2013/06/03(月)「リアル 完全なる首長竜の日」
序盤の描写は佐藤健と綾瀬はるかの甘いラブロマンス映画を予想して見に来た観客に豪快な背負い投げを食らわせる。デートムービーに選ぼうものなら、彼女から恨まれること必定。しかし、素晴らしい。黒沢清監督の過去の某作品を思わせる描写の在り方だ。黒沢清の描写力は一流だなと思う。
中盤は、これは原作の力なのだろうが、「ほーっ」と感心させられる。こういう展開、過去の映画にもあるんですけどね、それでもこれは感心せざるを得ない。ところが、残念ながら終盤の展開が序盤、中盤のかなりの出来の良さに比べれば極めて普通だった。首長竜のCGの良さを考慮しても、もっとエモーションをかき立てるような展開にした方が良かったと思う。でも、見て損はない映画であり、一切の予備知識なしに見るべき映画だと思う。
この映画のパンフレットは「映画鑑賞後にお読みください」と中ほどに封印がある。その封印の中にある塩田明彦監督の批評が的確。そうそう、そうだと納得させられる。しかし納得はしても、やはり終盤が惜しいという気持ちに変わりはない。これ、ミステリとしての解決ではなく、SFとして終わった方が良かったのだ。ああそういうわけですか、と理に落ちてしまうと、面白くない。黒沢清監督は首長竜を実際に出すことで、それに抵抗しようとしているが、広がった話が縮小してしまう感じは拭いきれていない。以下、ネタバレはしませんが、内容に触れるので「映画鑑賞後にお読みください」。
「どうしてかな……生まれたときからずっとこうやって一緒にくらしているみたいな気がする」
「これからだってずっとそうだよ」
映画は藤田浩市(佐藤健)と和淳美(かず・あつみ=綾瀬はるか)の幸福な場面で幕を開ける。1年後、淳美は自殺未遂で昏睡状態になっていた。浩市は自殺未遂の真相を探るため、先端医療センターでセンシングという技術を使い、淳美の意識の中に入っていく。というのが予告編で描かれた内容だ。
センシングは脳波を増幅して相互に伝え合い、仮想現実の中でコミュニケーションを図る技術。センシングを行った後、浩市の周辺には仮想現実に出てきたものが現れてくる。現実を仮想現実が侵蝕してくるわけだ。ここで思い出さずにはいられないのが、幽霊が侵蝕してきて現実世界が崩壊していく黒沢清の「回路」(2001年)。あの傑作ホラーSF、破滅SFのような展開を期待してしまうのも仕方がない。
映画に登場するフィロソフィカル・ゾンビは表面だけの記号のような存在として乾緑郎の原作では描かれているそうだが、黒沢清はこれをかなり不気味に描いている。これについて黒沢清はパンフレットのインタビューでこう語っている。
「ゾンビ」という名称に引きずられて、知らず知らず「よみがえった死体」、つまりリビング・デッドを出してしまいました。それに、死体がよみがえって動き出すという描写は一度やってみたかったし(笑)。これは、「ゾンビ」という言葉に反応した僕の、一種でたらめな暴走です(笑)。
こういう暴走は大好きだ。原作の70%ぐらいは脚色で変更が加えられているらしい。スタニワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」も意識したというこの脚色は成功している。中盤の大きな仕掛けまでは傑作、という思いは揺らがない。だから、かえすがえすも終盤の展開が惜しい。ここも徹底的に改変してしまえば良かったのにと思わざるを得ない。
「贖罪」の小泉今日子が主人公の母親役でゲスト出演的な登場をしている。オダギリジョーや染谷将太、中谷美紀らの助演陣も良かった。
2013/05/26(日)「セデック・バレ」
長いけど平凡。いや、長くて平凡か。「第1部 太陽旗」2時間23分、「第2部 虹の橋」2時間11分。合わせて4時間34分もある。平凡に感じるのは語り方が単調なためで、「霧社事件」という題材はとても良かったのに惜しい。3時間ぐらいにぎゅっと凝縮した方が良かったと思う。
霧社事件は1930年、日本統治下の台湾で起きた抗日暴動事件。原住民族であるセデック族の戦士300人が駐在所を襲撃し、運動会に参加していた134人の日本人を殺害した。セデック族は敵を殺し、首を刈ると勇者として認められる。だから霧社事件も血を捧げる儀式としてとらえている。問題は事件に至るセデック族側の気持ちが十分に描かれないこと。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は一応描かれるが、具体的に耐えがたきを耐え、爆発せざるを得なかった内容をもっと詳細に描いた方が良かっただろう。そうしないと、女子供まで殺したことに説得力がない。
霧社事件後の日本軍によるセデック族制圧を描く描く第2部はほとんど戦争アクションの趣。映画を観ながら「ラスト・オブ・モヒカン」を思い浮かべたが、当然のことながら、ウェイ・ダーションはマイケル・マンの演出力には及んでいない。
もしかしたら、興行上の配慮をした結果なのではないか、と勘ぐりたくなるぐらい日本人が極悪非道には描かれていない。だから、第1部のクライマックス、セデック族の300人の戦士が駐在所と運動会を襲うシーンに説得力がない。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は描かれるが、それが女子供を含む134人を殺す理由としては機能していないのだ。1部、2部合わせて4時間半余りの映画の根幹を成す部分だから、これはきちんと描くべきだった。もちろん、他の国の領土を勝手に支配し、「理蕃政策」などと称して文明化を進めることは大きなお節介であり、原住民に反感が高まっていたであろうことは容易に推測できるが、それを通り一遍ではなく、観客に十分に共感を持たせる形で描くべきだった。
セデック族が女子供まで殺したのはなぜか。映画はセデック族に「通報させないために皆殺しにする」と理由を言わせている。脚本家が頭で考えた幼稚な理由づけと言うほかない。日本人が大量に虐殺されて、それがセデック族の住む地域であったら、誰の犯行か分からないなんてことがあるわけがない。女子供まで殺したのは日本人が排除すべき、憎むべき敵であったからにほかならないだろう。だから憎しみが爆発する過程を丁寧に描くべきだったのだ。日本軍による制圧作戦が展開される第2部は特に戦争アクションと言って良いぐらいに殺戮シーンに終始する。どんなにアクションをうまく撮ろうが、そのアクションを引き起こす要因を描かなくては空しいだけだ。
「霧社事件」について僕は何も知らなかったし、ウェイ・ダーション監督がこの題材を取り上げたことは称賛に値する。だが、それだけで終わってしまった。日本人を徹底的に悪く描いていて、そのことでもし、日本での興行成績が振るわなかったにしても、それは映画の本質的な価値を少しも貶めるものではない。セデック族がなぜ蜂起しなければならなかったのかを詳細に描くことこそが亡くなった蜂起して死んだセデック族ばかりでなく、殺された日本人にも報いることになったはずだと思う。
ある文化が別の文化に接触する時、そこには必ず摩擦が起きる。霧社事件の本質的な原因はそこにあると僕は思う。
2013/05/10(金)「野獣の青春」
懐疑的な目で見始めたら、途中から引き込まれた。鈴木清順独特の演出は所々に見られるが、それは映画を効果的に語るために使われ、それだけが浮き上がっていないのが良い。ジャンルアクションの傑作と思う。
「血の収穫」+「さらば愛しき女よ」風のストーリーをハードボイルド調にまとめてある。二枚目半になる前の宍戸錠の演技を堪能でき、小林昭二、金子信雄、信欣三、渡辺美佐子、郷鍈二ら一癖あるキャストがそろっている。原作は大藪春彦の「人狩り」。脚本は池田一朗(隆慶一郎)と山崎忠昭。問題は内容をまったく伝えないタイトルで、「野獣の街」などとすると良かったと思う(エルモア・レナードに同名の小説があるが)。
渡辺武信さんは「日活アクションの華麗な世界」の中で「日活アクションの世界の成熟と深まりを示した傑作」と評している。
2013/05/06(月)「人狼村 史上最悪の田舎」
2011年のスペイン映画だが、60年代のハマー・プロの作品を思わせる作り。シチェス映画祭作品賞ノミネートだそうだ。シチェスならでは。本筋に入るまで30分ほどかかるのが難だが、それからのブラックなユーモアがいい。主人公が指2本を失う展開が笑えた。
今時珍しい着ぐるみの狼男も慣れてくれば、気にならない。出だしはムムムと思ったが、結局、好感をもって見終えることができた。脚本もそれなりに工夫している。
2013/05/05(日)「セイビング・フェイス 魂の救済」
信じられないことにパキスタンでは夫や恋人から顔に硫酸をかけられる被害が年間100件以上あるそうだ。「セイビング・フェイス 魂の救済」は被害者の女性たちとそれを助ける医師、弁護士、議員らの活動を描き、昨年のアカデミー賞で短編ドキュメンタリー賞を受賞した。
顔の半分に硫酸をかけられ、失明どころか眼球をも失った女性が登場するなど痛切きわまりない映像がいくつもある。夫たちのほとんどが無罪放免となってきたのも信じられない。パキスタンは徹底した男尊女卑の国なのだろう。
それだけで終わっていたら、やりきれないところだが、映画のラストには大きな希望と喜びがある。被害を受けてきた女性たちがこれで救われるわけではないけれど、こうした卑劣な犯罪は今後、抑止されていくに違いない。