2004/02/26(木)「ゼブラーマン」

 「この格好でジュース買いに行っちゃおうかな」。

 ゼブラーマンのコスチュームを身に着けた市川新市(哀川翔)がつぶやく。コスチュームは自分でミシンで縫ったものである。昭和53年に視聴率低迷のため7話で打ち切られた「ゼブラーマン」の絶大なファンである主人公は大人になってもゼブラーマンに憧れている。学校の教師だが、生徒からは馬鹿にされ、そのため息子はいじめられている。娘は援助交際しているらしいし、妻は不倫しているらしい。映画は序盤、スーパーヒーローものの冗談のような展開なのだが、やがて本気になり、ダメな父親、ダメな先生が復権し、スーパーヒーローが誕生して宇宙人を撃退するまでを描く。

 これは監督の三池崇史の趣味というより、脚本の宮藤官九郎の思い入れなのだろう(と思ったが、パンフレットを読むと、三池崇史が手を入れた部分もかなりあるらしい)。「先生、聞きたいことがあるんです。…先生はゼブラーマンじゃないんですか」。鈴木京香が主人公に尋ねるセリフはなんだか「ウルトラセブン」を思い起こさせた。ちょっぴり冗長な部分はなきにしもあらずだが、僕は面白かった。Anything Goes。願えばかなうという字幕が最初に出て、映画はその通りの展開を見せる。そういう真正面から言われると恥ずかしくなるようなことを、スーパーヒーローものの設定を借りて言っている力強さがこの映画にはあり、本筋は非常にまともである。これが見ている人を熱くさせる理由なのだろう。

 スーパーヒーローになぜあんなコスチュームが必要なのか、現実世界にはまるで合わないのではないかという疑問が実はスーパーヒーローものにはつきもので、「バットマン リターンズ」でティム・バートンはそのあたりまで描いて見せた。しかし、この映画を見ると、人はコスチュームを着けることで別人になれるという効果があるのが分かる。ゼブラーマンがなぜ、あんな力を持てるのか、映画では詳しく説明されないけれど、それでもいいんだ、ヒーローになったんだからという説得力が十分にあるのだ。日常の自分とは違う格好をすることで、人は何らかの力を得るのだろう。テレビの「ゼブラーマン」は空を飛べなかったために宇宙人に負け、人類は支配されてしまう。そのためもあって主人公は飛ぶことに執着する。何度も何度も飛ぶことに挑戦し、傷だらけになる。だからようやくゼブラーマンが校舎の屋上から落ちた生徒を助けるために空を飛ぶシーンは「E.T.」の自転車が空を飛ぶシーンに近い感動がある。「俺の背中に立つんじゃねえ」「白黒つけるぜ」という序盤に出てきたセリフはクライマックスに熱を込めて繰り返される。

 主演の哀川翔は硬軟織り交ぜた演技で主演100本目にふさわしい出来。鈴木京香のゼブラナースのコスチューム(絶品!)に驚き、渡部篤郎の防衛庁の役人の面白いキャラクターにも感心させられた。志の低いパロディにしなかったスタッフと出演者を賞賛したい。

2004/02/19(木)「この世の外へ クラブ進駐軍」

 主人公の父親役で楽器店を営む大杉漣がリヤカーにオルガンを積んでいる。「ああ、ちょっと上げて。もういいですよ、下げて」と言ってオルガンを積み終えた大杉漣は「どうもすいません。通りすがりの人に」と礼を言うのだった。この場面、もう一度繰り返され、おかしさを煽る。あるいは、新宿のバーでジャズバンド「ラッキーストライカーズ」の面々に客の復員兵がいちゃもんを付け、険悪な雰囲気になる場面。カットが切り替わると、彼らは一緒に肩を組んで演歌を歌っている。この場面も2度繰り返される。こういう場面を見ると、阪本順治の細部の描写のうまさが際だっていることが良く分かる。「この世の外へ クラブ進駐軍」はそうした描写の積み重ねで戦後の日本の一断面を切り取った映画だ。

 実際、この映画に出てくる戦後の焼け跡や闇市の様子はここしばらく日本映画では描かれなかったことで、非常に新鮮さとリアルさを感じる(かなり力を入れた造型である)。そこに住み、生きる人々の顔つきもいかにも戦後の日本人という感じであり(オーディションでそういう古風な顔つきの人を選んだそうだ)、当時の様子が詳しく再現されている。

 主人公の広岡健太郎(萩原聖人)はフィリピンのジャングルで終戦を知らせるビラと飛行機から流れるジャズ(「A列車で行こう」)を聞く。健太郎は復員後、ジャズバンドを組んで進駐軍の基地で演奏することになる。広岡は一応の主人公ではあるけれど、阪本順治の狙いは主人公の生き方などではなく、ジャズバンドの仲間(オダギリジョー、松岡俊介、村上淳、MITCH)や米兵たちのそれぞれの生き方を描いて、群像劇のような趣を出し、戦後そのものを描くことにあったのだろう。歌手を演じる前田亜季やパンパンの高橋かおり、ストリッパーの長曽我部蓉子などの女優にもそれぞれにいいエピソードが与えられている。その意味では非常に充実した描写のある映画である。

 そうした描写のうまさに比べると、話の展開はそれほどうまくない。ラッキーストライカーズは禁じられた「ダニーボーイ」を演奏したことで、基地への出入りを禁じられ、他の事情も重なってバラバラになっていく。「ダニーボーイ」の演奏が禁止なのは軍曹ジム(ピーター・ムラン)が事故で亡くした息子ダニーを思い出してしまうからだ。バンドは仲間の死をきっかけに再び結集し、基地で演奏することになる。そこで歌うのは朝鮮戦争で死んだ米兵ラッセル(シェー・ウィガム)が作った「Out of This World(この世の外へ)」であり、「ダニーボーイ」である。この部分があまりうまくない。バラバラになっていく過程が簡単すぎるし、ジムが「ダニーボーイ」をリクエストする心情もよく伝わってこない。いやもちろん、朝鮮戦争への出征を命じられ、ピストル自殺をしようとした米兵をなだめる意味があるのは分かるのだが、あまり説得力がないのである。ここは物語のポイントになる部分なので、もっと緻密に描く必要があっただろう。

 阪本順治は米同時テロをきっかけにこの映画の製作を決めたそうだ。エキストラとして出てくる米兵の中には映画撮影の後、イラク戦争に行った者もいるという。暗い世相がジャズや歌謡曲によって癒されるように、戦後の日本は復興の道を歩んだ。それとは裏腹に米兵たちはまた別の戦争に行かなければならない。ジャズを楽しめるのが「この世」であり、「その外へ」行くとは戦争へ行くことなのだと思う。

2004/02/12(木)「人間蒸発」

 失踪した婚約者を捜す女性を描いた今村昌平のノンフィクション(1967年)。いや確かに前半は早川佳江という女性と俳優の露口茂が消えた婚約者の足跡を追うノンフィクションなのだが、映画は後半、次第にノンフィクションを離れていく。そしてめっぽう面白くなる。婚約者捜しよりも姉と婚約者の関係疑惑に焦点が置かれ、内容がどんどん先鋭的になっていくのだ。クライマックス、路上に集めた関係者を前に「これはフィクションなんだから、フィクションなんだから」と強調する今村昌平がおかしい。唖然呆然の傑作。

 婚約者を一緒に捜しているうちに早川佳江は露口茂を好きになり、カメラを意識して女優みたいになっていくという過程も面白いのだが、姉を追及するシーンが白眉。「2、3回一緒に歩いているのを見た」という目撃証言を元に早川佳江は(女優のような風情で)姉に事実を問いただす。「私は覚えがない。一緒に歩く理由がないじゃない」と涙を流す姉に対して、早川佳江は「それなら、(目撃した人と会って)話してみてよ」と答える。そこへ目撃者と今村監督が現れ、「確かに見た」「覚えがない」の水掛け論が始まる。さらに驚くのは「セット壊せ!」の号令とともに部屋の壁や襖が外されるシーン。どこかの部屋かと思っていたのは撮影所のセットだったのだ。

 虚実皮膜という言葉が容易に浮かぶ。今村昌平は実を元に虚を組み立て演出しているのだが、それによって実の部分にある人間性が浮き彫りにされていく。この姉妹、幼いころから仲が悪かったそうで、追及シーンで長年の確執が一挙に噴出してしまうのだ。人間を見つめる視点は他の今村作品と同じように鋭く粘着質である。

 元々は「24人の失踪者」というタイトルでテレビ番組を製作する企画だった。題材となる失踪事件のうち、警察官に「探している人が美人だから」と早川佳江を紹介されて、撮り始めたら撮影期間が長くなり(7カ月)、これ1本で終わってしまったという作品。ATGが出資した第1回作品でもある。DVDの特典映像には天願大介による今村昌平のインタビューが収録されている。

2004/02/12(木)「嗤う伊右衛門」

 「恨めしや、伊右衛門さま」。

 隠亡堀で再会した伊右衛門(唐沢寿明)に岩(小雪)がつぶやく。これほど「恨めしや」が逆説的に響く映画はないだろう。岩は愛する伊右衛門のために自ら身を退いて家を出た。伊右衛門は上司の与力・伊東喜兵衛(椎名桔平)の命令で伊東の愛人・梅(松尾玲央)を妻に迎えるが、形式的な夫婦である。しかし、子供だけは、自分の血を分けた子供ではないのに大切にしている。なぜか、というのが映画の中核をなすもので、自分は身を退いたのに未だに自分を愛して、民谷家を守るだけで幸せにはなっていない伊右衛門の姿が岩には「恨めしい」のである。従来の「四谷怪談」なら恐怖の絶頂となるこのシーンを究極の愛の姿に変えた演出は素晴らしい。それにも増して小雪の演技が素晴らしい。顔に大きなアザを持ちながら、心に澱んだところがなく、前向きにまっすぐに強く生きていく女性を演じて「ラスト・サムライ」以上の充実感がある。

 京極夏彦の原作は7年前、発売と同時に読んだ(直木賞の候補にもなった)。印象に残っているのは、澱んだドブ川のようなどす黒い心を持つ伊東の極悪人ぶりである。原作は「四谷怪談」を語り直したもので、岩のアザは伊右衛門に毒薬を飲まされたためではなく病気のためで、伊右衛門はもちろん宅悦(六平直政)や直助(池内博之)も悪人ではない。境野伊右衛門は切腹を命じられた父親の介錯をした後、浪人に身を落とした。御行の又市(香川照之)から民谷家への婿入り話を持ちかけられ、岩の顔を見ることなく、夫婦となる。最初はふとした感情の行き違いからののしり合うが、次第に伊右衛門は岩のまっすぐな心情を理解し、互いに愛し合うようになる。かつて岩を差し出すように岩の父親(井川比佐志)に命じていた伊東にはこれが面白くない。伊東は奸計を企て、岩と伊右衛門の仲を引き裂く。

 「魔性の夏」以来23年ぶりの「四谷怪談」の映画化となる監督の蜷川幸雄は筒井ともみの脚本を得て、原作にほぼ忠実な映画に仕上げた。御行の又市が宅悦と棺桶をかついで走るシーンの夕陽に染まった赤い画面や伊東の屋敷にある大きな壺に挿された紅葉など演劇的な要素も盛り込まれているのだが、それ以上に蜷川幸雄は3作目にして代表作と呼べる映画を監督したなという感じである。俳優たちの一人ひとりがくっきりと描き分けられ、緊張感を伴うドラマを展開していく。

 ただ、贅沢を言わせてもらえば、純愛の描写が少し足りないと思う。このためクローネンバーグ「ザ・フライ」のようにグロテスクでも純愛というほどテーマが昇華してはいない。描き方にもよるのだが、直助が自分の顔の皮を剥ぐシーンやクライマックスの殺伐とした復讐シーンはもう少しあっさりしていても良かったのではないか。

2004/02/11(水)「千年女優」

 「東京ゴッドファーザーズ」がキネ旬読者のベストテンで3位に入った今敏監督作品。引退した女優・藤原千代子が取材にきたスタッフに自分の人生を語り始める。回想は女優が主演した映画と重なり、時代を超えていき、事実と映画が入り混じる。恋した男を時代を超えて追い求める女、という感じのストーリーに仕上がっている。全然設定は異なるが、たぶんブラッドベリの短編で、聖人に会いたい男が追いかけているのに数分(数秒)の差で絶対に追いつけないという話を思い出した。

 主人公は原節子がモデルのよう。「あしたのジョー」とか、パロディ的シーンもちらほら。面白い構成で語り口のテンポもいい。もう少しSFにシフトしていると、ずっと好みの映画になったかもしれない。SFに突き抜けていかない踏ん切りの悪さが惜しい。