2014/11/02(日)「消えた画 クメール・ルージュの真実」
カンヌ映画祭「ある視点」部門最優秀賞受賞。インドネシアでは政府が共産主義者を100万人虐殺したが、カンボジアでは共産主義政府が数百万人の市民を虐殺と飢え、病気で死に至らしめた。監督のリティ・パニュはその現場にいた。
映画は死者が埋まった田んぼの土と水で作った土人形とクメール・ルージュの記録フィルムを使い、地獄のようなポル・ポト政権下のカンボジアを描き出す。国全体が強制労働収容所と化した中で、何が起こったのか。記録されていない人々(消えた画)を土人形によって再現するのがこの映画の狙いだったようだ。
飢えのため夜中に塩を食べて死ぬ少女や、ジャングルからマンゴーを持ち帰ったため実の息子から告発され、軍に殺される母親のエピソードなどが積み重ねられる。しかし土人形では迫真性を欠くと思う。絶望や恐怖が伝わりにくいのだ。はっきり言って、土人形で描かれるエピソードよりも、白黒の記録フィルムの方が悪夢だ。全員が同じ黒い服を着せられ、荒れ地を耕す光景。当時は宣伝映画として撮ったのだろうが、ぞっとするような光景だ。拍手をしながら、にこやかに兵士の前に姿を現すポル・ポトの姿は民衆の苦しみなど、どこ吹く風の風情だ。
残念ながら、この映画だけでカンボジアの虐殺の真実は分からない。監督にとっては自明のことでも、ポル・ポト政権が倒れて35年たった現在、若い観客の多くには伝わらないだろう。そもそもの原因がベトナム戦争にあったことさえ、この映画だけでは分からない。全体主義は怖い。一党独裁は危険だ。そんな感情がわき起こるだけでいいわけはないだろう。ただ、この映画によってカンボジア虐殺を知るきっかけにはなるかもしれない。
リティ・パニュはカンボジアの虐殺をテーマに映画を撮り続けている監督だが、日本の劇場で一般公開されるのはこの作品が初めて。一部ではこれに合わせてドキュメンタリーの「S21 クメール・ルージュの虐殺者たち」など高い評価を得ている他の作品も特集上映された。他の作品も見てみたいものだと思う。
2014/11/01(土)「キャプテン・フィリップス」
ソマリアの海賊VS.アメリカ海軍。圧倒的な力の差があるわけだから海賊が勝てるわけがない。もちろん海賊行為が良いわけはないが、見ていて「そんなに弱い者いじめしなくても」という気分になってくる。アメリカ人1人の命を救うためとはいえ、この描き方ではソマリア人の命が軽すぎるのだ。
「ユナイテッド93」や「グリーン・ゾーン」などポール・グリーングラス監督の映画に共通するのはサスペンスの確かな演出力の割に、事件に対する思慮が浅いところでとどまっていること。これではプロパガンダ映画に収まってしまうと思えるのだ。というか非常に良く出来たプロパガンダ映画として作っているのではないかと思う。
2014/10/27(月)「キャリー」(2013年)
教室の中でキャリーとトミーの両方にピントを合わせたパンフォーカスやクライマックスのスプリット・スクリーンなどギミックに満ちたデ・パルマ版に比べると、映像が普通すぎる。ジュリアン・ムーアとクロエ・グレース・モレッツの親子は旧作のパイパー・ローリー&シシー・スペイセクに比べてネームバリューで負けているわけではない(むしろはるかに勝っている)が、適役とは言えないだろう。
その周囲の俳優たちもどうにも物足りない。なんせ、旧作はジョン・トラボルタ、ナンシー・アレン、ウィリアム・カット、エイミー・アーヴィングという直後からスターになっていった俳優たちが共演していたのだから比較にならないのだ。なにより見劣りするのは音楽でピノ・ドナジオの音楽がいかに素晴らしかったかを痛感させられる。
キンバリー・ピアース監督なら女性の視点で物語を語り直せるかと少しだけ期待していたが、そんな部分もなく旧作をなぞるだけに終わったのは大いに残念。リメイクの意味がさっぱり見えてこない出来だった。
2014/10/19(日)「ジャージー・ボーイズ」
彩度を落とした銀残しのような画質は時代を表現しているのだろうとか、登場人物が観客に向かってストーリーの説明をするのは50年代のコメディ映画にあるよなとか、前半は冷静にそんなことを考えながら見ていたのだが、クライマックスの「君の瞳に恋してる」でやられた、まいった。
フォー・シーズンズの結成から「シェリー」などのヒット曲を連続させるという上昇基調のドラマが一転してメンバー脱退など不幸なエピソードの連続に変わり、気分が落ちてきたところで一転してフランキー・ヴァリ(ジョン・ロイド・ヤング)がこの名曲を歌い上げるのだ。サビが流れてきただけで鳥肌が立った。この映画の画面転換の呼吸は、もう絶妙のうまさである。しかもこの後、最高に幸福感あふれるエンディングの歌が待っているのだ。元がブロードウェイの舞台なのでこのエンディングはカーテンコールに当たるが、僕は原田知世「時をかける少女」のエンド・クレジットの楽しさを思い出した。
クリント・イーストウッドは自分で作曲もする人だから、音楽映画を撮っても不思議ではないし、過去にも「バード」があるのだけれど、こんなにうまく撮るとは思わなかった。イーストウッド監督作品でも上位に入る出来だと思う。
不思議なのはこの映画、本国アメリカでは低い評価の方が多いこと。ロッテン・トマトでは53%のレビュワーが腐ったトマトを投げつけ、平均得点は5.9。これについてキネ旬10月上旬号の対談で小林信彦と芝山幹郎は以下のように語っている。
芝山「でも今回、この映画がアメリカの評論家にあまり受けなかったというのはねえ……。やっぱり目先で観ているのでしょうか」
小林「向こう(アメリカ)の評論を読んで感じるけど、この映画の本質はよほど勘の鋭い奴じゃない限り分からないですよ」
芝山「今の若い評論家はディテールの読み間違いが多いし、温故知新の気持ちがちょっと足りない。それと、末梢神経の刺激をせっかちに求めすぎる。ロジャー・イーバートが生きていたら、絶対に奥まで読み取るタイプですよ」
日本ではフォー・シーズンズ世代の高齢者はもちろん、若い世代にも号泣したなんて人がいるぐらい高い評価を集めている。マフィアとのつながりがきれい事で終わってるとか、事実と異なるフィクションも含まれているとは思うのだが、アメリカでの評価はどう考えても低すぎると思う。
2014/10/13(月)「猿の惑星:新世紀(ライジング)」
前作「創世記(ジェネシス)」の10年後を描く新シリーズ第2弾。本格的なSF映画であり、マット・リーヴスの演出も手堅い。猿のリーダーであるシーザー役のアンディ・サーキスをはじめ猿のメイクアップと動き(パフォーマンス・キャプチャー)はとてもリアルだ。物語に緊迫感はあっても驚くような展開はないし、ウィルス進化論を核に据えた前作ほどではないにしても、水準以上の仕上がりであることは間違いない。
それにもかかわらず、あまり気分がすぐれないのは猿にとっては夜明け(原題はDawn of The Planet of The Apes)でも、人間にとっては夕暮れだからだ。黄昏れていく人間たちの姿は哀れさを感じさせる。ウィルスのパンデミックによって生き残ったのは免疫を持つわずかな人間だけ。しかも電力が底をつきそうになっており、文明の灯は今にも消えそうになっている。ウィルスによって進化した猿たちとは対照的な姿なのである。オリジナルの第1作につながる前日談であることを考えると、この先に待っているのは猿に支配された人間たちの絶望的な世界であり、希望が見えずに気分がハッピーになるわけがない。
前作よりも猿たちの描写は怖くなっている。動作も声も大きくて爆発的な凶暴さを漂わせる。これは人間との戦いを避けるシーザーも例外ではない。群れを統率するためには誰よりも強いことを示す必要があるのだ。
描かれるのは戦いと融和のせめぎ合いだ。シーザーが戦いを避けるのは戦いによって仲間に犠牲が出ることを恐れるからだ。かつて飼われていたウィル(ジェームズ・フランコ)との良い思い出は持っているにしても、他の人間と仲良くしたいと思っているわけではなく(自分はできても他の猿には無理だと現実的に考えているのかもしれない)、人間と猿が別々の場所に住んでお互いに干渉しないことを望んでいる。これに対してシーザーの片腕コバ(トビー・ケベル)は人間に虐待された過去の恨みから、人間たちの銃を奪い、仲間を率いて戦いを挑む。
この構図は人間たちにも当てはまる。リーダーのマルコム(ジェイソン・クラーク)は戦いを望まないが、ドレイファス(ゲイリー・オールドマン)は武力で対抗しようとする。「共存か 決戦か」というこの映画のコピーは映画の内容を端的に表している。
旧シリーズの原作者ピエール・ブールは第二次大戦中に日本軍の捕虜になった経験があり、原作における猿は日本人の比喩だと言われた(ブールは「戦場にかける橋」の原作者でもある)。今回はそんなに単純ではない。異なるコミュニティー間のコミュニケーションの難しさ、それぞれのコミュニティー内の意見の対立を描き、不幸な戦争への道を進む状況を描いている。
話に決着が付いたわけではないので第3作は間違いなく作られるだろう。しかし、旧シリーズ第1作にそのままつなぐ展開にはならない気がする。公開当時、あってもなくても良い作品と思えた旧シリーズ第5作「最後の猿の惑星」のように人間と猿が融和を目指す物語に落ち着くのではないか。これこれこうやって猿に支配された世界ができました、という(人間にとっては)ペシミスティックな結末をハリウッドは避けるのではないかと思う。