2015/08/16(日)「野火」
塚本晋也監督作品だからといって、何でもかんでもそこに結びつけるのは良くないということは重々分かっているが、やはりこれは塚本晋也版の「マタンゴ」だと思う。
両者に共通するのは逃げ場のない極限状況に置かれた人間の飢えとそれを解消するための食べ物だ。食べ物は「マタンゴ」においてはキノコのマタンゴであり、「野火」においては人肉だ。どちらも食べれば生き延びることは分かっている。しかしどちらも食べるのはタブーだ。マタンゴを食べればキノコの化け物になってしまう。人肉を食べれば餓鬼に堕ちてしまう。ラストで極限状況を逃れて文明社会に帰還した主人公を描く構成においても両者は共通している。塚本晋也は「野火」を撮っている時に「マタンゴ」は意識しなかったかもしれないが、強い衝撃を受けた作品の影響はどこかに表れてしまうものなのだと思う。
大岡昇平の原作は20代のころに読んだ。当時、NHKで放送されていた「マイ・ブック」で取り上げられて興味を持ったのだ。司会の原田美枝子は印象に残った部分として、手榴弾で肩の肉を吹き飛ばされた主人公がとっさにそれを口に入れるシーンを上げた。以下のような場面だ。
後ろで炸裂音が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎり去った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐ口に入れた。
私の肉を私が喰べるのは、明らかに私の自由であった。
この場面は映画「野火」でも描かれる。ただ、肩の肉は地に落ちず、肩に乗ったままで主人公・田村(塚本晋也)はそれを取って食べる。
原作を反芻しているうちに、どうも「マタンゴ」の方が「野火」に影響されているのではないかと思えてきた。「マタンゴ」の公開は1963年。「野火」の原作は1951年で市川崑監督版の映画は1959年に公開されている。「マタンゴ」の原作はウィリアム・ホープ・ホジスンの短編「夜の声」(闇の声、amazon)だが、映画のプロットはむしろ「野火」の方によく似ており、福島正実と星新一は脚色する際、「野火」の設定を換骨奪胎した可能性がある。ということは「マタンゴ」を好きな塚本晋也が「野火」を撮りたくなるのは必然だったということになる。
さて、塚本晋也版の「野火」は右傾化が止まらない現在において厭戦気分を煽るのに十分な描写に終始する。旧日本軍は食料の補給など最初から考えてもいなかったから、兵士たちは食料を現地調達しなければならない。それにも限界があり、飢えに苦しみ、食料をめぐって争うことになる。そして飢えを癒やすために「猿の肉」と称して人肉を食べる兵隊も出てくる。戦場の怖さは敵の砲弾だけではない。味方の人間同士の醜い争いが戦場の狂気を浮かび上がらせている。
敵の銃撃によって日本兵の腕がもがれ、脳漿が飛び散る場面は後から追加撮影したそうだ。このスプラッターな場面は塚本晋也が「マタンゴ」から離れるためにも必要だったのではないかと思う。
2015/08/01(土)「進撃の巨人 Attack on Titan」
諫山創の原作コミックを樋口真嗣監督が映画化。原作とは細かい設定が異なり、登場人物の名前も違う。これは原作者の要望だったそうだ。といっても大筋は同じだ。突然現れた巨人たちに蹂躙され、文明が崩壊してから100年後。人類は高さ50メートルの壁を作り、その中で安寧に暮らしていた。主人公のエレン(三浦春馬)は壁の中の生活に飽き飽きしており、外の世界を夢見ている。幼なじみのアルミン(本郷奏多)、ミカサ(水原希子)とともに壁のそばまで行ったところに超大型巨人が現れ、壁を破って多数の巨人たちが侵入、人間たちをむさぼり食い始める。ミカサも行方不明になってしまう。そして2年後、エレンとアルミンは兵団に入り、壁の穴を塞ぐため巨人に侵入された地区に行く任務に参加する。
身長120メートルの超大型巨人が出てくる場面は怪獣映画、普通の巨人の場面はゾンビ映画という感じの作り。巨人は「ウルトラQ」の大型化した人間の容貌を崩して醜悪にした感じ。こいつらが人間を捕まえて上半身をパクリと食べたり、手足を引きちぎって食べる。悲鳴と絶叫とグチャッグチャッという擬音が交錯し、さながら阿鼻叫喚の地獄絵図だ(日本ではPG-12に収まったが、アメリカではR指定になるのではないか)。巨人を防ぐ壁に囲まれた世界というのは周囲をゾンビで囲まれたスーパーマーケットを容易に思い起こさせる。映画はこの悪夢のような描写に力を入れているが、残念ながらそのほかの部分はどうにもこうにも擁護できない出来に終わっている。
原作と異なるのはかまわないが、ある事件によって強い絆で結ばれたエレンとミカサの関係はそのままにしておいた方が良かったのではないかと思う。これがないと、ドラマティックなものがなくなってしまうのだ。アニメ版にはミカサのこんな感動的なセリフがある。「勝利しか生きることを許されない残酷な世界。でも私にはこの世界に帰る場所がある。エレン、あなたがいれば、私はなんでもできる」
陰々滅々の雰囲気に終始するのにもまいった。確かに絶望的状況ではあるのだが、溌剌としているのがハンジ(石原さとみ)だけでは気が滅入ってくる。これは後編で弾けるための計算なのだろう、と好意的に解釈しておきたい。
軍艦島の廃墟でのロケは立体機動装置を生かす上ではとても良かったが、序盤を除いて、ここ以外の場所が出てこないので、物語に広がりが感じられない。その立体機動装置の描写はうーん、頑張っているけれど、褒めるほどではない。もっとスピード感がほしいところだ。
役者では本郷奏多と水原希子はほぼ原作のイメージ通り。三浦春馬もそんなに悪くはない。石原さとみは原作以上。原作のリヴァイに当たるシキシマの長谷川博己が1人で足を引っ張っている。リヴァイのセリフはアニメでは違和感がないが、実写で聞かされると、単に気障ったらしい男にしか見えない。これが人類最強の男であるはずはなく、真っ先に食い殺されてほしいぐらいだ。
諫山創は「フランケンシュタインの怪物 サンダ対ガイラ」に衝撃を受け、トラウマになったという。実写化された「進撃の巨人」はトラウマの要因となった巨人が人を食う描写を徹底してリアルに描き、パワーアップした。この映画がトラウマになる子どもたちも多いだろう。捕食シーンはアニメでもショッキングだったが、実写版はそれをはるかに上回っている。しかし、上回ったのはそこだけだった。諫山創はアニメを「原作の2億倍面白い」と絶賛した。完成度において実写版がアニメに勝てないのはしょうがないことなのか。そんなことはないだろう。後編での捲土重来を強く期待する。
2015/07/26(日)「バケモノの子」
序盤はそこそこの出来かと思いながら眺めていたら、テーマが浮かび上がる中盤から画面の情報量とスピード感が格段にアップし、スペクタクルなクライマックスまで充実しまくっていた。予想のずっと上を行く展開である。
これは子どもの成長の物語であるとともに親の成長の物語でもあり、父と息子の絆を描いた映画であり、心に闇を持つことの危険を描いた映画であり、学ぶこと(向上する意思を持つこと)の重要さを伝える映画でもある。
こうしたいくつものことを描きながら、物語は少しも破綻することなく、見事に着地していく。序盤の何気ないセリフを結末に結びつけてくる真っ当な描き方に感心した。テーマに絡んださまざまなエピソードを入れたことが映画の厚みにつながっている。脚本の底に流れる考え方と物語を作る技術が高いレベルでまとまり、現代の世相までをも取り入れた極めて正攻法の傑作だ。言うまでもなく細田守監督のベスト。
例えば、こんなエピソードに心惹かれる。9歳でバケモノ界に迷い込んだ九太=蓮(染谷将太)は学校に行かなかったため漢字が読めない。18歳で人間界に戻る道を見つけ、図書館で「白鯨」を読みながら、分からない漢字をそばにいた楓(広瀬すず)に聞く。不良に絡まれた楓を助けたことから、九太は楓の指導で勉強を続け、大学進学を志すようになる。乾いた砂に水が染み込むように九太は勉強に打ち込む。高等学校卒業程度認定試験(高認=かつての大検)の手続きに行った役所で担当者から「学校行ってないんだろ、無理無理」と追い返されるが、それを見ていた女性職員は九太に書類を届ける。
と、これだけでも1本の映画になる題材だ。世の中には分かっている人と分かってない人、向上心のある人とない人、人を助ける人と貶める人がいるのだ。そして映画は前向きな人の背中を押すような話、闇に流されそうな人の心に剣を持とうと訴える話に仕上がっている。
ただし、作りはそんなに単純ではない。バケモノ界で九太の親代わりになる熊徹(役所広司)は粗暴でがらっぱちな性格。料理は卵かけご飯だし、掃除をしないので家の中は散らかり放題になっている。熊徹と宗師の座を争う猪王山は熊徹とは対照的に人望があり、武術にも長けている。猪王山の息子・一郎彦も子ども時代は正義感あふれる性格だったが、思春期に至って心に闇を抱えるようになる(なぜそうなったかはクライマックスで明かされる)。
ダメな親から育った子どもがダメになるわけではないし、立派な親から育った子どもが立派な大人になるわけでもない。ダメと思っていた親が実は子どもに深い愛情を持っていたりする。そしてダメな親は子どもに助けられてダメではないところを見せる。劇場には親子連れが多数来ていたが、これは子どもよりも親の心に強く響く映画ではないか。
宮崎あおいやリリー・フランキー、大泉洋など豪華な声優陣はやはり役所広司の熊徹がうまい。音楽は「おおかみこどもの雨と雪」に続いて高木正勝が担当。メロディアスなものから雄々しいスコアまでとても良かった。
2015/06/17(水)「海街diary」
引っかかるところがない。スーッと見てしまう。嫌な描写がない。だからとても心地よい。是枝裕和監督の前作になぞらえれば、3姉妹と腹違いの妹が一緒に暮らし始め、「そして姉妹になる」過程を描くこの映画、どうしてこんなに心地よいのだろう。
3姉妹を演じる綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆と広瀬すずのキャラクターは明確に描き分けられ、周囲の人物もキャラは明確だ。例えば、坂下(加瀬亮)。信用金庫に勤める次女・佳乃(長澤まさみ)の上司の坂下は都市銀行を辞めて今の職場に来た。その理由について坂下は「自分には合わなかったから」とだけ話す。倒産しそうな小さな会社の経営書類を見て、社長を励ます場面では坂下の人柄まで分かってしまう。映画のキャラクターがそれぞれに掘り下げられて、描写に厚みがある。小さな描写の積み重ねが映画に細やかで温かい情感を与えている。
小津安二郎が描き続けたような家族のドラマだが、小津映画には根底に厳しさや残酷さがあった。この映画にそんな部分はない。それが映画の甘さにつながっているのだけれど、その分、とても愛おしい作品になっている。
大きな事件が起きるわけではない。しかし、心にしみるセリフや描写は至る所にある。
「すずちゃん、鎌倉に来ない? 一緒に暮らさない、4人で?」
自分たちをおいて出て行った父親の葬儀で、腹違いの妹すず(広瀬すず)の健気な姿を見て長女の幸(綾瀬はるか)が言う。実の父親が死に、一緒に暮らす義理の母には連れ子がいる。端から見てもすずには居場所がないと思えるが、加えてすずは負い目を感じている。「ごねんなさい。奥さんのいる人を好きになるなんて、お母さん良くないよね」。鎌倉の四季を織り込んで、1年かけて姉妹になる過程を描くこの映画は「私がいるだけで傷ついている人がいる」という負い目を持った少女が負い目から解放され、自分の居場所を見つける映画でもある。
サッカーの場面でまったくの素人とは思えないプレーを見せる広瀬すずは素直で初々しい演技で新人賞確定という感じ。映画のファーストショットに寝姿で登場する長澤まさみは監督からエロスとタナトスのエロスの部分を割り当てられたそうで、魅力を発散させている。
2015/06/07(日)「予告犯」
あまり芳しい評価は聞かなかったが、戸田恵梨香を目当てに見る。今や、戸田恵梨香、絶好調だ。「駆込み女と駆出し男」では鉄練りの仕事に打ち込み、顔に火ぶくれを作る女を演じて文句の付けようがなかった。「予告犯」は「SPEC」のように警視庁の女刑事役だが、サイバー犯罪対策課の班長というエリートな役柄だ。
映画は中村義洋監督なので手堅くまとめてはいるが、主人公の通称ゲイツ(生田斗真)の最後の選択に疑問が残る。たとえ「小さなことのためにであっても人は動く」のだとしても、そこまでやるか、と説得力に欠けるのだ。こういう展開であれば、主人公にはもっと重たい運命を背負わせたかったところだ。最後の申し合わせたような仲間の言動も、もっときちんと伏線を張った方が良かっただろう。
ただ、「東京難民」のような社会性を取り込みつつ、エンタテインメントを目指した意欲は買い。結末が原作通りなのかどうかは知らないが、途中まで良かっただけに残念な思いが残る。戸田恵梨香に関しては特筆するところはないものの、ファンの期待は裏切らない演技を見せる。中盤、逃走する生田斗真をどこまでも追いかけて走る場面など「フレンチ・コネクション2」のジーン・ハックマンを思い出した。