2013/08/16(金)「遊星からの物体X ファーストコンタクト」
VFXのレベルが29年前のジョン・カーペンター版と同レベル。この間の進歩はなかったのかと少し情けなくもなるが、カーペンター版の前日談なので「整合性を取るため」という理屈は通る。ただ、誰がエイリアンなのか分からないという疑心暗鬼の展開まで同じにすることはなかった。全然別の展開を考えても良かったのではないか。ヒロイン役のメアリー・エリザベス・ウィンステッドのみ光る。
原題がカーペンター版と同じ「The Thing」なのはまぎらわしい。続編を作る意図もあったらしい。
2013/08/10(土)「パシフィック・リム」
太平洋の海底の次元の裂け目から現れた怪獣(KAIJU)と巨大ロボット(イェーガー)が戦うSFアクション。「トランスフォーマー」の時も「リアル・スティール」の時も思ったのだが、アメリカ製のCGのロボットにはクシャッとすぐに壊れそうなもろさを感じる。質感が華奢で重量感に欠けるのだ。この映画のロボットも例外ではなく、実際にすぐに壊れるし、頼りないことこの上ない。何よりもこのストーリー、キャストでは映画が盛り上がらない。CGに予算がかかるのでキャストはB級にせざるを得なかったのだろう。ギレルモ・デル・トロ作品ではおなじみのロン・パールマン(「ヘルボーイ」)のみ怪獣に負けない存在感があった。というわけで、いくら製作費をかけていても、B級の感じが抜けきらない映画だ。
一番の問題はストーリーで、いったん、怪獣にやられたのなら、ロボットはパイロットだけでなく、機能的にもパワーアップしてほしいところだ。実はマッドサイエンティストが秘密兵器や強力な装甲を作っていて…みたいな展開がほしい。クライマックスは最強の怪獣とパワーアップしたロボットとの対決になるべきなのだ。ロボットの操縦士として一度は失格した菊地凛子が復活する展開にも説得力が足りない。兄を殺された主人公(チャーリー・ハナム)にしても、怪獣への憎しみが足りない。ドラマの構築が弱いと思う。「ガメラ3 邪神覚醒」の前田愛のような在り方を見習うべきだ。主人公のエモーションが脆弱なので、ドラマを引っ張る力に欠けるのだ。
怪獣の造型にもイマイチ感が漂う。アメリカ製の怪獣はどうしてあんなに爬虫類を少しアレンジしただけのどれもこれも似たような感じになるのか。パンフレットによれば、この映画には10種類以上の怪獣が登場するが、どれも同じように見える。大量生産型のクローン怪獣なので、個性に乏しくなるのだろう。これが日本の怪獣映画とは異なるところで、ゴジラやキングギドラやモスラやラドンのように怪獣自体に強烈なキャラを設定しないと、怪獣映画としての魅力は高まっていかない。脚本はデル・トロとトラビス・ビーチャム(「タイタンの戦い」)。もう少しSFの分かる脚本家を参加させた方が良かっただろう。CGの技術は一流なのに、これでは惜しい。
菊地凛子は頑張っているが、この役柄なら、あと10歳ぐらい若い女優の方が良い。ほとんどセリフなし、赤い靴を持って「ママ…」と泣きながら逃げ惑う芦田愛菜はハリウッドでも注目を集めそうだ。
2013/06/24(月)「ヘルプ 心がつなぐストーリー」
黒人メイドたちへの人種差別を描いた映画だが、出てくる女優がいずれも好演していて女性映画の趣がある。主演のエマ・ストーンは相変わらず良く、ジェシカ・チャステインのうまさも光る。憎まれ役のブライス・ダラス・ハワードも褒めるべきかも。
2013/06/24(月)「きっと、うまくいく」
原題の“3 Idiots”は「3人のバカ」という意味で、インドで歴代興収ナンバーワンになったコメディだ。細部にさまざまな粗が目立ち、僕には普通のコメディに思えた。
パンフレットには「学歴競争が過熱する現代のインドが抱える教育問題に一石を投じ」とあるが、主人公のランチョー(アーミル・カーン)は大学でトップの成績を残す。親友のファルハーン(R・マーダヴァン)とラージュー(シャルマン・ジョーシー)は最下位と下から2番目だが、名門工科大学ICEの中での順位だから世間的には全然バカじゃないエリートだ。
卒業後、1番のランチョーが2番のチャトゥル(オーミ・ヴァイディヤ)に勝つという展開になると、なんだ学歴社会を否定してるわけじゃなくて、成績は大事ですよという当たり前の結論になってしまうじゃないか。観客をなめてるんじゃないのか、この脚本。
この3人、バカなことはするけれども、バカじゃない。愛すべき善良な3人だ。友情を大事にする善良な人間が、成績は良いけれどもイヤな人間に勝つというのはエンタテインメント映画の王道の作りと言える。この王道に沿うのなら、三流大学の学生、あるいは大学に行っていない人間が一流大学の学生に勝つという展開にした方がテーマはより明確になったし、好ましかったのではないかと思う。
最近のインド映画は以前より上映時間が短くなったらしいが、これは170分。はっきり言って、この内容なら2時間程度にまとめてほしいところだ。コメディとしての新機軸はないし、いくつかある下ネタで僕は頬が引きつったが、映画は上映時間の長さも含めて十分な大衆性を持っている。この大衆性は美点なので、ラージクマール・ヒラニ監督、次はもっと脚本を練り、高いところを目指して欲しいと思う。
2013/05/26(日)「セデック・バレ」
長いけど平凡。いや、長くて平凡か。「第1部 太陽旗」2時間23分、「第2部 虹の橋」2時間11分。合わせて4時間34分もある。平凡に感じるのは語り方が単調なためで、「霧社事件」という題材はとても良かったのに惜しい。3時間ぐらいにぎゅっと凝縮した方が良かったと思う。
霧社事件は1930年、日本統治下の台湾で起きた抗日暴動事件。原住民族であるセデック族の戦士300人が駐在所を襲撃し、運動会に参加していた134人の日本人を殺害した。セデック族は敵を殺し、首を刈ると勇者として認められる。だから霧社事件も血を捧げる儀式としてとらえている。問題は事件に至るセデック族側の気持ちが十分に描かれないこと。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は一応描かれるが、具体的に耐えがたきを耐え、爆発せざるを得なかった内容をもっと詳細に描いた方が良かっただろう。そうしないと、女子供まで殺したことに説得力がない。
霧社事件後の日本軍によるセデック族制圧を描く描く第2部はほとんど戦争アクションの趣。映画を観ながら「ラスト・オブ・モヒカン」を思い浮かべたが、当然のことながら、ウェイ・ダーションはマイケル・マンの演出力には及んでいない。
もしかしたら、興行上の配慮をした結果なのではないか、と勘ぐりたくなるぐらい日本人が極悪非道には描かれていない。だから、第1部のクライマックス、セデック族の300人の戦士が駐在所と運動会を襲うシーンに説得力がない。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は描かれるが、それが女子供を含む134人を殺す理由としては機能していないのだ。1部、2部合わせて4時間半余りの映画の根幹を成す部分だから、これはきちんと描くべきだった。もちろん、他の国の領土を勝手に支配し、「理蕃政策」などと称して文明化を進めることは大きなお節介であり、原住民に反感が高まっていたであろうことは容易に推測できるが、それを通り一遍ではなく、観客に十分に共感を持たせる形で描くべきだった。
セデック族が女子供まで殺したのはなぜか。映画はセデック族に「通報させないために皆殺しにする」と理由を言わせている。脚本家が頭で考えた幼稚な理由づけと言うほかない。日本人が大量に虐殺されて、それがセデック族の住む地域であったら、誰の犯行か分からないなんてことがあるわけがない。女子供まで殺したのは日本人が排除すべき、憎むべき敵であったからにほかならないだろう。だから憎しみが爆発する過程を丁寧に描くべきだったのだ。日本軍による制圧作戦が展開される第2部は特に戦争アクションと言って良いぐらいに殺戮シーンに終始する。どんなにアクションをうまく撮ろうが、そのアクションを引き起こす要因を描かなくては空しいだけだ。
「霧社事件」について僕は何も知らなかったし、ウェイ・ダーション監督がこの題材を取り上げたことは称賛に値する。だが、それだけで終わってしまった。日本人を徹底的に悪く描いていて、そのことでもし、日本での興行成績が振るわなかったにしても、それは映画の本質的な価値を少しも貶めるものではない。セデック族がなぜ蜂起しなければならなかったのかを詳細に描くことこそが亡くなった蜂起して死んだセデック族ばかりでなく、殺された日本人にも報いることになったはずだと思う。
ある文化が別の文化に接触する時、そこには必ず摩擦が起きる。霧社事件の本質的な原因はそこにあると僕は思う。