて見えてしまうことになった。とても残念だ。
テレビドラマの「SPEC」が支持を集めたのは当麻や瀬文(加瀬亮)や野々村係長(竜雷太)や雅ちゃん(有村架純)らおなじみのおかしくて愛すべきキャラクターにあったと思う。観客が求めたのは話のスケールの大きさではなく、こうしたキャラによって生まれる話だったはずだ。「天」と「結」はなかったことにしてかまわないから、テレビで「SPEC2」をやってくれないだろうか。