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8月前半(15日まで)に見た映画は16本。劇場では6本だった。
全編監督ロケをした石井裕也監督作品。妻を失った剛(池松壮亮)は8歳の息子とともに兄(オダギリジョー)がいる韓国へ行く。兄は怪しい化粧品販売の仕事をしていた。剛たちは家族関係に悩むタレントのソル(チェ・ヒソ)の家族とソウルで出会い、一緒に旅をすることになる。
日本、韓国とも役者は全員良いが、話が今一つ盛り上がらない。両家族の関係性が良くも悪くもなく、不透明なままなのだ。日韓の交流に安易な結論を出すのは難しいので仕方ないのかもしれない。
原田マハの原作とはまるで異なる話になっている。映画好きの主人公ゴウがギャンブル好きで借金まみれであるなど原作の登場人物に沿ったキャラクターではあるが、原作のゴウに映画の助監督を務めた過去はない。
原作は「父親のゴウが雑誌『映友』に歩の文章を投稿したのをきっかけに、娘の歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログ『キネマの神様』をスタートさせることに。“映画の神様”が壊れかけた家族を救う、切なくも心温まる奇跡の物語」。無名の個人のブログで月の広告収入1000万円とか、ありえない展開があって、原作にはあまり感心できなかった。ゴウがブログに書いている内容も「フィールド・オブ・ドリームス」の感想などいたって普通で特別に話題になるとも思えないものだ。
こうした物語では映画に向かないため、山田監督がまったく違う内容にしたのも分かるが、それならば、この小説を原作にする必要はなかった。要するに「キネマの神様」というタイトルを使いたかっただけなのではないか。
主演の沢田研二は志村けんに寄せた演技が所々にあってマイナスの印象。「東村山音頭」を歌うシーンなど不要だと思う。そもそも沢田研二、映画に出るなら、もう少し体を絞った方が良かっただろう。原作のゴウさんも志村けんもこんなに太ってはいない。
良かったのは過去のパートで、永野芽郁が良いのはもちろんだが、意外なことに美人女優を演じる北川景子がさまになっていた。北川景子、2月に公開された「ファーストラヴ」ではまったくラブシーンがダメダメな演技だったが、こういうそこにいるだけの美人という役柄にはぴったりだ。
コロナ禍の描写を取り入れたのは良いが、映画の出来としてはいたって普通のレベル。
2001年の第1作から数えてシリーズ9作目(スピンオフの「スーパーコンボ」を含めると10作目)は上映時間2時間23分。見る前は長すぎるのではと思ったが、アクションが切れ目なく続くので、そんなに長さは感じない。それでももう少し切り詰めた方が鋭い映画になったと思う。
壊れた吊り橋のロープ1本を使ってクルマをジャンプさせたり、改造車で宇宙へ行ったりなど、大がかりなアクションは、おバカ映画の一歩手前という感じ。単なるカーアクションの枠を超えるアクションが展開されるようになったのは2011年の「MEGA MAX」ぐらいからだっと思うが、作品ごとにエスカレーションしている。
3作目で死んだハン(サン・カン)が実は生きていたとして復活する。こういう「死んだはずだよ、お富さん」的展開になるのはレティ(ミシェル・ロドリゲス)に続いて2人目で、このシリーズ、なんでもありなので、もはや気にならない。むしろ、2013年に亡くなったポール・ウォーカーが演じたブライアンが画面にまったく登場しないのに、存在している設定なのが不自然。ウォーカーは観客にもスタッフにも愛された人だったにせよ、さすがに無理が目立ってきた。
シリーズ開始から20年たち、出ている俳優陣の多くは年齢的に厳しくなった。シリーズは次の2作で完結するらしい。
原題は2016年の「Suicide Squad」に「The」を付けただけのタイトル。仕切り直しの決定版という意味だろう。悪を殲滅するために終身刑の悪人たちによる部隊を組織するという話だが、マーベルで「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」を撮ったジェームズ・ガン監督がやりたい放題にやらせていただきました、という感じで作っている。マーベルは親会社がディズニーなのでグロい描写には規制があったのかもしれない。頭が切断されたり、吹っ飛んだり、DCはなんでもありだ。
ジェームズ・ガンのユーモア感覚は絶妙で、ゲラゲラ笑いながら見ることになるが、怪獣映画のようなクライマックスからまともなヒーローものになる。その怪獣、「宇宙人東京に現わる」で岡本太郎がデザインしたヒトデ型一つ目の宇宙人パイラ人と同じなのが笑える。しかし、最新のVFXで動くこの怪獣、迫力があり、恐怖の存在として十分に機能している。
ビリングのトップはハーレイ・クイン役のマーゴット・ロビー。当然という感じだが、ロビーは演技もしっかりできるのにこうした映画を見捨てないのはえらい。2016年版のハーレイはそのキュートさで一躍人気者になった。今回はキュートさは控えめで、強さが目立っている。このほか、キャラで目立つのはサメ男キング・シャークで、シルベスター・スタローンが声を演じていてこれまた絶妙に面白い。ネズミの群れを操るラットキャッチャー2(父親=タイカ・ワイティティの跡を継いだから2)を演じるダニエラ・メルキオールはポーランド出身で、これが初のアメリカ映画出演とのこと。
中国の苛烈な受験戦争を背景にしたいじめを巡る青春映画。第93回アカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされた(受賞は「アナザーラウンド」)。内容について東野圭吾のあれとあれだとか、岩井俊二の影響受けているとか、いろいろ言われているが、ともに不遇な環境にある若い男女が出会い、強く切実に惹かれ合うという展開は過去の青春映画に多数の前例がある。定番とも言えるプロットにもかかわらず、この映画が大きな成功を収めたのは主演のチョウ・ドンユイとイー・ヤンチェンシーの魅力によるところが大きいだろう。
29歳なのに18歳の高校3年生チェン・ニェンを演じて不自然さがないドンユイも鮮烈だが、「俺は君を守る。君は世界を変えろ」と言うシャオベイ(ヤンチェンシー)が良い。かつてはこういう男子が普通(例えば、日活アクションとか「未来少年コナン」とか)だったのだが、日本では今や「あなたは死なないわ。私が守るから」と女の子(綾波レイ)から言われる始末だからなあ。
後半のミステリー的展開は作劇として決してうまくはないものの、学歴偏重社会の否定につながるラストをもってくるための手段でもあるだろう。
劇中、チョウ・ドンユイは坊主頭になる(これが「リリイ・シュシュのすべて」の伊藤歩を思わせる)。パンフレットによると、ドンユイの提案でスタッフ全員も同じく坊主頭になったとのこと。
いじめっ子の美少女ウェイ・ライを演じるチョウ・イエはこの映画で一躍注目を集め、大作への出演が続いているという。なるほど、それも納得の美少女ぶりだ。
映画の中で940万人(だったかな)とされる高考(全国統一大学入試)の受験者数は現在、1000万人を超えているそう。日本の大学入学共通テストの受験者は約53万人なので20倍近い数。大学受験の厳しさは日本をはるかに上回っているのだ。
ベトナムから技能実習生として来日した3人の女性たちの苦境を描く。ミャンマー人家族を描いた「僕の帰る場所」(2017年)に続く藤元明緒監督の長編2作目。話の展開は、環境も待遇もひどかった最初の職場から逃げだし、雪国の漁港で働き始めた3人のうち1人が体調不良になり、妊娠が発覚する、というだけなのだが、事態は極めて深刻だ。技能実習生ではなくなった途端、身分証も保険証もなくなり、不法滞在になっているので病院に行くこともできないのだ。不法滞在が発覚すれば、強制送還が待っている。
困ったフォン(ホアン・フォン)は身分証と保険証を偽造してもらい(5万5000円もかかる)、病院に行く。体調不良の原因は妊娠の影響で逆流性食道炎になったことだった。超音波で胎児を見たフォンは日本語で「小さい」とつぶやく。
彼女たちはベトナムのブローカーに大金を払って来日している。職場を変わる際にも大金を払った。技能実習という国の制度を利用しているにもかかわらず、こうした余計で不透明な金がかかる現状はおかしいだろう。実習生の期間は3年に限られており、低い賃金の中から支払った金を取り戻すのも大変な現状なのだ。だから実習生の脱走が相次ぐことになる。制度不良と言って良いと思う。
パンフレットによると、日本は世界4位の移民大国で、来日する実習生の6割はベトナムからだそうだ。彼らは風俗産業に就いているわけではないが、境遇は1980年代に問題になった「じゃぱゆきさん」とあまり変わらないだろう。いや、当時の日本は裕福な国だったが、現在は違う。東京の最低賃金はタイのバンコクより低いそうだし、平均年収は韓国より低い。
タイやフィリピンからの労働者が減っているのはそうした日本の経済力低下が関係しているだろう。超高齢社会の日本は将来的に移民労働者をあてにしているが、自国より低い賃金の国に誰が働きに来ますか。ベトナムの実習生も待遇を改善しないと、いずれ来てくれなくなるだろう。実習生の待遇改善には日本の労働者の待遇を改善しないと、どうしようもない。アベノミクス以降、円安誘導の経済政策を続けてきた結果、円の価値が下落し、日本の労働条件は諸外国に比べて大きく低下してしまった。80年代から90年代にかけてのバブル期を知る中高年層にはまだ日本が裕福と思っている人がいるが、そうした幻想はとっとと捨て去った方がいい。
この映画は音楽もなく、自主映画に近い体裁だが、現状を知らしめる意味で作った意義は大きい。撮影は青森県外ヶ浜町で行われ、町も撮影に協力してくれたそうだ。彼女たちを演じたのはホアン・フォンのほか、アン役にフィン・トゥエ・アン、ニュー役にクイン・ニュー。パンフレットには彼女たち3人が美しく着飾った写真が掲載してある。粗末な小屋での寝起きを演じた彼女たちは、日本の現状をどう思っただろう。
シネマ1987の8月の合評会は「ゴジラvsコング」「竜とそばかすの姫」「1秒先の彼女」の3本について感想を話した。以下は僕のコメントの要約(「竜とそばかすの姫」については既に感想を書いているので省略)。
「ゴジラ」シリーズは僕の映画鑑賞の原点みたいなものなので、作品評価に関して心が広いです。モンスターバースの中ではゴジラもキングコングも地球生態系の守護神として描かれてきたので、戦う理由をどう設定したのか興味がありましたが、それに関しては肩透かしでした。ストーリーはどうでもよくてゴジラとコングを闘わせるだけの映画ですね。その見せ方に関しては迫力があって悪くなかったと思います。
小栗旬は序盤はセリフがありましたが、後半は白目むいてただけの印象でした。かなりカットされたようで、本人としては不本意でしょうね。
モンスターバースの作品で一番面白いのは「キングコング 髑髏島の巨神」(2017年)だと思います。監督のジョーダン・ヴォート=ロバーツは現在、ガンダム実写版に関わってるそうです。
アホかと思いました。おかしな点がたくさんありすぎて挙げるのが面倒なんですが、いくつか挙げます。
1秒遅れが蓄積した結果、時が止まって彼が追いつくという展開なんですが、ずーっと1秒遅れなら全然蓄積してないですよね。1秒遅れが2秒、3秒、4秒と遅れていくのなら話は分かりますが、全然そうはならない。それなら修正する必要もないです。しかも時が止まったという表現ながら、全然止まってないです。なぜ昼だったのが夜になるのかと。つまり、時は止まってなくて、世界の動きが止まったんです。ただ、そうなると、時間の修正もできないです。もうね、妄想レベルの話で、あきれてきます。論理が破綻してますね、この脚本。
彼女だけが「バレンタインデーがなくなった」と騒ぎますが、世界全体が止まったのなら、世界全体からバレンタインデーがなくなったはず。つまり彼女だけが他の人より丸1日余計に止まってたんですね。これは映画で詳しく描いてないですけど、1秒先が蓄積していったので修正したということなら分かります。そこまで考えてないですけどね、この映画。
何よりもダメなのは女性が気を失っている間に、あんなことやこんなことを勝手にやるこの男の気持ち悪さです。ストーカー男の犯罪行為、変態行為にほかなりません。本人の同意も取らずにこんなことをして許されると思ってるんでしょうか。口へのキスじゃなくて、額へのキスだから許されると思ってるのでしょうね。
この映画を肯定することはそうした変態行為を肯定することと同じです。さらにあきれたことに、彼女は男がこうしたことをしたのを知っても、彼を好きになるんですね。この映画、完全に壊れてます。世界が止まってる間に彼女を命を救った、その結果、自分は大けがをした、というような展開にすれば良かったのにと思います。交通事故による大けがじゃ、ダメなんです。
「プラットフォーム」
各映画祭で受賞しているスペインのSFスリラー。たぶん刑務所なんですけど、各部屋に2人が入れられていて、それが縦に長く並んだ建物が舞台。部屋の真ん中に大きな四角い穴があって、上からテーブルに乗った料理が降りてくる。上の人の食べ残しを下の人は食べるわけです。主人公は最初、47階層で目覚めるので、そこはまずまず料理が残ってるんですが、次に目覚めたのは171階層で、同房の男からベッドに縛られている。なぜかというと、この階層では料理にありつくことなんてできないので、同房の男は食べるために主人公を縛った、という展開。
4月にキネマ館で公開された時には、どういう映画かよく分からなかったのと、それほど評価は高くなかったのでスルーしました。Netflixで配信が始まったので見たら、話の設定がユニークで面白かったです。少し「CUBE」(1997年、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督)を思い起こさせるところがありますが、よくこんな設定を思いつくなと感心しました。人間性をあらわにした残酷なところもあるんですけど、階級社会の風刺になっているし、最後は宗教的だったりします。
キネマ旬報2021年8月上旬号の細田守監督インタビューによれば、「竜とそばかすの姫」のコンセプトとして監督が考えていたのは「インターネットの世界を舞台に、現代の『美女と野獣』を描きたい」ということだった。細田監督はディズニーの名作アニメ「美女と野獣」(1991年)に大きな影響を受けている。だから「おおかみこどもの雨と雪」(2012年)の母親とオオカミの関係は美女と野獣だし、「バケモノの子」(2015年)の英題は「The Boy and The Beast」なのだそうだ。今回初めて「美女と野獣」によく似たシーンが登場するが、ただのオマージュに留まっていないのは竜=野獣の正体がハンサムな王子様などではなく、そこから本当のテーマが立ち上がってくるからだ。
「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」(2000年)とそれを深化・拡大した「サマーウォーズ」(2009年)と同様の舞台である仮想世界で、傷ついた竜の正体を知った主人公は現実世界で苦しむその正体の人間を助けるために奔走する。仮想世界でも現実世界でも世界を変革するにはちょっとした勇気が必要だ。映画はそんなことを語りかけてくる。
主人公は高知県の田舎町に住む女子高校生のすず(中村佳穂)。すずの母親はすずが幼い頃、増水した川の中州に取り残された少女を助けようとして亡くなった。その事故以来、父親と2人暮らしで、成長したすずは父親とまともに会話していない。好きだった歌も歌えなくなった。ある日、すずはパソコンに詳しい親友のヒロちゃん(幾田りら)に誘われ、50億人以上が集うネットの仮想世界<U>に参加する。<U>は現実の人間のキャラクターを元にした分身As(アズ)で別のキャラクターを生きることができる。すずのAsはベルという名の歌がうまい、そばかす美人だった。ベルは歌と美貌で人気を得てコンサートを開くが、そこに竜と呼ばれる謎の存在が現れ、コンサートを無茶苦茶にしてしまう。正義を名乗るAsの集団は執拗に竜を追い詰めていく。
近年の細田監督作品は家族をテーマにしている。この作品も終盤、「美女と野獣」を離れて家族の問題を描いていくことになる。すずの母親が少女を助けようとして死ぬ設定はなぜ必要だったのか。クライマックス、すずは自分の行動の過程であの時の母親の姿を思い出す。母親は危険を冒してでも少女を見殺しにすることなどできなかった。母親は自分を見捨てて少女を助けようとして、結果的に自分に寂しい思いをさせることになったと、すずは思ってきたのだが、自分が同じような立場になって初めて母親の決断を肯定することができたに違いない。それは母親を深く理解することであり、父親との和解にもつながっていく。そうしたすずの変化が胸を打つ。
3DCGを取り入れた<U>の造型は素晴らしく、アニメーションの表現は細部まで美しく丁寧だ。「美女と野獣」のアラン・メンケンほどではないにせよ、音楽も世界を豊かに彩っている。アニメの表現を突き詰め、テーマを十分に描いて間然とするところがない傑作だと思う。
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