2008/01/05(土)「ツォツィ」
2時間ぐらいあるのかと思ったら、1時間半で終わる。2006年アカデミー外国語映画賞受賞。南アフリカの不良少年が盗んだ車に赤ん坊がいたことから、決定的な変化を迎えることになる。きっちりとまとまった佳作。ただし、2007年の外国語映画賞「善き人のためのソナタ」には遠く及ばない。
2008/01/05(土)「長江哀歌」
2006年ベネチア映画祭の金獅子賞受賞作。三峡ダムの建設計画によって沈みゆく古都奉節を舞台に16年前に別れた妻子を捜す男と2年間音沙汰がない夫を捜す女の物語が描かれる。監督のジャ・ジャンクーはチェン・カイコー「黄色い大地」を見て映画を志したという。その影響は随所に見られ、ドラマティックさを排除したような淡々とした物語となっている。奇妙な形の建物がロケットのように飛び立ったり、壊れかけたビルにいる男女の遠景にビルが壊れるショットを入れるところなどは監督の映像的な遊び心か。
現代中国の風俗は興味深く、携帯があんなに普及しているとは思わなかった。壊れゆくビルと人々の豊かとは言えない生活の光景が微妙な感情を引き起こす。三峡の美しい風景をとらえた点もこの映画の評価すべきところなのだろうが、風景を生かすならばもっときれいなフィルムにしてほしいところだ。
2007/12/29(土)「AVP2 エイリアンズ VS. プレデター」
なぜエイリアンだけ複数形なのかと思ったら、地球で繁殖したエイリアン退治をするのが一人のプレデターなのだった。前作同様、B級の企画をB級のストーリーとB級のキャストで描くという、どこを切ってもB級の映画。前作には「エイリアン2」のアンドロイド役ランス・ヘンリクセンが出ていてまだシリーズとのわずかなつながりが見られたが、今回はまるっきり無名キャストだし、話のつながりも皆無だ。要するにエイリアンとプレデターを戦わせるだけの映画。
プレデターの宇宙船の中でエイリアンが繁殖し、宇宙船はアメリカのガニソン郡の森の中に不時着する。近くに来た親子をエイリアンの幼虫(フェイス・ハガーと言う)が襲い、顔に張り付く。当然のことながら親子の腹を突き破って幼虫が出てくる。一方、プレデターの故郷の星では宇宙船に異変が起こったことを知り、一人のプレデターが地球にやってくる。エイリアンとそれを追うプレデターによって町の人々は次々に虐殺されていく。
というのがプロット。プレデターの腹を突き破って出て来たエイリアンはプレデリアンと言うらしいが、別に双方の特徴を持っているだけでSF的なアイデアの発展はない。決着の付け方も乱暴。一緒に見た長男は「『バイオハザード2』のパクリじゃないの」と言った。まあ、そんなところです。出てくる俳優たちも今ひとつ魅力に欠ける。一人ぐらいベテラン俳優を出しておけば、話も引き締まったのではないかと思う。というか、B級俳優でもいいから、話をもっと工夫していれば、もう少し面白い映画になっていただろう。
企画段階で「これぐらいのストーリーでいいよね」「いいんじゃないの」といういい加減さがあったのではないかと思える映画である。監督はこれが長編映画デビューのグレッグ&コリン・ストラウス兄弟。
2007/12/24(月)「アイ・アム・レジェンド」
リチャード・マシスン原作の3度目の映画化。ウィルスの蔓延で地球に一人生き残った男の孤独と戦いの日々を描く。
最初の映画化である1964年の「地球最後の男」(ウバルド・ラゴーナ、シドニー・サルコウ監督、ビンセント・プライス主演)はジョージ・A・ロメロの傑作「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の原型となったことで有名だ。闇にうごめくゾンビたちの姿と虚無感・絶望感あふれる作りは「ナイト・オブ…」のそれと非常によく似ている。
今回の映画にあるのは主人公の絶対的な寂寥感と廃墟となったニューヨークの優れたビジュアル、そしてホラーの味わい。特に寂寥感とビジュアルな部分が大変良い。主人公ウィル・スミスは孤独に苛まれながらも「闇を照らす」ためにワクチンの研究に打ち込む。64年版では「アイ・アム・レジェンド」の意味が終盤に分かって、それはそれで皮肉な効果をもたらしていたが、今回は意味を違え、よりストレートな作りになっている。希望があるのである。旧作を見ている観客を意識したと思える部分が終盤にあり、脚本のマーク・プロストビッチ、アキバ・ゴールズマンは良い仕事をしていると思う。ビジュアルな部分はフランシス・ローレンス監督の資質が良い方向に出た結果だろう。第2班(アクション・ユニット)監督のヴィク・アームストロングもいつものように優れた仕事をしていて、切れ味のあるアクション場面を演出している。これにスミスの好演とジェームズ・ニュートン・ハワードの哀切な音楽とが相まって、破滅SFとしてきちんとまとまった作品に仕上がった。チャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男 オメガマン」(1971年)を含めて同じ原作3本の映画のうち、今回が最も良い出来だと思う。
がんの特効薬が発明され、人類はついにがんを克服したというニュースが流れる。その3年後、ニューヨークは廃墟と化していた。主人公の科学者ロバート・ネビル(ウィル・スミス)は都会のど真ん中で愛犬サムとともに車を走らせ、鹿狩りを楽しむ。他の人間は皆、がんの特効薬から派生したウィルスの蔓延で死んでしまった。ネビルには免疫があり、生き残ったのだ。ネビルはもしかしたらどこかに生き残っているかもしれない人間に対して全周波数で「You are not alone」と呼びかける。そして厳重に戸締まりをして眠れない夜を過ごす。ウィルスで凶暴に変異したダーク・シーカーズ(闇の住人)の襲撃に備えるためだ。同時にネビルはネズミや捕らえたダーク・シーカーズを使ってワクチンの研究を続けているが、失敗の連続。ようやく効果があると思われるワクチンを開発するが、ダーク・シーカーズの罠に落ちてしまう。
ウィルスの蔓延で世界が破滅するという話は大昔からあり、ゾンビたちがうごめく世界というのも全然珍しくはないが、この映画を同種の映画から際だたせているのはビジュアル面の優秀さだ。パンフレットによれば、実際にニューヨークの一部の区画を封鎖して200日間にわたって撮影したという。人っ子一人いないニューヨークの荒んだ光景は主人公の寂寥感を強調するのに大きな効果を上げている。
フランシス・ローレンスは前作「コンスタンティン」ではスタイリッシュなビジュアル部分には感心したものの、必ずしもストーリーテリングがうまくいっているとは思えなかった。今回はビジュアル、物語とも破綻がない。ウィル・スミスは考えてみると、SF映画への出演が多い俳優だ。「アイ、ロボット」も良い出来だった。
2007/12/16(日)「題名のない子守唄」
ジュゼッペ・トルナトーレが描きたかったのは終盤の展開なのだろう。ここを描くのが中心なら、もう少し効果的な手法があると思う。無理にサスペンス調にする必要はなかったし、ヒッチコックをまねたタッチ(ヒロインが使うのはハサミだし、舞台はらせん階段のあるマンションだ)が目立ちすぎるのは大きなマイナスだ。エンニオ・モリコーネの音楽もヒッチコック映画でおなじみのバーナード・ハーマン調だから、余計にそう感じる。
序盤からヒロインが何のためにある家族に接近しようとしているのかまったく説明されないのはサスペンス映画として悪くはないのだけれど、この部分を引っ張りすぎている。ヒッチコックならこんなに長く謎を謎のままにはしていないだろう。あまり長いと、途中で飽きてくる。このテーマを描くのにこの手法は間違っていたとしか思えない。手法とテーマが乖離しているのである。
僕は「ニュー・シネマ・パラダイス」からトルナトーレは一流になりきれない監督だなと感じている。偽物感がつきまとって仕方がない。きっと、トルナトーレ、この映画を撮る際にいつも同じ手法では面白くないからと思い、サスペンスタッチを取り入れたのだろう。ヒッチコックタッチが目に付くのはそれなりにヒッチコックの映画を勉強しているからだと思う。しかし、それなら結末も含めてきっちりとしたサスペンスを作って欲しいものだ。この人、「ニュー・シネマ・パラダイス」が評価されすぎで、本来は二流の力しかないのではないか。