2014/11/03(月)「レッド・ドーン」

 ジョン・ミリアス監督「若き勇者たち」(1984年)のリメイク。たとえ設定にリアリティーがゼロであっても、アクション映画として面白ければかまわないのだが、アクションシーンに工夫がない。ありきたり。となると、救いようがない。クリス・ヘムズワースが出るべき作品でもない。

 元々は中国が侵攻する設定だったのを興行上の理由から北朝鮮に変えたのだそうだ。日本に侵攻するならまだ話は分かる(韓国ならもっと分かる)けれど、遠いアメリカまで行きますかね。

2014/11/02(日)「消えた画 クメール・ルージュの真実」

 カンヌ映画祭「ある視点」部門最優秀賞受賞。インドネシアでは政府が共産主義者を100万人虐殺したが、カンボジアでは共産主義政府が数百万人の市民を虐殺と飢え、病気で死に至らしめた。監督のリティ・パニュはその現場にいた。

 映画は死者が埋まった田んぼの土と水で作った土人形とクメール・ルージュの記録フィルムを使い、地獄のようなポル・ポト政権下のカンボジアを描き出す。国全体が強制労働収容所と化した中で、何が起こったのか。記録されていない人々(消えた画)を土人形によって再現するのがこの映画の狙いだったようだ。

 飢えのため夜中に塩を食べて死ぬ少女や、ジャングルからマンゴーを持ち帰ったため実の息子から告発され、軍に殺される母親のエピソードなどが積み重ねられる。しかし土人形では迫真性を欠くと思う。絶望や恐怖が伝わりにくいのだ。はっきり言って、土人形で描かれるエピソードよりも、白黒の記録フィルムの方が悪夢だ。全員が同じ黒い服を着せられ、荒れ地を耕す光景。当時は宣伝映画として撮ったのだろうが、ぞっとするような光景だ。拍手をしながら、にこやかに兵士の前に姿を現すポル・ポトの姿は民衆の苦しみなど、どこ吹く風の風情だ。

 残念ながら、この映画だけでカンボジアの虐殺の真実は分からない。監督にとっては自明のことでも、ポル・ポト政権が倒れて35年たった現在、若い観客の多くには伝わらないだろう。そもそもの原因がベトナム戦争にあったことさえ、この映画だけでは分からない。全体主義は怖い。一党独裁は危険だ。そんな感情がわき起こるだけでいいわけはないだろう。ただ、この映画によってカンボジア虐殺を知るきっかけにはなるかもしれない。

 リティ・パニュはカンボジアの虐殺をテーマに映画を撮り続けている監督だが、日本の劇場で一般公開されるのはこの作品が初めて。一部ではこれに合わせてドキュメンタリーの「S21 クメール・ルージュの虐殺者たち」など高い評価を得ている他の作品も特集上映された。他の作品も見てみたいものだと思う。

2014/11/01(土)「キャプテン・フィリップス」

 ソマリアの海賊VS.アメリカ海軍。圧倒的な力の差があるわけだから海賊が勝てるわけがない。もちろん海賊行為が良いわけはないが、見ていて「そんなに弱い者いじめしなくても」という気分になってくる。アメリカ人1人の命を救うためとはいえ、この描き方ではソマリア人の命が軽すぎるのだ。

 「ユナイテッド93」や「グリーン・ゾーン」などポール・グリーングラス監督の映画に共通するのはサスペンスの確かな演出力の割に、事件に対する思慮が浅いところでとどまっていること。これではプロパガンダ映画に収まってしまうと思えるのだ。というか非常に良く出来たプロパガンダ映画として作っているのではないかと思う。

2014/10/27(月)「キャリー」(2013年)

 教室の中でキャリーとトミーの両方にピントを合わせたパンフォーカスやクライマックスのスプリット・スクリーンなどギミックに満ちたデ・パルマ版に比べると、映像が普通すぎる。ジュリアン・ムーアとクロエ・グレース・モレッツの親子は旧作のパイパー・ローリー&シシー・スペイセクに比べてネームバリューで負けているわけではない(むしろはるかに勝っている)が、適役とは言えないだろう。

 その周囲の俳優たちもどうにも物足りない。なんせ、旧作はジョン・トラボルタ、ナンシー・アレン、ウィリアム・カット、エイミー・アーヴィングという直後からスターになっていった俳優たちが共演していたのだから比較にならないのだ。なにより見劣りするのは音楽でピノ・ドナジオの音楽がいかに素晴らしかったかを痛感させられる。

 キンバリー・ピアース監督なら女性の視点で物語を語り直せるかと少しだけ期待していたが、そんな部分もなく旧作をなぞるだけに終わったのは大いに残念。リメイクの意味がさっぱり見えてこない出来だった。

2014/10/26(日)「蜩ノ記」

 葉室麟の原作で最も心を動かされたのは不当に10年後の切腹を命じられた戸田秋谷ではない。飲んだくれで怠け者の父親に代わって、母親と幼い妹・お春の暮らしを支えるために懸命に働く源吉の姿だ。源吉は、秋谷の息子で10歳の息子郁太郎と同じ年頃の農家の少年。不作で年貢が重いとこぼす大人たちをよそに、屈託なくこう言う。

 「おれは早くおとなになって、一所懸命働いて、田圃増やしてえ、と思うちょる。そしたら、藺草も作れるようになる。安く買われるって言うけんど、藺草は銭になる。そうすりゃ、おかあに楽をさせてやれるし、お春にいい着物も買うてやれる。おれはそげんしてえから、不作だの年貢が重いだの言ってる暇はねえんだ」

 友人である郁太郎を大事にし、ダメな父親であっても他人が悪口を言うことを許さず、貧しい生活の中でも源吉はまっすぐに生きている。

 映画はこの源吉のエピソードが少ないのが大きな不満だ。もちろん、2時間余りの上映時間で原作のすべてを入れ込むのは無理だが、秋谷の理想的な武士の生き方と農民である源吉の生き方を対比するのは原作のポイントでもあるのだ。それを考慮していないのは脚本の計算ミスだろう。源吉の境遇と郁太郎との友情を十分に描かないと、クライマックスが盛り上がらない。

 小泉堯史監督は春夏秋冬の美しい風景を撮り、ドラマを組み立てているが、それだけで終わった観がある。可もなく不可もなしのレベル。どんなに丁寧に撮っても、映画が傑作になるとは限らないのだ。