2004/03/31(水)「ドッグヴィル」
ロッキー山脈のどん詰まりにある村ドッグヴィルを舞台に村人の虚飾と偽善と悪意を暴き出すラース・フォン・トリアー監督作品。チョークで線を引いただけの最小限のセットといい、ことごとく映画的なものを廃しているようだが、繰り広げられる人間ドラマは密度が濃い。しかも、まったく意外なことに後味が悪くない。これは村人たちに起こるカタストロフがヒロインおよび観客にとってはカタルシスとして作用するからだ。いじめ抜かれたヒロインが最後に復讐する話、と短絡的にも受け取れてしまうのである。トリアーの前作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように、ただただ悲劇に悲劇を重ねて気色悪くなるようなことはない。何よりもヒロインを演じるニコール・キッドマンが抜群の魅力を見せる。村人たちにローレン・バコールやベン・ギャザラやクロエ・セヴィニーなど芸達者をそろえたことで、ドラマは重厚さを増し、2時間57分が少しも長くない。~
ヒロインは2発の銃声とともにドッグヴィルにやってくる。ワケありのその女グレース(ニコール・キッドマン)をかくまったトム(ポール・ベタニー)は女を探しに来たギャングから「見つけたら連絡をくれ。謝礼ははずむ」と名刺を渡される。若く美しいグレースに惹かれたトムは村人たちを集め、グレースを匿おうと提案する。2週間で村人全員から好意を得られなければ出て行ってもらうという条件付き。次の日からグレースは村の各家で働くようになる。大して仕事もないと思えたが、やらなくてもいいような仕事は大量にあり、グレースは必死に働く。2週間たち、村人は全員、グレースが残ることに同意する。しばらくは幸福な日々。しかし、徐々に村人たちの要求はエスカレートしていき、まるで奴隷のような扱いになる。ついにはリンゴ園を持つチャック(ステラン・スカルスゲート)がグレースをレイプする。トムの協力で村を出て行こうとしたグレースには車輪を鎖でつないだ首輪がはめられてしまう。トムはグレースを愛していると言いながら、協力したことはひた隠しにする。~
ドッグヴィルは村人わずか十数人の貧しい村。そこに住む人々が善良と思えるのは最初の方だけで、閉鎖的な社会に渦巻く欲望と悪意が徐々に明らかになる。看守と囚人の役割を振った実験を題材にした「es[エス]」で描かれたように、人間は環境によって変わるものだ。この映画でも強者と弱者(支配者と被支配者)の役割が固定されたために、グレースへの村人の振る舞いは傲慢そのものになってしまう。夫を寝取られた(と誤解した)ヴェラ(パトリシア・クラークソン)が、グレースが大事にしていた7個の人形を1個1個たたき割るシーンなどはぞっとする(ヴェラはラストで、その数倍の仕返しを受けることになる)。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」というJ・E・アクトンの言葉を持ち出すまでもなく、人間は力を得た瞬間から腐臭を漂わせるものなのだろう。~
異色の傑作という形容が実にぴたりと収まる映画。トリアーは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でアメリカのジャーナリストから「行ったこともない国の映画を作った」と非難されたことに怒り、アメリカを舞台にした3部作を作ろうと決意したという。「ドッグヴィル」はその第1作。しかし、これもアメリカ特有の話ではありえず、どこの小さな社会にも通用する内容になっている。その普遍性が良い。グレースの正体を慎重に隠して、それがラストに生きてくる脚本はうまく、これはトリアー作品の中ではベストではないかと思う。ただ、小さな不満を言わせてもらえば、やはり簡単なセットではなく、ちゃんとしたオープンセットで撮影し、微に入り細にわたった描写が欲しいところではある。
2004/03/26(金)「ペイチェック 消された記憶」
フィリップ・K・ディックの短編「報酬」をジョン・ウー監督が映画化。設定だけがSFで話としてはSF感覚はほとんどない。予想通り、アクションに比重を置いた作品になっている。ジョン・ウーだからそれは仕方がないけれど、これではディックの原作を選ぶ意味は少ないのではないか。謎解きの面白さもサスペンスも希薄。主演のベン・アフレック、相手役のユマ・サーマンとも特に目立ったところはない。VFXから見て、予算はかなりかかっていそうだが、限りなくB級の映画である。ウー監督の映画に必ず出てくる鳩はクライマックスに何の意味もなく飛ぶ。~
主人公のマイケル・ジェニングス(ベン・アフレック)はフリーのコンピュータエンジニア。企業の製品を研究してそれ以上の製品を短期間で作り、ライバル企業に売る。それがばれないように開発にかかった期間の記憶を消して多額の報酬をもらっている。ある日、マイケルはハイテク企業のオールコム社から3年間の研究に携わるよう依頼を受ける。報酬は9000万ドル以上。仕事が終わったら、3年間の記憶を失うことになるが、多額の報酬にひかれてマイケルは仕事を引き受ける。研究所にはパーティーで出会った女レイチェル(ユマ・サーマン)もいた。3年後、マイケルはオールコム社から自分の所持品として19個のがらくたが入った封筒を受け取る。ところが、報酬は4週間前に自分で辞退したと聞かされる。なぜかFBIもマイケルを追い始める。マイケルはレイチェルの助けを借りて謎を探り始める。~
面白くなりそうな設定なのだが、謎はすぐに解け、その後はアクション中心の展開となる。19個のがらくたがすべて役に立つアイデアは良いのだけれど、基本設定を発展させない脚本(ディーン・ジョーガリス)は非常にもったいない。いくらでも謎とサスペンスを盛り上げられるところなのだ。音楽(ジョン・パウエル)はバーナード・ハーマン風のもので、ヒッチコックの得意だった巻き込まれ型プロットに似た設定なのだから、そういう風な展開になると面白かったかもしれない。同じくジョン・パウエルが音楽を担当し、記憶をなくした男が主人公だった「ボーン・アイデンティティー」(2002年)と比較しても、この映画の出来は良くない。
2004/03/07(日)「K-19」
「父上と同じように収容所送りになる。あなたは軍歴を失う」
「我が家はそういう伝統らしい」
モスクワへの命令違反により害が及ぶことを案じる副艦長リーアム・ニーソンに対し、艦長のハリソン・フォードがさらりと答える。急造の原子力潜水艦K-19で起きた放射能漏れ事故で艦内は放射能汚染が進む。乗組員7人が“レインコートと同じ”ケミカルスーツで原子炉の修理を行い、被曝する。これ以上、乗組員を危険にさらせないと、ハリソン・フォードは軍務違反を決意するのである。
最初はハリソン・フォードにしては珍しい悪役かと思っていたら、最後でこういう逆転が待っていた。キャスリン・ビグローは分かっているなと思う。女性なのに、「マスター・アンド・コマンダー」のピーター・ウィアーよりよほど分かっている。
それにしてもひどい事故である。冷戦時代のタワケタ行動とはいえ、原子力潜水艦によって米軍に示威行動をするのがK-19の任務なのである。核兵器も積んでいるし、炉心溶融に至ったら、広島の原爆投下以上の惨事になるところだった。チェルノブイリ事故の際にも冷却水の中に飛び込んだロシア人がいたが、この映画で描かれるケミカルスーツでの補修も同じようなものだ。ちらりとうかがえる反共テーマを割り引いても、緊張感あふれる傑作だと思う。
2004/03/07(日)「黒水仙」
宮崎ロケがあった韓国映画。50年前の朝鮮戦争直後の悲劇が現在の殺人事件につながるアクションだが、脚本があまりうまくないのでB級にしかなっていない。宮崎ロケにはシーガイアや中央通(ニシタチ? 舞妓さんが歩いてる)のほか、犯人を追って高千穂峡→綾の大吊り橋→サボテンハーブ園→サンメッセ日南と舞台が移り変わるのに苦笑。まあしょうがありませんが。
監督はペ・チャンホ。俳優では不運な身の上(独房に50年間入れられた)の男を演じるアン・ソンギ(「眠る男」「MUSA」)の演技に見所がある。
2004/03/05(金)「マスター・アンド・コマンダー」
恐らく、ピーター・ウィアー監督は海の男の誇りとか心意気などを描くことに興味はないのだろう。パトリック・オブライアンのジャック・オーブリーシリーズ第10作「南太平洋、波瀾の追撃戦」を映画化したこの作品、嵐や砲撃、帆船内部の描写などビジュアルな部分は素晴らしいのにあまり話が盛り上がってこない。エモーションの高まりがないのである。これは主に主人公のキャラクターから来ており、ジャック・オーブリー、立派な軍人ではあっても海洋冒険小説の主人公としては魅力に欠ける。アカデミー10部門にノミネートされながら、2部門のみの受賞(音響編集賞と撮影賞)に終わったのはそんなところに要因があるように思う。
時代は1805年。英国海軍のフリゲート艦サプライズ号は霧の中から現れたフランスの船アケロン号から奇襲を受け、霧の中に逃げ込む。アケロン号は民間の私掠船で捕鯨船を襲っているらしい。船長のジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)は反撃のため、港に引き返すのをやめ、海上で船を修理してアケロン号を追う。サプライズ号よりも速く、大砲の数も多いアケロン号をどう倒すかがメインの話で、これに乗組員と士官の対立など過酷な船内の様子が絡む。
出てくるのは男ばかりなのに男臭さは意外に希薄だ。ウィアーに興味があるのは船長のジャック・オーブリーよりも医師で博物学者のスティーブン(ポール・ベタニー)なのだろう。だから本筋とは関係ないガラパゴス諸島に上陸するエピソードが必要以上に面白くなってしまう。
中盤、嵐の海に落ちた乗組員をオーブリーが泣く泣く見殺しにする場面がある。折れたマストがブレーキとなり、そのままでは船が転覆する恐れがあったためだが、このエピソードがその後の主人公の考えに影響を及ぼさないのは疑問。このほかのエピソードも本筋の物語と深くかかわってこない弱さがあり、原作がどうかは知らないが、脚本にはもう少し情緒的な工夫が必要だった。オーブリーの行動は軍人としては正しいのだろうが、共感できない部分が残るのだ。