2006/03/05(日)「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」
C・S・ルイスの傑作ファンタジーを「シュレック」(2001年)のアンドリュー・アダムソン監督で映画化。「シュレック」はおとぎ話をひねった大人向け作品だったが、今回はディズニー製作ということもあって真っ当な子供向け作品である。子供向けとしてはロバート・ロドリゲス「シャークボーイ&マグマガール」などよりはよほど志が高く、刺激は少ないけれども大人が一緒に見に行っても退屈はしない。クリーチャーのデザインはWETA社が担当しているので、敵方の怪物などは「ロード・オブ・ザ・リング」を思わせる。クライマックスの戦闘シーンも「ロード…」風である。大きく異なるのは主人公が子供であることもあって、物語の深みやドラマティックな展開に欠けることだ。原作が子供向けなのでしょうがないのだが、外見をいくら似せようとも「ロード・オブ・ザ・リング」の牙城には大きく及ばない。いや同じ子供向けの「ハリー・ポッター」にも負けているだろう。主役の4人の兄妹にあまり魅力がないとかの問題はあるにせよ、物語の語り口が単調なことが一番の問題で、これはもう少し緩急を付けて見せる工夫が必要だったように思う。当然作られるであろう第2作ではそのあたりを考えてドラマを面白く見せて欲しいと思う。
第2次大戦中のロンドン。ドイツの空襲から逃れてペベンシー家の4人の兄妹は田舎の古い屋敷に預けられる。広大な屋敷の中である日、末っ子のルーシー(ジョージー・ヘンリー)が空き部屋の衣装だんすの中に入ると、そこは不思議な世界につながっていた。雪の降る中、ルーシーは半神半獣のフォーンであるタムナス(ジェームズ・マカヴォイ)と出会う。そこはナルニアと呼ばれる国で白い魔女(ティルダ・スウィントン)の支配によって100年間冬が続いていた。元の世界に帰ったルーシーの話を兄姉は信じなかったが、再び衣装だんすからナルニアに向かったルーシーの後を付けた次男のエドマンド(スキャンダー・ケインズ)はナルニアで白い魔女に出会う。禁断の菓子ターキッシュ・デライト欲しさにエドマンドは白い魔女の要求を聞くことを約束する。白い魔女は4人の兄妹を捕らえることを計画していた。動物や魔女、魔物の住むナルニアには「ふたりのアダムの息子とふたりのイブの娘」、つまり4人の子供たちが白い魔女の支配を終わらせるという伝説があったのだ。長男ピーター(ウィリアム・モーズリー)、長女スーザン(アナ・ポップルウェル)を含めた4人の兄妹はナルニアで白い魔女に対抗することになる。
全7巻の原作は2555年に及ぶナルニアの年代記で、この第1章はそのうち1000年あたりのことを描いているそうだ。だからこの4人の兄妹が全部の作品に出てくるわけではないのだろう。話はこれだけで完結しており、「ロード・オブ・ザ・リング」のように早く続きが見たいという切実な気分にはならない。ディズニーに7作とも映画化する計画があるのかどうかは知らないが、シリーズを考えれば、何か謎を提示しておきたいところではあった。ナルニアの創造主で最初の王であるライオンのアスランに絡む謎を何か残しておけば、第2作以降に興味がつながったのではないか。観客の気持ちを引きつけるものが映画にはあまりない。
言葉をしゃべる動物たちなどVFXはよくできている。ただ、全体的に平凡なレベルにとどまっている感じが拭えないのはオリジナリティーが不足しているからか。視覚的にも物語的にも強烈な印象を残すものが欲しくなってくるのである。
2006/02/26(日)「県庁の星」
「あたしたちには県庁さんの力が必要なんです」。高校を中退して16歳から三流スーパーにパートで勤める二宮あき(柴咲コウ)が主人公の野村聡(織田裕二)に言う。もちろん、「県庁さん」とは県庁の組織のことではなく、主人公を指す。野村は県の巨大プロジェクトの中心にいて、「県庁の星」と期待されていたが、派閥によってプロジェクトから外され、建設会社社長の娘との婚約も解消。自分が望んでいたものをすべて失い、「エリザベスタウン」の主人公のようなどん底の状態に落ちる。ショックで民間研修先のスーパーも無断欠勤。そこへ、野村が書いたスーパーの改善計画を読んだあきがやってきて「あなたが必要だ」と話すのだ。「あたし、いつも気づくのが遅いんだ」。
あきの言葉がきっかけとなり、野村はスーパーの改善に懸命に取り組み、同時に一般庶民の視線に立って人間的な成長を果たしていく。桂望実の原作を「白い巨塔」や「ラストクリスマス」などテレビドラマのディレクター西谷弘が監督。終盤にある主人公の演説シーンなどは設定がリアリティーに欠けるし、県庁内部の描写にステレオタイプなものもある。しかし、後半、厳しい現実を知った主人公がそれまでの上昇志向から変わっていく姿には深く共感できるし、映画デビュー作としては上々の出来と思う。こういう話、僕はとても好きだ。織田裕二もいいけれど、目の動きや言いかけた言葉、さりげない仕草に深い情感を込めた柴咲コウの演技にほとほと感心させられた。柴咲コウ、「メゾン・ド・ヒミコ」に続いて絶好調である。
元々、野村がスーパー「満天堂」に研修に来たのは事業費200億円をかけたプロジェクトを成功させるためだった。そのプロジェクト、「特別養護老人複合施設(ケアタウン)」の建設は市民団体から反対の声が起きていた。プロジェクトに民間の視点を取り入れるため、野村など数人が民間企業に研修に行くことになる。スーパーのことを知り尽くし、“裏店長”と呼ばれるあきが店長(井川比佐志)から野村の教育係に指名される。最初は反発し合っていた2人が徐々に心を開くのはこうしたドラマの定跡と言えるが、この映画、べたべたしない展開が非常に良い。少しずつ少しずつ、2人は距離を縮めていくのだ。原作では中年女性のあきを25歳の女性に変更したのはロマンスの要素を取り入れるためだそうで、それは成功している。
町並みにそびえ立つ県庁のビルは庶民とかけ離れた県の政策、姿勢の比喩でもあるのだろう。高層ビルから下界に降りた野村は庶民の高さで物事を見ていくようになる。そしてスーパーの現状を仕方がないとあきらめていたあきも野村によって変わっていくことになる。「出会うはずのなかった二人 起こるはずのなかった奇跡」というこの映画のコピーは内容を端的に表していてうまいと思う。外国人もいるスーパー店員たちとの交流や売れる弁当を作るために主人公が奮闘する「満天堂」内の描写はどれも良い。残念ながら、県庁の描写はやや誇張された部分が感じられる。プロジェクトの話も原作にはないそうで、どうもこの部分の処理があまりうまくないのだが、人生の絶頂にあった主人公が転落するドラマティックさを強調するためには必要だったのかもしれない。
柴咲コウは「日本沈没」の撮影が終わって1週間でこの映画の撮影に入ったそうだ。準備期間がほとんどないままで、これだけの演技ができるのなら大したものだと思う。大作などよりはこうした生活感のある役の方が向いているのではないか。
2006/02/22(水)「魚と寝る女」
キム・ギドクの2000年の作品。「悪い男」(2001年)や「春夏秋冬そして春」(2003年)の原型のような作品だ。ヒロインにまったくセリフがないのは「悪い男」だし、湖に浮かんだ小屋船が舞台なのは「春夏秋冬そして春」。三枚におろされ、湖に放された鯉が再び釣り針にかかる場面などは「春夏秋冬…」の石を結ばれたカエルや蛇が生き返るシーンそのままで、内容的にも人の生と性と死を描いて共通している。人間の営み、男女の営みを直接的・間接的表現を織り交ぜて描き、面白いイメージがたくさんある。
ギドクは直感的な描写の人なのだと思う。ストーリーを語っても何も面白くないのに、所々にあるイメージの鮮烈さで映画をもたせている。そのイメージにどんな意味があるかというと、どうとでも取れる感じがする。それが逆にこの作品の長所でもあるのだろう。
僕はヒロインの存在の仕方を見て、何となく勅使河原宏の「砂の女」を思い出したが、ギドクの手法は独自のもので、だからこそ価値があると思う。
2006/02/19(日)「ブラック・セプテンバー 五輪テロの真実」
2000年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞受賞作(原題はOne Day in September)。スピルバーグの「ミュンヘン」公開劇場ではDVDが先行販売されているそうだ。DVDのタイトルは「ブラック・セプテンバー ミュンヘン・テロ事件の真実」。
事件の始まりから終わりまでを当時のニュース映像と関係者、遺族、そして8人の犯行グループのただ一人の生き残りジャマール・アル・ガーシーのインタビューで構成している。犯行グループは3人生き残ったが、2人はイスラエルの暗殺団に殺され、ガーシーはアフリカに隠れ住んでいるという。
ドイツ政府は空港で犯人を捕らえるか射殺する計画を立てたが、用意した狙撃兵は5人だけ。犯行グループの数を4、5人と思っていたためだ。飛行機の中に隠れ、犯人を捕らえる予定だった警官たちは「これは自殺行為だ」として犯行グループの到着直前に逃げてしまう。人質全員が死亡するという最悪の結末となったのはドイツ政府のこの対応がまずかったからというのがはっきり分かる。当時はテロへの準備も態勢もなく、ずさん極まりない計画を立てたのが最大の原因だろう。
驚いたのは犯行グループの3人が釈放されたハイジャック事件の真相。事件から7カ月後に起きたルフトハンザ機のハイジャックで、飛行機に乗っていた乗客は12人。それも男ばかりだった。ドイツ政府とテロリスト側が裏取引して事件を演出したらしい。背景には3人を釈放することで、テロを防ぎたいというドイツ政府の意図があったという。そこまでやるか、という感じ。ドイツの対応にイスラエル政府が怒ったのも当然だなという気になる。
2006/02/18(土)「シャークボーイ&マグマガール 3-D」
子供にせがまれて見に行く。ロバート・ロドリゲスが「スパイキッズ3-D:ゲームオーバー」(2003年)に続いて撮った3D映画。「シン・シティ」の次の作品としては情けなくなるようなレベルの映画で、ロドリゲスは自分の7歳の息子のアイデアを基に撮ったらしい(ちゃんとレーサー・マックス・ロドリゲスという名前が原案にクレジットされている)。「スパイキッズ」よりは少しましなレベルと思ったが、IMDBでは3.7という目を疑うような低い点数が付いている。いや、それも普通の映画と比べれば、仕方がないだろう。僕はある程度覚悟して見たので、そこまで酷評はしない。
3D映画は見せ物としてはとても面白く、この映画でも水泡が目の前にプカプカ浮く場面などは良くできていると思う(長くメガネを掛けていると、目は疲れる)。パンフレットにはちゃんと赤と青のプラスティックを張ったメガネが付いていて、表紙が立体的に見える(中にも立体的なページがある)。問題はストーリーで、ロドリゲス、子供向けとなると、途端に手を抜くようだ。夢見ることの重要さを訴えるのはいいのだが、それを何度も繰り返されると、鼻についてくる。こういうことは最後にそっと言えばいいこと。必要以上に強調するのは野暮である。内容も「スパイキッズ」と同工異曲のストーリーをやっても面白くならないのは自明のことだろう。想像力が幼稚すぎる。子供向けでもいいから、大人が居眠りしないような作品を撮ってほしいと思う。
空想好きの少年マックス(ケイデン・ボイド)は夏休みの思い出として学校で、サメに育てられたシャークボーイ(テイラー・ロートナー)と炎とマグマを自在に操るマグマガール(テイラー・ドゥーリー)の話を発表する。クラスの仲間からもエレクトリシダッド先生(ジョージ・ロペス)からも信用されず、いじめられる始末。しかし、シャークボーイとマグマガールはマックスに助けを求めて本当に学校にやってくる。彼らの暮らす「よだれ惑星」が闇の勢力によって危機にさらされているという。その惑星はマックスの夢見る力で作られたのだった。マックスは2人とともに惑星に行き、危機を救おうと奔走する。
敵が学校の先生だったり、いじめっ子だったりするのはこうした映画のお約束か。「よだれ惑星」というネーミングもひどいが、そこで描かれるものも何ら新鮮なものがない。1時間33分の上映時間だが、1時間で語れる話である。7歳の子供のアイデアをそのまま描いては面白くなるはずがない。子供はもっと複雑な話でも理解するものだし、そういう奥行きのある話の方が何度も見たくなるはず。ロドリゲスにはそういうことをよく考えて、子供向け作品を作って欲しい。
日本語吹き替え版は山寺宏一が何役もやっている。達者な人だなと思う。