2010/02/13(土)「インビクタス 負けざる者たち」
考えてみれば、昨年の「チェンジリング」「グラン・トリノ」はどちらも意外性のある物語だった。その意外性がドラマと密接に結びついて物語の痛切さを増幅させていた。これは「ミリオンダラー・ベイビー」にも「ミスティック・リバー」にも言えることだ。今回はストレートな物語である。黒人と白人の対立が根強く残る南アフリカで、ネルソン・マンデラ大統領がラグビーを通じて国民の融和を図ろうとする実話をクリント・イーストウッドはど真ん中の剛速球のようなタッチで描く。自国開催の世界選手権を勝ち進んだ南アチームの決勝戦を描くクライマックスには心を揺さぶられる。イーストウッドの演出は今回もほぼ狂いがない。
ただし、“国の恥”と言われるほど惨敗していた南アチームがなぜ選手権までの1年間で強くなったかに説得力がない。スポーツを題材にした映画なら、チームが弱い原因を提示し、それを克服していくことで強くなっていく過程を描いていくのが普通だろう。そういう部分がこの映画には欠落しているのだ。だから南アチームは都合良く勝っていくだけに見えてしまう。もちろんイーストウッドは単純なスポ根映画を作るつもりなどなかったのだろうが、スポーツを取り扱う以上、こういう部分はとても重要なのである。これは端的に脚本の欠陥だと思う。黒人と白人の対立がチーム内にも影響を及ぼしていたという部分を描ければ良かったのだが、白人のスポーツと目されている南アの代表チーム・スプリングボクスに黒人は1人だけ。これではチームの姿を国に重ね合わせることは難しい。
“One team, One Country”(一つのチーム、一つの祖国)という言葉がチームの統率と国の融和を象徴する言葉であることは分かる。主将のフランソワ・ピナール(マット・デイモン)がマンデラ(モーガン・フリーマン)に会って心服することで、チームの統率を高めていく展開も分かるのだけれど、それならば実力は秘めていながら統率が取れていなかったから弱かったという部分を強調する必要があるだろう。僕にはそこが弱く感じられた。
バランスの難しい話なのだと思う。映画の冒頭に描かれるのは大統領に就任したマンデラの姿。初の黒人大統領を敵視する政府の職員たちが次々に去っていくのを見て、マンデラは呼びかける。「この国には皆さんの力が必要だ」。映画の重点は南アの人種対立を克服しようとするマンデラの姿にある。これはジョン・カーリンの原作もそうなのだろう。映画の主人公はあくまでもマンデラだ。代表チームに主軸を置いた構成にすれば、良かったのではないかと思う。代表チームが困難を克服していく過程がもっと描いてあれば、映画は説得力を増したに違いない。
インビクタスとは英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(1849-1903)の詩のタイトルで、ラテン語で「征服されない、不屈」を意味する。27年間の投獄期間中、マンデラが心の支えにした詩なのだという。
2009/12/30(水)「アバター」
資源開発会社RDAの保安部隊を騎兵隊に、ヒューマノイド型の種族であるナヴィをアメリカ先住民に置き換えれば、これは西部劇。先住民と暮らすことで主人公が認識を改めていく「ダンス・ウィズ・ウルブズ」とよく似た構成の物語となる。時は22世紀、映画の舞台となるパンドラは地球から5光年離れたアルファ・ケンタウリ系の巨大ガス惑星ポリフェマスの衛星という設定だ。地球の燃料危機を救うカギとなる鉱物アンオブタニウムを採掘するため、人間たちはこの衛星にやってきた。アバターとはナヴィと人間のDNAを組み合わせて作ったハイブリッドの肉体で、これを遠隔操作して主人公はナヴィに接近していく。
自然と共生するナヴィの姿は「風の谷のナウシカ」を思わせ、エコロジーの視点とアメリカ侵略主義への批判も含んでいるのだけれど、物語自体に新しい視点は少ないように思う。ジェームズ・キャメロンは過去の作品と同じようにビジュアル重視で映画を構成しており、俳優の演技をトレースするパフォーマンス・キャプチャーとCGをめいっぱい使ってゼロから映画を作り上げている。自然に見えるが、これは大変手のかかった作品と言える。
映画ではパンドラの生態系の詳細が分からないことと、物語自体に新鮮さが欠けているのが少し不満な点。オリジナルな設定ではあってもオリジナルなストーリー展開とは言えない。これは「ターミネーター2」でも思ったことで、キャメロンの関心は脚本よりもビジュアルに大きく傾いている。キャメロン自身、相当なSFファンらしいけれど、もっとSFの分かった脚本家がかかわれば、コアなSFファンをも満足させる映画になっていたと思う。ただ、手のかかったVFXを見ていると、ダン・シモンズの傑作「ハイペリオン」なども映像化できるなと思った。
主人公のジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は事故で脊椎を損傷した車いすの元海兵隊員。死んだ双子の兄に代わって、アバター・プロジェクトに参加することになる。アバターの肉体を手に入れたジェイクはパンドラの森の中で、先住民オマティカヤ族の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と出会う。ネイティリはスカイ・ピープルであるジェイクを殺そうとしたが、聖なる木の精がジェイクに集まるのを見て、ジェイクを特別な存在と見なした。ホームツリーと呼ばれる高さ300メートルの巨大な木の中で暮らすナヴィはパンドラの自然と深くかかわり、先祖の霊と交信することもできる。飛行動物のバンシーや馬によく似たダイアホースなどの動物とも髪の毛の先にある触手フィーラーでつなぐことによって心を通わせる。ナヴィの生き方はパンドラの自然と切り離せないものだった。そこにアンオブタニウムを狙ったRDAが攻撃を仕掛けてくる。
RDAの大量の重火器に弓と槍で対抗する構図は言うまでもなく、アメリカが過去に行ってきた侵略行為を想起させる。焼き払われる森、倒れるホームツリー。自然を破壊する行為への異議申し立てをちゃんと盛り込んだところが好ましい。
サム・ワーシントンは「ターミネーター4」に続いてSF大作映画の主演をきちんとこなした。RDAの部隊を指揮するマイルズ・クオリッチ大佐役のスティーブン・ラングと破壊行為に嫌気が差してジェイクたちと行動を共にする女性隊員ミシェル・ロドリゲスも好演している。
2009/12/20(日)「REC/レック」
リメイク版では謎の伝染病が狂犬病として最初紹介されるが、オリジナルではそんなことはない。たとえ新種であっても狂犬病ではちょっとがっかりで、なぜリメイクがこんな改変をしたのか理解に苦しむ。クライマックスに最上階の部屋に出てくる存在もリメイク版とは異なり、こちらの方が好ましい。撮影のリアルさと相まって、ホラーとして良い出来と思う。ストーリー上に強烈なオリジナリティーはないし、ゾンビもののパターンではあるのだけれど、それでもこの映画には強烈な個性がある。上映時間が80分程度と短いのも良い。
カメラの主観撮影のことをPOV(ポイント・オブ・ビュー)と言うそうで、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド HAKAISHA」が有名だ。「ブレア・ウィッチ…」には直接的な怪異の存在は登場せず、怖い雰囲気だけの映画だったけれど、怖さの盛り上げ方がうまかったと思う。「REC/レック」もカメラのブレや動きが真に迫っている。これがこの映画のキモだろう。ストーリーや撮影の仕方などはほとんど同じなので、amazonのレビューではリメイク版のことを(オリジナルの)ダビングと言っているが、ダビングよりも劣化コピーと言うべきか。緊迫感やシャープさがリメイク版には欠けているのだ。冒頭の消防署のシーンなどはオリジナルもちょっと冗長だけれど、リメイク版の退屈さよりははるかにましである。
字幕が好まれないアメリカでは吹き替え版を作る代わりにリメイクしてしまうことがあるが、このリメイク版もそのような意図から作られたのだと思う。だが、同じ脚本で撮っても、出来上がった映画には大きな差がある。
オリジナル版の脚本・監督はジャウマ・バラゲロとパコ・プラサ。この2人は「REC/レック2」でもコンビを組んでいる。劇場公開が10月だったから、DVDがいずれ発売されるだろう。楽しみに待ちたい。
2009/11/30(月)「イングロリアス・バスターズ」
ほぼ失敗作だと思う。なぜこの程度の話に2時間32分もかかるのか理解しがたい。脚本にコンパクトさが欠け、演出がそれに輪をかけている。だからダラダラした映画にしかならない。クエンティン・タランティーノの前作「デス・プルーフ in グラインドハウス」のアクションが僕は好きだけれど、ダラダラ感はいなめなかった。感想を読み返してみると、こう書いていた。「ボロボロにしてしまったダッジはどうなるとか、余計なことを描いていないのがいい。惜しいのはこのラストのあり方を全体には適用してないことで、こうした映画なら1時間半程度で収めて欲しかったところだ。短く切り詰めれば、もっと締まった映画になっただろうし、もっとグラインドハウス映画っぽくなっていただろう」。
その前の「キル・ビル」2作にしても撮っていたら長くなったために2作に分けることになったわけで、演出のコンパクトさをもっと考えないと、数々の映画へのオマージュだけでは惜しいと思う。タランティーノが愛するかつての映画はどれもコンパクトだったはずだ。その技術を引き継がず、表面上の描写をマネしてみても空しいだけである。タランティーノに必要なのは演出のシャープさとスマートさだ。
冒頭、ナチに占領されたフランスの田舎でユダヤ人の少女がドイツ兵から辛くも逃げ出す場面は15分前後はあり、早くもダラダラ感を覚える。ここは導入部なのだから、シャープな監督なら5分程度にまとめるはずだ。この第1章「その昔…ナチ占領下のフランスで」に始まり、第2章「名誉なき野郎ども(イングロリアス・バスターズ)」第3章「パリにおけるドイツの宵」第4章「映画館作戦」第5章「ジャイアント・フェイスの逆襲」と続く。ユダヤ人の少女ショシャナ・ドレフュス(メラニー・ロラン)が家族を皆殺しにしたハンス・ランダ(クリストフ・ヴァルツ)への復讐とブラッド・ピット率いるイングロリアス・バスターズと呼ばれるナチ殺しに命をかけるアメリカの秘密部隊の作戦が交差していくという作り。誰が生き残り、誰が死ぬのか予断を許さない展開はタランティーノらしい。さまざまな映画からの引用もまたタランティーノ映画にはおなじみだ。
その引用、とても僕には全部は分からなかったが、パンフレットによれば、「ナチスやアメリカの戦意高揚映画、お洒落な40年代ハリウッドのラブコメ、60年代の男臭いアメリカ製戦争映画、血みどろのマカロニ・ウエスタン」などなどが入っているそうである。「暁の7人」や「追想」に影響を受けたシーンもあるとか。しかし、それがどうした、と思う。そういう過去の映画を引用しても、面白い映画にならなければ仕方がない。キャラクターや展開の奇抜さだけでは映画はもたないのだ。ダラダラが唯一、効果を上げたのはレストランでの銃撃シーンぐらいか。ここはダラダラと銃撃のすさまじさの対比が面白かった。
一人の女のナチスへの復讐という部分に関してはポール・バーホーベン「ブラックブック」に完璧に負けている。タランティーノ、次は完全オリジナルの映画を目指してはどうだろうか。ヒロインのメラニー・ロランは若い頃のカトリーヌ・ドヌーブを思わせて良かった。
2009/11/11(水)「スペル」
サム・ライミ監督が「死霊のはらわた」の原点に返って作ったホラー。描写が大げさすぎて極端すぎて笑ってしまうのがホントに「死霊のはらわた」(というかそのリメイクみたいな「死霊のはらわたII」)と同じである。あきれて笑ってしまうのだけれど、これは明らかに狙ってやっていることで、失笑や嘲笑とは違う、まともな(?)笑いだ。ライミの持ち味は基本的にカラッとしているので少しも怖くはなく、恐怖と笑いというよりはショック演出と笑いにあふれたエンタテインメント。主演のコケティッシュなアリソン・ローマンが恐怖にさらされた後に反撃に出る展開が真っ当で、墓場での老婆の死体とのスラップスティックな騒動などおかしくていい。この結末では続編は無理だろうが、ライミの同じタイプのホラーをまた見たくなるような快作。
銀行の融資係クリスティン(アリソン・ローマン)がある日、老婆(ローナ・レイヴァー)にローンの返済延長を断ったのが恐怖の始まり。次長への昇進を狙っていたクリスティンはライバルのスチュ(レジー・リー)に負けたくなくて、すがる老婆を冷たくあしらう。しかし、満場で恥をかかされたと怒った老婆は駐車場でクリスティンを待ち伏せ、壮絶な格闘の後、クリスティンのコートのボタンを引きちぎって呪いをかける。それからクリスティンの周囲に恐怖の出来事が起こり始める。霊視者のラム・ジャス(ディリープ・ラオ)によれば、老婆がかけた呪いは悪霊のラミアを呼ぶもので、ラミアは3日間、クリスティンを苦しませた後、地獄に引きずり込んで魂を奪うのだという。ラム・ジャスの手には負えないため同じく霊能力者のショーン・サン・ディナ(アドリアナ・バラッザ)の力を借りるが、屋敷で開いた降霊会でラミアは強力なパワーを見せつける。
パンフレットによれば、ラミアは元々、ギリシャ神話に登場する下半身が蛇の子供を食らう魔物。映画ではヤギのような影を見せるが、ちゃんとした姿は見せないまま。魔物や悪霊というより悪魔を思わせる存在になっている。普通の人間が悪魔に勝てるわけはなく、何とか逃れようとするクリスティンはクライマックス、死んだ老婆の墓をあばいて、呪いのかけられたボタンを老婆に押しつけようとするのだ。
笑いが生まれるのはオーバーな表現にあり、クリスティンと凄まじい格闘をした老婆の目玉が飛び出たり、口から緑色の液体をドバっとかけたりと、アホなスプラッタ映画とは違うライミ独自の描写がとても面白い。ライミ自身が楽しんで作っている感じがありあり。久しぶりに帰って来たホームグラウンドで好きなように撮っていることが楽しさの理由なのだろう。脚本のアイヴァン・ライミは実兄で、この脚本自体は10年前に書かれたものだそうだ。ライミ、来年には「死霊のはらわた」をリメイクするらしい。恐らくVFXをパワーアップさせてのリメイクだろうが、この笑いの感覚を忘れなければ、期待できるのではないか。