2011/05/22(日)「ブラック・スワン」

 エドガー・アラン・ポー「ウィリアム・ウィルソン」を思わせる描写に始まって、「レクイエム・フォー・ドリーム」的な展開になり、「ウィリアム・ウィルソン」で終わる。瀕死の白鳥のパートを瀕死の主人公に踊らせ、それが観客の喝采を集めるというアイデアが残酷だ。煎じ詰めて言えば、これは精神病患者の見る幻想を視覚的に描いた映画で、「レクイエム・フォー・ドリーム」で描かれたドラッグ中毒者の幻覚の変奏曲と言える。

 ストーリーそのものよりもそうした描写が際立っており、舞台で黒鳥を踊るシーンで主人公ニナの肌が鳥肌になり、黒い羽根がびっしりと生えていく描写などはその最たるものだ。フォックス・サーチライトの配給なので、元々はインディペンデント系の作品なのだろう。ナタリー・ポートマンが主演女優賞を取ったからといって、このダークな映画を完全なメジャー映画と見るのには少し無理がある。

 主人公が精神を病んでいくのは母親との確執、ようやくつかんだ主役の座をライバルのリリー(ミラ・クニス)に奪われるのではないかという不安に加えて性的に未熟なことが影響している。主人公は、白鳥のパートは完璧に踊れても、官能的な黒鳥を表現できず、監督(ヴァンサン・カッセル)から“不感症の白鳥”と罵倒される。黒鳥が意味するものは「キャリー」のパイパー・ローリーを思わせる母親(バーバラ・ハーシー!)が抑圧するセックスにほかならない。

 母親は主人公を身ごもったためにバレエをあきらめた経緯があり、自分と同じ道を歩ませたくないという過剰な思いを持っている。主人公はそれによってプレッシャーを受けているわけだ。精神的に弱くて脆い主人公は黒を必要と感じ、それに憧れながらも否定するというアンビヴァレンツな感情と焦りが渦巻く。そして現実と幻想の区別がつかなくなっていく。幻想が日常に侵蝕してきて現実の行動を規定してしまうのである。

 白と黒を対比しながら、黒が自分の“ダーク・ハーフ”であることを主人公は知ることになるのだが、映画はスティーブン・キング「ダーク・ハーフ」に出てきたドッペルゲンガーのような超常現象は登場せず、あくまでも精神病患者の幻想として終始する。「レクイエム・フォー・ドリーム」で老醜をさらしたエレン・バースティンのあり方は凄まじく悲惨だったが、この主人公には悲劇はあってもそこまでの悲惨さはない。それがメジャーの配給路線に乗せる限界であり、ダーレン・アロノフスキーが前作「レスラー」で一気にメジャーになったことの影響でもあるのだろう。よく言えば、描写のさじ加減にバランスが取れているのである。

 ナタリー・ポートマンは熱演しているが、バレリーナの役柄なのであまりに痩せていて、セクシーさは感じない。それも役作りの一環なのかもしれない。

 それにしてもバーバラ・ハーシーがすっかり年を取っていてびっくり。先日、「ウルフマン」を見た時にもジェラルディン・チャップリンの老け込みぶりに驚いたが、考えてみれば、2人が活躍したのは70年代なのだから仕方がない。