2001/08/18(土)「千と千尋の神隠し」

 傑作の多い宮崎駿の映画の中でも1、2を争う完成度と思う。完璧なものを見せられた、という感が強い。

 10歳の少女千尋が引っ越しの途中、両親と一緒に異世界に迷い込む。両親は無断で料理をガツガツと食ったために豚になる。働く意志のない者は排除される世界。人間はいず、魔物が跋扈する。千尋は恐ろしい世界に立ちすくむが、ハクという名の少年に助けられ、八百万の神たちが休息に訪れる風呂屋「油屋」で働くことになる。油屋を支配するのは魔女・湯婆婆。千尋の両親を豚に変えたのも湯婆婆だった。何もできなかった千尋は懸命に働き、やがて周囲の理解を得るようになる。

 宮崎駿は硬派の人だから、この映画にも至る所に現実世界のメタファーが入り込む。千尋の父親が異世界の風景を見て「90年のバブル崩壊で潰れたテーマパークの一つ」と断じる場面からしてそうである。両親の庇護を離れた少女はどうするか。どうすればいいのか。宮崎駿はさまざまなメタファーを織り込みながら、それを描いている。

 ファンタジーは閉じた世界を描く手法であり、豚になった両親の救出と異世界からの脱出を描くこの映画もまたきれいに閉じた世界を描いている。完成度が高いのはこのプロットが分かり易いからでもある。物語の決着をどこにもっていくか迷いが見られた前作「もののけ姫」よりも数段優れた映画になったのはそうしたことも要因と思う。しかし、それだけではない。カオナシ、クサレ神、湯婆婆といった登場人物に代表されるイマジネーションの豊かさ、細部の作りの豊かさにはうならされてしまうのだ。

 千尋というキャラクターは普通の少女のようでいて、実はコナンやルパンやナウシカの血を継ぐ宮崎駿ならではの魅力を持ったキャラクターだ。油屋の外にある階段を転げ落ちるようにして駆け下りる千尋の描写は「ルパン三世 カリオストロの城」のルパンを彷彿させる。その懸命な生き方、悪に染まらないまっすぐな心を見ると、胸が熱くなる。

 この映画には絶対的な悪は登場しない。登場人物はその環境によって悪にも善にもなりうる存在として描かれている。その意味でエコロジーの先駆けとなった「風の谷のナウシカ」に通じる作品でもあると思う。傑作にして、既に名作。必見。

2001/07/15(日)「デジモンテイマーズ 冒険者たちの戦い」

 東映アニメフェア。「もーっと!おじゃ魔女どれみ カエル石の秘密」「キン肉マンII世」との3本立て。「キン肉マンII世」「おじゃ魔女どれみ」とも30分足らずの短編だが、どちらもCGを使っている。コスト的に安くなったんでしょうね。メインの「デジモンテイマーズ」にもこれは言え、作画的には申し分ない。というより、大変優れていると思う。デジモンの世界を僕はよく知らないが、今の主人公タカトは3人目らしい。夏休みに沖縄に行ったタカトが人類への復讐を企む悪のデジモン相手に戦いを繰り広げる。どうもこのシリーズ、毎回同じような話ではある。サイバースペースが舞台なのにちっともSFを感じないのが欠点か。

 春のアニメフェアで「ワンピース ねじまき島の冒険」の添え物だった「デジモン」がメインにならざるを得ないところに東映の苦しさがある。来春のアニメフェアはまた「ワンピース」「デジモン」の組み合わせらしい。「ワンピース」は年1回、「デジモン」は2回というのは「デジモン」の人気が「ワンピース」に勝っているわけではなく、単に製作上の制約でしょう。短期間で作ったにしては「デジモン」、頑張っていると思う。

2001/06/05(火)「日本の黒い夏 冤罪」

 松本サリン事件のマスコミ報道と警察の捜査を批判した熊井啓監督作品。訴えていることは十分まともなのだが、パッケージングが古い。熊井啓は正直な作風だから、こういう展開、作り方になるのだと思う。現代にアピールするタッチに変える必要があると思う。昭和30年代の映画といわれてもそのまま通るような劇伴(この言葉通じないか)、セリフ回しである。

 優等生的視点から「ここが悪かった」と言われても、「はあ、そうですか」と答えるしかない。高校生を狂言回しにするあたりがいかにもという感じ。これは高校生に対して「まだ純粋」という幻想を抱いている証拠である。

 視聴率アップが至上命題のテレビ局と部数拡大がそれの新聞社。加えてメンツにこだわる警察が生み出したまれにみる冤罪劇。夜回りは警察担当記者の使命だけれど、警察のお先棒かつぎになる危険がつきまとう。情報を得るためには警察幹部のご機嫌もうかがわなくてはならない。そのあたりにもう少し踏み込むと、厚みが増したと思う。

 映画の構造として報道に良心的なテレビ局を舞台にしたのはどうか。これはむしろ、被害者の立場から描いた方が説得力が得られたのではないか。

 急いで付け加えておくと、熊井啓のような社会派の監督は今の邦画界には貴重な存在である。エンタテインメントだけを志向していては、邦画は薄っぺらになると思う。次作も是非、社会派の題材で作れるよう期待したい。

2001/05/29(火)「ホタル」

 高倉健が映画の中で歌う「アリラン」の訳詞に作家の帚木蓬生が協力している。どうせなら脚本にも協力が欲しかったところだ。映画は特攻隊の生き残り高倉健とその妻田中裕子を中心に特攻隊の回想と現在(昭和から平成に変わる1989年の鹿児島)を織り交ぜて、初老の夫婦の日常を描くのだが、脚本の焦点がやや定まらない感じを受ける。

 特攻隊で亡くなった朝鮮人・金山少尉の存在が大きいのに、それをうまく生かしていない。というか設定に多少無理があるし、もっともっとここを中心に組み立てた話にした方が良かったと思う。設定の無理についてはキネマ旬報6月上旬号で韓国文化院長が指摘している。朝鮮の人が特攻隊に参加する理由として「朝鮮民族のため」と語るのは不自然なのである。なぜ特攻隊に参加することが朝鮮民族のためになるのかよく分からない。それなりの理由づけが必要だっただろう。

 日本軍に協力して戦死した朝鮮人1000人の遺骨を韓国政府は引き取っていないとか、映画は朝鮮半島と日本の関係をエピソードとしては紹介するのだけれど、どうも深く言及するのを差し控えたような印象がある。降旗康男は社会派の監督ではないし、やんわりとした描写はその持ち味でもあるのだが、せっかくの題材なのにもったいない。もっと鋭く、もっと深く描くべき題材だったように思う。

 高倉健が雪の中で鶴の真似をするシーンや韓国へ金山少尉の遺品を届けに行き、家の前で突っ立ったまま遺族と長々とやりとりをする場面などは違和感が残る。このほか細かい部分に不自然な描写があり、演出的にも緩んだ場面が散見される。田中裕子の病気の設定も僕には不要のように思えた。

 ただし、奈良岡朋子は凄かった。特攻隊員の面倒を見て長年“知覧の母”と言われた奈良岡朋子が自分の半生を振り返って「本当の母親なら息子を次々と特攻隊に送り出すはずがない」と泣いて悔やむシーンは圧倒的な演技と相俟って強い印象を残す。元々この映画、「知ってるつもり!?」で紹介された“知覧の母”が企画の始まりという。それならば、やはり戦争中の場面を中心にした方が良かっただろう。時代を1989年にしたのは高倉健の年齢的な制約によるものだが、そもそもこの時代設定に間違いがあったのではないか。

2001/05/05(土)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」

 このシリーズほどテレビシリーズとギャップがある映画は珍しい、という趣旨のことは以前書いたような気がする。繰り返すと、テレビは日常ギャグ漫画、映画の方はSFなのである。なぜ、こうなるかというと、長編化する場合に冒険的な要素が入ってくるからで、子供の冒険というのは古今東西のジュブナイルの名作を見てもらえば分かるようにたいていSFなんである。もちろん、映画の作者たちは意図的にSFをやっている。そしてこれが重要だが、SF的設定に外れがないのである。

 今回の設定はノスタルジーマシーンとでもいうべきもの。しんのすけ一家は1970年の大阪万博に来ている。そこに怪獣が現れ、パビリオンを破壊。しんのすけの父親ヒロシはスーパーヒーロー“ヒロシSUN”に変身し、怪獣を倒す。何かと思ったら、これはビデオの撮影で、最近、「20世紀博」という大人を対象にしたテーマパーク(?)が流行っているのである。大人は70年代の日本を懐かしみ、夢中になっている。

 しかし、この「20世紀博」には陰謀があった。大人たちを洗脳し、20世紀のままの日本で生活させようとしていたのだ。町の大人たちは「ハメルンの笛吹き」の子供たちのように「20世紀博」に連れ去られてしまう。しんのすけたち「カスカベ防衛軍」は大人を連れ戻そうとするが、洗脳された大人たちは攻撃を仕掛けてくる。

 「20世紀博」の首謀者(ケンちゃんとチャコちゃん!)は21世紀がくだらない世の中なので、まだ21世紀に夢や希望を持てた20世紀に帰ろうとしているのだった。もちろん、最後にはしんのすけたちの活躍で20世紀博の陰謀は潰される。原恵一監督は昔を懐かしがっているばかりではダメということを言いたかったらしいが、同時に1970年代の生活へのこだわりも見て取れる。万博会場、足踏みミシン、メンコ、缶蹴り、トヨタ2000GTなどといった70年代を象徴するガジェットは30代後半から40代前半の大人にとってノスタルジー以外の何物でもない。