2001/09/11(火)「Red Shadow 赤影」
かつてのテレビシリーズ「仮面の忍者 赤影」とは別物。いや、影一族が出てくるのは同じだが、怪獣は登場しない。テレビの赤影の魅力は怪獣映画と思わんばかりの怪獣登場シーンにあったわけだから、この映画化、あまり面白くない。しかしそれよりも問題なのはストーリーに骨太なものがないこと。
最初の30分ぐらいのアホさ加減にはほおが引きつる。かっこいい正義の味方という赤影のイメージぶち壊し。赤影(安藤政信)も青影(村上淳)も軽薄すぎる。唯一いいのは飛鳥役の麻生久美子。もっと活躍させるべきでした。
敵も味方もボス役には貫禄がある。津川雅彦、神山繁、根津甚八、陣内孝則といった役者は時代劇らしい演技を見せてくれる。しかし、赤影と青影がこれではね。ユーモアに逃げた前半はまったくダメ。笑えないのが致命的。物語らしくなる後半は少し良くなったという印象。最初から、後半のタッチで作れば良かったのだ。
中野裕之監督の映画は実はこれが初めて。もうちょっと、しっかり作らなきゃダメでしょう。音楽も忍者映画には合わない気がする。
麻生久美子と奥菜恵は髪型を同じにすると、外国人には見分けがつかないのでは? 顔の形が似てますね。竹中直人は白影役にはぴったり。大凧に乗って登場するシーンはテレビシリーズへのオマージュか。
2001/09/04(火)「大河の一滴」
五木寛之のエッセイと原案から新藤兼人が脚本化し、神山征二郎が監督した。このコンビならまず死角はないと思えるが、残念ながら映画の出来は芳しくない。主人公を演じる安田成美の幼稚な演技が誤算。この人、黙っていれば、まだ何とかなるが、セリフをしゃべり、身振り手振りが加わると、その硬さ、稚拙さにあきれる。もっと自然な演技を身につけてほしいものだ。脇を固める三国連太郎や倍賞美津子らが自然体演技なので余計にそう感じられる。もう一人、渡部篤郎の演技は自然体とは言えないが、うまさを感じる。硬いセリフを普通の人間がしゃべる言葉に変換してしゃべっているよう。アドリブだろうが、うまいし、好感が持てる。
主人公・小椋雪子は29歳。東京で友人の川村亜美(南野陽子)が経営する輸入雑貨店で働いている。商品の買い付けにロシアへ行った際、ロシア人のガイド、ニコライ・アルテミコフ(セルゲイ・ナカリャコフ)と知り合う。ある日、東京の雪子にニコライから電話がある。ニコライはトランペット奏者でオーケストラのオーディションを受けるため、来日していたのだ。しかし、オーディションは不合格。そんな時、金沢に住む雪子の父親(三国連太郎)が倒れたとの知らせが届く。父親は肝臓ガンと肝硬変を併発していた。もって半年の命。父は手術をせず、今まで通り祖父から継いだ特定郵便局長としての仕事に打ち込む。
映画は後半、父親の生き方とそれを支える母(倍賞美津子)の姿、雪子と幼なじみの昌治(渡部篤郎)、ニコライの三角関係に焦点が絞られる。これはいいのだが、前半の描写が性急で、余計なものが多すぎる。亜美が恋人に金をつぎ込んで、店を潰し、自殺するという描写などは何のために描いたのか。南野陽子は好演しているのだが、映画の本筋に絡んでこないし、語り口が性急すぎる。さーっと表面的に描いて終わりである。
主人公のキャラクターもいただけない。このバカな女は「あたしやっぱり昌治と結婚するのかなあ」などと言いつつ、不法滞在で送還されたニコライに会いにロシアまで行くのに、昌治に同行するよう頼むのである。人の良い昌治は悩みながらも承諾する。三角関係の決着の付け方も不十分だし、これでは昌治がかわいそうである。
こういう関係で思い出したのは、たとえが古くて申し訳ないが、山本周五郎「柳橋物語」。主人公の娘はバカな男の良いところだけを見て、男を待ち続け、そばにいる素晴らしい男に気づかない。そばの男がいなくなって初めてその男の良さが分かり、思いを寄せてきた男のバカさに気づく。
もしかすると、新藤兼人脚本は渡部篤郎を描くためにこういう設定にしたのかもしれないとも一瞬思ったが、それにしてもこの主人公の設定はないだろう。神山征二郎は「わがままというのは心が純粋ということ」と言っているけれど、29歳にもなった女のわがままは迷惑なだけである。
ニコライ役のセルゲイ・ナカリャコフは国際的に活躍するフランス在住のトランペッターとのこと。これまた稚拙な演技にあきれ果てる。トランペットはできなくても本職の役者を起用すべきだったのではないか。
2001/08/28(火)「キス・オブ・ザ・ドラゴン」
ジェット・リー主演のアクション映画。キネマ旬報9月上旬号に「全米の批評家からの評価だが、必ずしも良好とは言えず、また観客からの受けもいまひとつといったところ」とあるが、十分に面白い出来。監督のクリス・ナオンよりも、製作・脚本のリュック・ベッソンのタッチが色濃く出ている。ジェット・リーはパンフレットで警察署殴り込みのシーンについて「一番意識したのは高倉健の任侠映画」と語っている。僕は映画全体に日活アクションの世界を連想した。アクション映画の定石を外していない作りに好感が持てる。
中国の秘密捜査官リュウ(ジェット・リー)が麻薬組織摘発に協力するため、パリにやってくる。フランス側の捜査の代表はリチャード警部(チェッキー・カリョ)。ところが、リチャードはホテルで麻薬組織のボスを殺し、その罪をリュウになすりつけようとする。リチャードは麻薬組織に絡む悪徳警部だったのだ。という巻き込まれ型のプロット。警察からも組織からも追われ、リュウはたった一人でリチャードに戦いを挑むことになる。
ジェット・リーは今回、製作にも関わり、特にアクション場面について自らアイデアを出したという。アクション監督は長年リーと組んでいるコーリー・ユエン。ホテルや街頭、船の上などで密度の濃いアクションが次々に披露される。ジャッキー・チェンとはひと味違ったこうしたアクションも見どころなのだが、それ以上に映画の細部に手を抜いていない。凶暴で狡猾なリチャード警部の役柄は「レオン」のゲイリー・オールドマンを彷彿させる。センチメンタルな濡れた音楽(クレイグ・アームストロング)も「レオン」のよう。加えてリチャードに迫害され、地獄のような日々を送っている薄幸な娼婦役ブリジット・フォンダがとてもいい。小品だが、しっかりと作られた佳作。
「キス・オブ・ザ・ドラゴン」というタイトルの意味はラスト近くで判明する。あまり本筋とは関係ありません。
2001/08/28(火)「アメリカン・サイコ」
シリアル・キラー(連続殺人犯)はプアー・ホワイト(低所得者層の白人。しかも幼児虐待の経験がある場合が多い)というのがお決まりだが、この映画の主人公は裕福な環境にある。80年代のヤッピーを描いて、どこか「レス・ザン・ゼロ」のような雰囲気だなと思ったら、その通り原作は「レス・ザン・ゼロ」の原作者ブレット・イーストン・エリスの3作目に当たるそうだ。だからこれは一般的なサイコ映画とは違っている。イーストン・エリス、自分の土俵で相撲を取ったな、という感じである。
原作がどうなっているかは知らないが、監督・脚本のメアリー・ハロンが取ったのもヤッピーの苦悩としての殺人(といっても当初、本人は苦悩を自覚していないだろう)。シリアル・キラー自体がテーマではなく、あくまでヤッピーの描写の方が重点であり、カリカチュアライズと皮肉なタッチが随所にある。
主人公のパトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベール)はウォール街の一流企業ピアース&ピアースで副社長の地位に就いている。毎日エクササイズに精を出し、健康に気を遣い、美しい婚約者がおり、何不自由ない生活。しかし、内面は空っぽだ。仲間とは、作った名刺の出来を比べ合ったりする(自分より出来のいい名刺を持っている奴に嫉妬し、殺人の動機の一つになるのがおかしい)。上辺を取り繕った生活の中で、ベイトマンはある夜、衝動的にホームレスを殺す。それから殺人の衝動を抑えられなくなる。自分よりいい暮らしをしているビジネスマン、街で買った娼婦、自分の秘書(クロエ・セヴィニー)までも殺そうとする。
ベイトマンはエド・ゲインやテッド・バンディに言及し、ビデオで「悪魔のいけにえ」を見ているぐらいだから、シリアル・キラーには関心があるようだ。思わず笑ってしまうシーンが挿入される映画自体も別に悪い出来ではない。ただし、やっぱり連続殺人とヤッピーとは結びつかない。苦悩の果ての殺人なら分かるが、殺人が日常化するのに説得力がないのである。ヤッピーの空虚な日常を描くのなら連続殺人を持ち出す必要はなかったのではないか。
2001/08/21(火)「ドリヴン」
シルベスター・スタローンとレニー・ハーリンが「クリフハンガー」以来8年ぶりに組んだカーレースの映画。脚本もスタローンが書いているが、これがひどい出来。人間関係の描写にリアリティーを欠き、ドラマは盛り上がらず、もうアマチュアが書いたとしか思えない脚本である。スタローンは製作を兼ねているから、ハーリンとしても修正しにくかったのだろう。しかし、演出に関しても見るべき所はほとんどない。
映画が描くのはF1ではなく、CARTというレース。世界を転戦して順位を競うのはF1と同じで、日本のツインリンクもてぎも出てくる。
昨年度のチャンピオン、ボー・ブランデンバーグ(ティル・シュワイガー)と無名のルーキー、ジミー・ブライ(キップ・パルデュー)が優勝を競っている今年のレース。シカゴで行われたレースでジミーはボーに敗れ、チームのオーナーであるカール・ヘンリー(バート・レイノルズ)はかつての名レーサー、ジョー・ダント(シルベスター・スタローン)に支援を頼む。ジョーはレース中の事故で引退し、今は隠遁生活を送っていたが、カールの誘いで久しぶりにレースに復帰する。主演とはいってもスタローンは一歩下がった形ではある。年齢的に見て、これは妥当な判断だろう。
ただし、やはり出たがりのスタローンであるからコーチ役に徹しているわけでもない。自信を失っているジョーの再生を図る物語にすれば良かったのに、とりあえずアドバイスめいた言葉を口にするだけ。この主人公が2人いるような設定が失敗の要因かもしれない。
人間関係のドラマにしてもボーの恋人ソフィア(エステラ・ウォーレン)がちょっとしたことで別れ、ブライと付き合い、やっぱりボーの元へ帰る描写などどうでもいい感じ。ボーを悪役としては描いていないから、2人の男の間を行ったり来たりするウォーレン(「猿の惑星」)がなんだかバカな女にしか見えない。
スタローンと元妻の描写に関してもこれは言え、こういうドラマの部分はほとんど雑である。こんな人間関係を描くぐらいなら、もっとレースの本質に迫るべきだった。ハーリンはカーレースが好きと言っているが、本気で好きならマニアックな部分が出てきてもいいはずだ。