2013/02/02(土)「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」

 映画を見る前にヤン・マーテルの原作「パイの物語」を読んだ。乗っていた船が沈没して主人公パイが救命ボートでトラと漂流する部分(第2部)が大半を占め、ここが一番面白いのだが、この小説はその後にこれまでに語った物語をひっくり返すような第3部があり、ここが文学的な価値を高めている。物語とは何なのか、なんてことを考えさせられるのだ。ブッカー賞受賞が納得できる傑作だが、映画にするのは相当に難しいと思えた。文学的なテーマと凄惨な描写があるからだ。果たしてアン・リー監督はどうやって映画化したのか、俄然興味がわいた。

 映画を見て驚いた。アン・リーは原作にかなり忠実に映画化している。凄惨な描写はマイルドな表現に変えてあるし、一部省略したエピソードもあるが、原作にここまで忠実で成功した映画は珍しい。何が良いと言って、ビジュアルな部分が素晴らしいのである。原作を読みながら、こちらが頭でイメージした映像を上回る映像を見せてくれる。激しい嵐、逆巻く波、大きなうねり、ジャンプするクジラ、鏡のように凪いだ海、青白く発光するクラゲ、空飛ぶ大量のトビウオ、島を埋め尽くしたミーアキャットの大群などなど、どれもが美しくリアルで目を奪われる。スタッフは見事な仕事をしており、文学の映画化としてこれはお手本みたいな作品になっている。絵で語ることに成功しているのだ。

 こうした素晴らしいイメージを描出することができたのはVFX技術の進歩があるからだ。リチャード・パーカーこと凶暴なベンガルトラやハイエナ、シマウマ、オランウータン、ミーアキャットなど出てくる動物はほとんどCGだろう。動物たちが原作にある描写とそっくり同じ動きをするので逆にCGであることがはっきり分かる。動物にあんな風に細かく演技指導することはどんなに優秀な調教師でも不可能だ。しかし、この映画のCGはどれもリアルで実写から浮いていない。そこが素晴らしい。CGを担当したのは「ナルニア国物語」のリズム&ヒューズ・スタジオ。ナルニアのライオンもリアルだったが、この映画はそれを上回っている。

 原作の文学的なテーマは後退しているが、それは小説と映画の表現の違いだから仕方がない。欲を言えば、主人公の漂流に至るまでの序盤が長いので、ここをコンパクトにまとめると良かったと思う。これは原作もそうで、いきなり船の沈没の場面から始まってもあまり支障はないように思えた。序盤だけは原作に忠実にしなくても良かっただろう。

 さて、アン・リーが映画化に際して省略した部分とは何か。それはリチャード・パーカーという名前に関係してくる。この名前ついては映画のパンフレットに書かれているが、エドガー・アラン・ポーの小説「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」の登場人物の一人。これは海を漂流中に食料が尽きた4人の男が“いけにえ”となる一人を選ぶという物語だそうで、食べられる羽目になるのがリチャード・パーカー。そしてなんと小説の発表から47年後の1884年、漂流中の4人のうちの一人が食べられるという実際の事件が起きた(ミニョネット号事件)。ここで犠牲になったのもリチャード・パーカーだったそうだ。

 この名前をトラに付けたことでも分かるように、原作にはカニバリズムの描写が出てくる。映画ではちょっとしか出てこないフランス人コック役を名優ジェラール・ドパルデューが演じているが、原作ではこのコック、終盤にもう一度出てくる。詳細は省くが、カニバリズムの主役であり、犠牲者ともなる人物だ。ドパルデューをキャスティングした段階ではカニバリズムの部分は脚本に残っていたのかもしれない。原作にはウミガメを解体して食べるシーンもあるが、これも見て楽しい場面ではないのでカットしたのだろう。エンタテインメントを作る上でこうしたダークな部分を削ったのは賢明な判断だったと思う。

2011/08/23(火)「ツリー・オブ・ライフ」

 テレンス・マリック監督の「ニュー・ワールド」以来6年ぶりの作品で、カンヌ映画祭パルムドールを受賞した。隕石が地球に落ち、生命が生まれ、生物に進化して恐竜が出現するという序盤の長いシークエンスを見て、ああ、「ツリー・オブ・ライフ」のライフとは人生ではなく、生命のことかと、やっと分かったのだが、実はこのタイトル、エデンの園にある生命の木から取ったのだそうだ。そういうことも知らない聖書の門外漢にはちょっとつらい映画ではある。

 もっとも、テレンス・マリック、普通のドラマとしてこの映画を撮ってはいない。特に物語がよく見えてこない序盤はそうで、30分ぐらいで劇場を出て行く人がいる(僕が見た時に1人いた。ネットの感想を読むと、けっこう多いらしい)のはドラマが盛り上がっていかないからだ。マリックは物語ではなく、自分のビジョンを見せている。エモーションが持続しにくいのはビジョンとドラマの融合が技術的にうまくいっていないのが要因で、それ以上の意味はないように思える。ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンを世界中に派遣して撮らせたというさまざまな映像は美しく、思索をこめた作品ではあるが、端的にドラマの構築に失敗している。

 映画を見ながら思い浮かべたのはケン・ラッセル「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」やイングマール・ベルイマンの「沈黙」「夜の儀式」といった初期の作品だった。キリスト教のモチーフが至る所にあるからで、苦悩する人間に対して神は沈黙している。分かりにくいのはブラッド・ピットの強権的な父親が支配する家族の姿と、進化のシークエンスや地球の表情が並列に描かれることで、これをミクロとマクロという凡庸な視点で論じるのはどうかと思う。マリックは宇宙や地球のスケールに対して人間の営みはあまりにも小さいという極めて当たり前のことを言いたかったのか。そうであれば、こちらとしては冷笑的な気分にならざるを得ないのだ。

 一つの明確な解を持たない映画だが、そういう映画であるがゆえの利点はあって、観客の脳内補完の余地が大きくなり、好きな解釈ができる。観客は映画を見ながら、シーンとシーンの間に自分で「しかし」とか「そして」とか「または」とかの接続詞を入れながら見ているわけだが、この映画のシーンとシーンの間にあるのはほとんどがandだ。だから観客の頭の中にはそれぞれに別の映画が出来上がることになる。ある人の感想が他の人にまったく説得力を持たないのは、脳内に出来上がった映画が違うからにほかならない。

 映画の構成は成長した長男(ショーン・ペン)の回想であり、その意識の流れを映像化したためにシーンを並べたドラマの断片が多くなったのだろう。もちろん、マリックはそれを意識的に行っているのだが、それを積極的に行う意味が僕には見えてこなかった。

2011/05/05(木)「マイレージ、マイライフ」

 ジェイソン・ライトマンは父親のアイバン・ライトマンより才能あるなと思う。冒頭、短いショットを重ねて出張の準備をする場面で乗せられてしまう。後は一気呵成の展開。主人公のライアン(ジョージ・クルーニー)は家庭を持たず、出張で全国を飛び回る解雇請負人。会社に代わって、不要な社員に解雇を通告するのが仕事だ。同じような生き方をしているアレックス(ヴェラ・ファーミガ)との出会い、教育を担当させられた新入社員ナタリー(アナ・ケンドリック)との交流を通じてライアンは自分の生き方を見つめ直す。大人の女性を演じるファーミガがいい。

 知り合いがFacebookでこの映画のラストについて議論になっていると書いていた。果たして主人公は出張を続けるのか、辞めるのか。キャリーバッグの取っ手から手を離す場面があるからだ。主人公がどうするかは最後のナレーションから明らかではないかと思う。

 「今夜、人々は家族の待つ家に帰り、1日の話をして眠りにつく。昼間隠れていた星が輝く中、ひときわ輝く光がある。僕を乗せた翼だ」。

2006/01/17(火)「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

 「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」パンフレット数々の賞に輝くデヴィッド・オーバーンの戯曲「プルーフ/証明」をジョン・マッデン監督とグウィネス・パルトロウの「恋におちたシェイクスピア」コンビで映画化。マッデンとパルトロウは2002年のロンドンの舞台でも演出・主演を務め、高い評価を受けたという。手慣れた題材のはずだが、なかなか話が見えてこない映画の前半が思わしくない出来なのは映画化にあたって付け加えたという葬儀とパーティーのシーンがやや精彩を欠くためか。舞台劇らしく会話が多いことも映画的なノリにブレーキをかけているようだ。

 しかし、後半、世紀の数学の証明に関する話になって映画は輝き始める。天才的な数学者でありながら精神を病んだまま死んだ父親から、その負の側面までも受け継いだと思いこみ、精神的に不安定な娘の再生への光を映画はくっきりと浮かび上がらせるのだ。この父と娘はロン・ハワード「ビューティフル・マインド」のラッセル・クロウのように精神を病んでいるけれども、天才的なひらめきを持っていて、そこがとても興味深い。化粧気のないパルトロウの演技は繊細で、ある意味、エキセントリックで感情移入しにくいヒロインに複雑な陰影を与えている。知的な女優だなと思う。

 映画は27歳の誕生日に一人でシャンパンを飲むキャサリン(グウィネス・パルトロウ)と父親ロバート(アンソニー・ホプキンス)の会話で始まる。話しているうちに父親は1週間前に死んだことが分かる。黒木和雄「父と暮せば」を思わせるシチュエーションだが、それはここだけ。3年前、精神を病んだ父親が1年間だけまともだったころの思い出から始まって過去と現在を行き来しながら、映画は父娘の関係とキャサリンの苦悩、ロバートのかつての教え子ハロルド(ジェイク・ギレンホール)やキャサリンとは対照的な姉クレア(ホープ・デイビス)との関係を描いていく。ロバートは20代のころ、数学の世界で次々に偉大な功績を残し、天才と言われたが、その後、精神を病んだ。ハロルドと親しくなったキャサリンが1冊のノートに書かれた世紀の数学の証明を書いたのは自分だと話す場面からがこの映画のメインで、筆跡がロバートのものだとして信じないクレアとハロルドにキャサリンは絶望する。通貨アナリストとして成功しているクレアは現実的なタイプで、キャサリンが父親の病気を受け継いでいると思っており、自分の住むニューヨークに連れて行こうとする。

 人生の証明などと分かった風な意味を付け加えたこの邦題は直截すぎるばかりか意味を限定して良くないと思うが、確かに映画が描くのは数学の証明の秘密とそれを通して自分の人生の証明を果たしていくキャサリンの姿である。脚本はデヴィッド・オーバーン自身と劇作家アーサー・ミラーの娘レベッカ・ミラーの共同。映画的に際だった手法はないけれども、オーソドックスな作りではあり、舞台を楽しむように見る映画なのだと思う。

 劇中、ロバートが口にする「人間の頭脳の頂点は23歳」という言葉は、それをとうに過ぎた年代のものとしては悲しいが、これは天才だからこそ感じる不安なのかもしれない。そしてその不安こそが精神を病む引き金になったのかもしれないと思う。99%のパースピレーションと1%のインスピレーションからなる天才はインスピレーションを生むためにもがき苦しんでいるのだ。

2001/03/21(水)「プルーフ・オブ・ライフ」

 南米の某国でアメリカの技術者(デヴィッド・モース)が反政府ゲリラから誘拐される。その妻メグ・ライアンとプロの交渉人ラッセル・クロウが誘拐交渉に当たる。クロウは会社から派遣されたのだが、会社は保険料を払っていなかったことが分かり、途中で帰国。しかし、再び戻り、仲間とともにゲリラの本拠地を襲撃。見事、夫を救い出す。

 いったん交渉をやめたクロウがなぜ帰ってくるのか、あいまいである。メグ・ライアンに同情したのだろうが、これは人間的には納得してもプロとしてはあるまじき行為だろう。そういう男が優秀な交渉人であるはずはない。プロはビジネスで動くのが本筋。この誘拐交渉に成功してもなんら報酬はないのに命をかけますか。

 物語の根幹にかかわる部分だけに気になる。こんなことなら途中で帰国する設定などない方が良かった。人道的な理由からであるなら、もっとそこを重点的に描く必要があった。テイラー・ハックフォード、何をやっておるのか。

 導入部のチェチェンでのスピーディーな展開を見て、期待できるかと思ったが、全体的にどうも演出が緩い。クロウと息子との場面など後に少しも生きてこず、不要である。メグ・ライアンとラッセル・クロウはいいんですけどね。