2006/03/11(土)「力道山」
「史実に独自の解釈を加えた」と映画の最後に字幕が出る。監督のソン・ヘソンによれば、「ある意味、完成した作品のほとんどはフィクション」という。フィクションにせざるを得なかったのは力道山にダークな面があるからだろう。映画にはヤクザとの関係も描かれ、力道山を全面的に美化しているわけではないが、この男の原動力がどこにあったのか明確には見えてこない。いや、描いていないと言うべきか。朝鮮半島に生まれながら、日本人として振る舞ったこの昭和のヒーローが求めたものは単に金や名声、成功という世俗的なものではなかったのかと思う(僕には「空手バカ一代」に登場する力道山の卑屈なイメージがあるから、こう思えるのかもしれない)。関取時代に言う「横綱になって思い切り笑いたい」という言葉が本音なら、プロレス団体設立時に言う「敗戦でショックを受けた日本人に誇りを取り戻させたい」という言葉は立て前で、この対極的な2つの言葉の間で映画は揺れ動く。2時間29分を費やしても力道山の本当の姿が見えてこないと感じるのはキャラクターの造型にぶれがあるからだと思う。そのぶれはヒーローという偶像を破壊するか、維持するかのぶれでもあり、映画の興行を考えた上でのぶれでもあるのだろう。体重を20キロ増やしたソル・ギョングの演技に対する真摯な取り組みは尊敬に値するし、中谷美紀、藤竜也も好演していて力作になっているが、根本的なところで物足りない思いが残る。
映画は力道山が関取時代の1944年から赤坂のクラブで刺されて死ぬ1963年までを描く。関取時代の力道山は朝鮮人ということで差別され、先輩から過酷ないじめに遭う。ある日、先輩の財布を盗んだ疑いがかけられ、刑事に追われて銃を突きつけられる。部屋の後見人である会長(藤竜也)に対して力道山は「私は相撲がしたいだけです」と叫び、会長の援助を受けるようになる。これは実は先輩を力で服従させた力道山が仕組んだ芝居だった。このシーンを見て、映画を見る前に持っていた「力道山を美化しただけの映画ではないか」という危惧はなくなった。この路線で通せば、映画はもっとすっきりしたものになっただろう。朝鮮人差別から逃れるために手段を選ばずにのし上がっていく男。それは非難されることではない。力道山は相撲協会の理事会にもある差別意識によって関脇になれなかったことから相撲に見切りを付ける。荒れた生活を送っていた時にハロルド坂田(武藤敬司)に出会い、プロレスに転向する。会長の援助でアメリカに修行に行き、帰国後、日本プロレスを設立。シャープ兄弟との対戦で大衆の熱狂的な支持を集めるようになる。
キャラクターにぶれを感じるのはプロレス転向後の描写にある。ここで力道山の意図が見えなくなるのだ。世界最強の男を目指したのか、単に金儲けをしたかったのか。死ぬまで朝鮮人であることをカミングアウトしなかった力道山には、差別されることへの恐れがあったと想像できる。体格の大きいアメリカのレスラーを倒すことで、日本のヒーローとなった人物が日本人でないということが分かれば、大衆のヒーローとして成立しにくくなる。それはプロレス興行にも影響を及ぼしただろう。そのあたりの計算はなかったのか。映画は力道山に「日本でも韓国でもない。俺は世界人だ」というセリフを言わせているのだが、そのセリフを言わねばならなかった力道山の真意について映画は深く言及しない。差別は前半で描かれているのだけれど、後半までその路線で統一した方が分かりやすくなったと思う。いや、差別ではなく、貧しさからの脱却であってもいい。人の行動を規定するものを深く描いた方が良かったのではないか。
日本人の俳優が多数出ていることもあって、日本の描写に何ら違和感はない。ソル・ギョングのしゃべる日本語は多少ぎくしゃくしているが、許容の範囲内。それだけに後半のやや深みに欠ける展開が惜しまれるのだ。
2006/03/05(日)「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」
C・S・ルイスの傑作ファンタジーを「シュレック」(2001年)のアンドリュー・アダムソン監督で映画化。「シュレック」はおとぎ話をひねった大人向け作品だったが、今回はディズニー製作ということもあって真っ当な子供向け作品である。子供向けとしてはロバート・ロドリゲス「シャークボーイ&マグマガール」などよりはよほど志が高く、刺激は少ないけれども大人が一緒に見に行っても退屈はしない。クリーチャーのデザインはWETA社が担当しているので、敵方の怪物などは「ロード・オブ・ザ・リング」を思わせる。クライマックスの戦闘シーンも「ロード…」風である。大きく異なるのは主人公が子供であることもあって、物語の深みやドラマティックな展開に欠けることだ。原作が子供向けなのでしょうがないのだが、外見をいくら似せようとも「ロード・オブ・ザ・リング」の牙城には大きく及ばない。いや同じ子供向けの「ハリー・ポッター」にも負けているだろう。主役の4人の兄妹にあまり魅力がないとかの問題はあるにせよ、物語の語り口が単調なことが一番の問題で、これはもう少し緩急を付けて見せる工夫が必要だったように思う。当然作られるであろう第2作ではそのあたりを考えてドラマを面白く見せて欲しいと思う。
第2次大戦中のロンドン。ドイツの空襲から逃れてペベンシー家の4人の兄妹は田舎の古い屋敷に預けられる。広大な屋敷の中である日、末っ子のルーシー(ジョージー・ヘンリー)が空き部屋の衣装だんすの中に入ると、そこは不思議な世界につながっていた。雪の降る中、ルーシーは半神半獣のフォーンであるタムナス(ジェームズ・マカヴォイ)と出会う。そこはナルニアと呼ばれる国で白い魔女(ティルダ・スウィントン)の支配によって100年間冬が続いていた。元の世界に帰ったルーシーの話を兄姉は信じなかったが、再び衣装だんすからナルニアに向かったルーシーの後を付けた次男のエドマンド(スキャンダー・ケインズ)はナルニアで白い魔女に出会う。禁断の菓子ターキッシュ・デライト欲しさにエドマンドは白い魔女の要求を聞くことを約束する。白い魔女は4人の兄妹を捕らえることを計画していた。動物や魔女、魔物の住むナルニアには「ふたりのアダムの息子とふたりのイブの娘」、つまり4人の子供たちが白い魔女の支配を終わらせるという伝説があったのだ。長男ピーター(ウィリアム・モーズリー)、長女スーザン(アナ・ポップルウェル)を含めた4人の兄妹はナルニアで白い魔女に対抗することになる。
全7巻の原作は2555年に及ぶナルニアの年代記で、この第1章はそのうち1000年あたりのことを描いているそうだ。だからこの4人の兄妹が全部の作品に出てくるわけではないのだろう。話はこれだけで完結しており、「ロード・オブ・ザ・リング」のように早く続きが見たいという切実な気分にはならない。ディズニーに7作とも映画化する計画があるのかどうかは知らないが、シリーズを考えれば、何か謎を提示しておきたいところではあった。ナルニアの創造主で最初の王であるライオンのアスランに絡む謎を何か残しておけば、第2作以降に興味がつながったのではないか。観客の気持ちを引きつけるものが映画にはあまりない。
言葉をしゃべる動物たちなどVFXはよくできている。ただ、全体的に平凡なレベルにとどまっている感じが拭えないのはオリジナリティーが不足しているからか。視覚的にも物語的にも強烈な印象を残すものが欲しくなってくるのである。
2006/02/26(日)「県庁の星」
「あたしたちには県庁さんの力が必要なんです」。高校を中退して16歳から三流スーパーにパートで勤める二宮あき(柴咲コウ)が主人公の野村聡(織田裕二)に言う。もちろん、「県庁さん」とは県庁の組織のことではなく、主人公を指す。野村は県の巨大プロジェクトの中心にいて、「県庁の星」と期待されていたが、派閥によってプロジェクトから外され、建設会社社長の娘との婚約も解消。自分が望んでいたものをすべて失い、「エリザベスタウン」の主人公のようなどん底の状態に落ちる。ショックで民間研修先のスーパーも無断欠勤。そこへ、野村が書いたスーパーの改善計画を読んだあきがやってきて「あなたが必要だ」と話すのだ。「あたし、いつも気づくのが遅いんだ」。
あきの言葉がきっかけとなり、野村はスーパーの改善に懸命に取り組み、同時に一般庶民の視線に立って人間的な成長を果たしていく。桂望実の原作を「白い巨塔」や「ラストクリスマス」などテレビドラマのディレクター西谷弘が監督。終盤にある主人公の演説シーンなどは設定がリアリティーに欠けるし、県庁内部の描写にステレオタイプなものもある。しかし、後半、厳しい現実を知った主人公がそれまでの上昇志向から変わっていく姿には深く共感できるし、映画デビュー作としては上々の出来と思う。こういう話、僕はとても好きだ。織田裕二もいいけれど、目の動きや言いかけた言葉、さりげない仕草に深い情感を込めた柴咲コウの演技にほとほと感心させられた。柴咲コウ、「メゾン・ド・ヒミコ」に続いて絶好調である。
元々、野村がスーパー「満天堂」に研修に来たのは事業費200億円をかけたプロジェクトを成功させるためだった。そのプロジェクト、「特別養護老人複合施設(ケアタウン)」の建設は市民団体から反対の声が起きていた。プロジェクトに民間の視点を取り入れるため、野村など数人が民間企業に研修に行くことになる。スーパーのことを知り尽くし、“裏店長”と呼ばれるあきが店長(井川比佐志)から野村の教育係に指名される。最初は反発し合っていた2人が徐々に心を開くのはこうしたドラマの定跡と言えるが、この映画、べたべたしない展開が非常に良い。少しずつ少しずつ、2人は距離を縮めていくのだ。原作では中年女性のあきを25歳の女性に変更したのはロマンスの要素を取り入れるためだそうで、それは成功している。
町並みにそびえ立つ県庁のビルは庶民とかけ離れた県の政策、姿勢の比喩でもあるのだろう。高層ビルから下界に降りた野村は庶民の高さで物事を見ていくようになる。そしてスーパーの現状を仕方がないとあきらめていたあきも野村によって変わっていくことになる。「出会うはずのなかった二人 起こるはずのなかった奇跡」というこの映画のコピーは内容を端的に表していてうまいと思う。外国人もいるスーパー店員たちとの交流や売れる弁当を作るために主人公が奮闘する「満天堂」内の描写はどれも良い。残念ながら、県庁の描写はやや誇張された部分が感じられる。プロジェクトの話も原作にはないそうで、どうもこの部分の処理があまりうまくないのだが、人生の絶頂にあった主人公が転落するドラマティックさを強調するためには必要だったのかもしれない。
柴咲コウは「日本沈没」の撮影が終わって1週間でこの映画の撮影に入ったそうだ。準備期間がほとんどないままで、これだけの演技ができるのなら大したものだと思う。大作などよりはこうした生活感のある役の方が向いているのではないか。
2006/02/22(水)「魚と寝る女」
キム・ギドクの2000年の作品。「悪い男」(2001年)や「春夏秋冬そして春」(2003年)の原型のような作品だ。ヒロインにまったくセリフがないのは「悪い男」だし、湖に浮かんだ小屋船が舞台なのは「春夏秋冬そして春」。三枚におろされ、湖に放された鯉が再び釣り針にかかる場面などは「春夏秋冬…」の石を結ばれたカエルや蛇が生き返るシーンそのままで、内容的にも人の生と性と死を描いて共通している。人間の営み、男女の営みを直接的・間接的表現を織り交ぜて描き、面白いイメージがたくさんある。
ギドクは直感的な描写の人なのだと思う。ストーリーを語っても何も面白くないのに、所々にあるイメージの鮮烈さで映画をもたせている。そのイメージにどんな意味があるかというと、どうとでも取れる感じがする。それが逆にこの作品の長所でもあるのだろう。
僕はヒロインの存在の仕方を見て、何となく勅使河原宏の「砂の女」を思い出したが、ギドクの手法は独自のもので、だからこそ価値があると思う。
2006/02/19(日)「ブラック・セプテンバー 五輪テロの真実」
2000年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞受賞作(原題はOne Day in September)。スピルバーグの「ミュンヘン」公開劇場ではDVDが先行販売されているそうだ。DVDのタイトルは「ブラック・セプテンバー ミュンヘン・テロ事件の真実」。
事件の始まりから終わりまでを当時のニュース映像と関係者、遺族、そして8人の犯行グループのただ一人の生き残りジャマール・アル・ガーシーのインタビューで構成している。犯行グループは3人生き残ったが、2人はイスラエルの暗殺団に殺され、ガーシーはアフリカに隠れ住んでいるという。
ドイツ政府は空港で犯人を捕らえるか射殺する計画を立てたが、用意した狙撃兵は5人だけ。犯行グループの数を4、5人と思っていたためだ。飛行機の中に隠れ、犯人を捕らえる予定だった警官たちは「これは自殺行為だ」として犯行グループの到着直前に逃げてしまう。人質全員が死亡するという最悪の結末となったのはドイツ政府のこの対応がまずかったからというのがはっきり分かる。当時はテロへの準備も態勢もなく、ずさん極まりない計画を立てたのが最大の原因だろう。
驚いたのは犯行グループの3人が釈放されたハイジャック事件の真相。事件から7カ月後に起きたルフトハンザ機のハイジャックで、飛行機に乗っていた乗客は12人。それも男ばかりだった。ドイツ政府とテロリスト側が裏取引して事件を演出したらしい。背景には3人を釈放することで、テロを防ぎたいというドイツ政府の意図があったという。そこまでやるか、という感じ。ドイツの対応にイスラエル政府が怒ったのも当然だなという気になる。