2014/09/23(火)「エリジウム」
どう考えても、エリジウムという宇宙都市の構造には無理がある。この都市、宇宙空間に浮かぶのに密閉されていない。回転による遠心力で1Gの疑似重力を発生させ、空気をとどめておこうとすると、相当な規模が必要になる。地球の大気圏(1000キロ以上)ほどの規模があるなら大丈夫だろうが、この都市の大気圏は数百メートルぐらいしかなさそうだ。それに何らかの事故によって回転が止まってしまうと、空気がなくなるのは避けられない。どころか、人間も物も宇宙空間に放り出されてしまう。そんな危うい構造では安心して住んでいられないだろう。
富裕層と貧困層が明確に区別された世界というのは1%の富裕層が99%の富を手にしているというアメリカ社会を反映しているのだろうが、基本設定に無理があるので、現実批判にまで結びついていない。ドラマもあまり盛り上がらず、珍しい悪役のジョディ・フォスターは簡単に消える。もう少し脚本を練り上げる必要があったと思う。
2014/09/21(日)「柘榴坂の仇討」
原作は浅田次郎の短編集「五郎治殿御始末」に収められた同名作品。映画を見た後に読んだら、5つの場面で構成され、38ページしかない。映画と同じ冒頭の長屋のシーンと回想の桜田門外の変の場面、主人公の志村金吾(中井貴一)が司法省の秋元警部(藤竜也)宅を訪ねる場面、柘榴坂での対決とその後の場面の5つである。浅田次郎作品の中でこの短編が特に優れているわけではなく、泣けるわけでもなく、これがなぜ映画化されたのかよく分からなかったが、公式サイトを見ると、「男たちの矜持を映画にしたい」というプロデューサーの好みによるようだ。
それはそれとして、原作だけでは長編映画にはならないので脚本はそれを大きく膨らませている。登場人物を増やし、エピソードを加え、金吾とその妻セツ(広末涼子)の長屋での貧しい暮らしを描く。映画が付け加えたエピソードで良いのは中盤、金貸しに返済を迫られた元侍を助けようとした金吾に周囲の町民が次々と元武士であることを名乗り出て手助けしようとする場面だ。明治維新後の廃藩置県で180万人の武士たちは野に下ったが、武士の気概をなくしたわけではないことを象徴している。
主人公の金吾は剣の達人で井伊直弼の警護を担当していたが、桜田門外の変で奪われた槍を取り返しに行っている間に井伊は殺されてしまう。両親が自害したために切腹も許されず、逃亡した犯人たちの一人を討つことを命じられ、13年間、犯人の姿を追い求めることになる。若松節朗監督の「ホワイトアウト」「沈まぬ太陽」はいずれも信念を曲げない男を描いていた。この映画の主人公もそういうタイプであり、愚直な生き方を貫いている。
しかし個人的に映画で最も心を動かされたのは「ひたむきに生きる」主人公ではなく、人力車夫の直吉(阿部寛)が同じ長屋に住むマサ(真飛聖)に言うセリフだ。
「今度、おちよ坊を(俥に)乗っけて、湯島天神の縁日にでも行きやせんか」
直吉は桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した18人の刺客の1人。事件後に逃亡し、本名の佐橋十兵衛から名前を変え、人力車を引きながらひっそりと暮らしている。マサは出戻りで幼い娘のチヨと暮らす。チヨがなついている直吉に密かに思いを寄せているが、「出戻りの女なんて相手にされるはずがない」と思い込んでいる。このセリフはそんなマサを思っての言葉であるだけでなく、桜田門外の変後、ほとんど人生を捨てていた直吉が再び生きようとする決意が表れたセリフでもあるのだ。飾らない阿部寛のたたずまいが実に良く、13年間の直吉の逃亡生活をもっと見たくなる。
雪が降りしきる桜田門外の場面など映画の描写やエピソードはどれも悪くはない。ただ、全体的にもっと細やかな情感が欲しいところだ。正直な映画化で大きく減点すべき部分はないのだけれど、十分に満足できたわけでもないのだ。
2014/09/14(日)「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」
派手なVFXがてんこ盛りだが、素性はB級作品。スペースオペラは本来がB級SFなので、当たり前と言えば当たり前か。物語はお宝の争奪戦というありふれたものだし、主役のピーター・クイルを演じるクリス・プラットは単なる肉体派でスター性があるとは言えない。VFXの出来も「スター・ウォーズ」や「アバター」などに比べると、驚くような部分はない。ジェームズ・ガン監督の演出もA級作品が備えるような格調の高さなんて微塵もなく、際立った部分は見当たらない。
しかし、B級であっても楽しめる作品は多くて、これもそんな1本になっている。特にアライグマのロケットと樹木型ヒューマノイドのグルートのコンビがC-3POとR2-D2を思わせるおかしさで楽しい。グルートは「私はグルート」としか話さないが、それでもロケットに意思が通じているところなんて3POとR2コンビそのままだ。予告編を見たときにはこんなメンバーで大丈夫かと思ったが、映画はこのコンビが強力に支えている。
「史上最もヒーローらしくないヒーロー」たちの冒険を描くこの映画にとってB級風味が漂うことは少しもデメリットにはなっていない。欠点だらけだけど愛すべきキャラクターたちの活躍する映画は大衆性を備える。ドラマティックな悲壮感も大上段に振りかぶった部分もない気楽に見られる映画であり、それが逆に好感度の高さにつながっている。
続編にはエンド・クレジットの後に出てきたマーベルのあのキャラクターも加わるんだろうか。
2014/09/11(木)「オーガストウォーズ」
2008年の南オセチア紛争(ロシア・グルジア戦争、8月戦争)を舞台に描くSF戦争アクション、というのは真っ赤な嘘。SFの部分は子供の空想に過ぎず、本筋はSFでもなんでもない。国境近くの戦場に取り残された子供を救いに行く母親の姿を描いている。
ロシア映画なのでもちろんロシア側視点でロシアの正当性を強調して作られている。なんせ、敵兵はすべてマスクをかぶっていて素顔が見えないのだ。敵を人間として描くことを放棄しているわけだ。話自体にもリアリティがない。
それ以上に数年前に起きた実際の戦争をこんな風に描くのはどうも釈然としない。グルジアの人たちがこの映画を見たら、「いい気なもんだ」と怒るのではないか。きっと数年後にはウクライナのクリミア危機を舞台にした映画が作られるのでしょう。
2014/09/10(水)「LUCY ルーシー」
使っていない脳の領域を覚醒させたら、ああいう超能力が使えるようになるという設定にリアリティーがないし、その引き金になるのが組織の作ったドラッグというのも説得力を欠く。だいたい、あんなチンケな組織をやっつけるのに能力を100%覚醒させる必要はないだろう。超能力の無駄遣いもはなはだしい。
リュック・ベッソン、完全にSFの領域に踏み込んで映画を作るのは自信がなかったのだろう。だから手慣れた題材にSF風味を取り入れてみましたという感じの映画にしかならない。組織の凶悪なボス、チェ・ミンシクの役柄と役作りは明らかに「レオン」のゲイリー・オールドマンを踏襲している。
89分という短い上映時間なのに長く感じるのはアイデアと展開のさせ方に工夫が足りないからだ。安全パイで造ったら、いいところなく失敗した例と言える。まあ、それでもスカーレット・ヨハンソンの魅力を十分に見せてくれれば良かったのだけれど、能力が覚醒してからのヨハンソンは表情が消えてしまい、あまり魅力がないのが残念だ。