2005/12/20(火)「男たちの大和」

「男たちの大和」チラシ エンドクレジットにがらがら声の聞くに堪えない歌が流れる。なぜ金払ってこんなヘタクソな歌を聴かされなければならないのかと腹が立ってくる。誰だ、この下手な歌手はと思ったら、長渕剛だった。かつて「二百三高地」でさだまさしの歌が流れた時は映画の良さをぶち壊しにしやがってと思ったものだが、この映画の場合は映画本編自体が優れているわけではない。監督は佐藤純弥。だから期待はあまりしていなかった。ただ、佐藤純弥には「新幹線大爆破」という唯一の大傑作がある。脚本が良ければ、化ける可能性はある。しかし、劇場に入ってパンフレットを見たら、脚本も佐藤純弥が手がけていた。この時点で期待は消滅した。2時間23分の映画の中で、どれか一つでも良いシーンがあればいいだろうという消極的な見方になった。

辺見じゅんの同名ノンフィクションの映画化で、大和の乗組員に焦点を絞った話である。語り手役は海軍特別年少兵として大和に乗艦した神尾克己。神尾は生き残り、現在は鹿児島県枕崎市で漁師になっている。そこへ同じく大和乗組員だった内田守の娘がやってくる。娘は父親の遺骨を大和が沈んだ海に散骨したかったのだ。神尾は自分の小さな船で大和の沈んだ海域まで娘を連れて行くことになる。そして大和の運命と乗組員たちを回想する。

一般の兵士に焦点を当てた戦争映画と言えば、「二百三高地」「大日本帝国」の笠原和夫脚本とついつい比較したくなる。「三反百姓には現金収入がないんです」。神尾の友人の西が「なぜ志願したのか」という神尾の母親に対してそう答える場面があるが、笠原和夫ならば、これを膨らませて観客の紅涙を絞っただろう。実際、「二百三高地」には東北の貧しい農村出身の男の話があった。戦争に行かされるのはいつも貧しい層なのだ。上が始めた戦争で庶民がばたばたと犠牲になる。そうした庶民の思いを描き尽くしていただろう、笠原和夫ならば。「さようならあ、おかあさーん」。出撃を前にした年少兵たちが本当にそう言ったのかどうかは知らないが、描き方としてもう少しリアルなものが欲しい。これに限らず、この映画のセリフは下手である。真に迫っていない。だから設定は悪くないのに心を動かされない。比較のために「二百三高地」のセリフを引用しておく。

 自分は悔いることは毛頭ありません…
 最前線の兵には、体面も規約もありません。
 あるものは、生きるか死ぬか、それだけです…
 兵たちは…死んでゆく兵たちには、
 国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは一切無縁です。
 焦熱地獄の底で鬼となって焼かれてゆく苦痛があるだけです…
 その苦痛を…部下たちの苦痛を…
 乃木式の軍人精神で救えますか!

佐藤純弥は誰かに脚本の応援を頼む気持ちはなかったのか。右も左もない、庶民の思いをすくい上げることのできる脚本家がこの映画には必要だったのだと思う。

映画は大和の実寸大セットを6億円かけて造ったそうだ。これがいかにも作り物という感じなのは興ざめだが、それ以上に戦闘シーンの工夫のない撮り方の方が問題だろう。大和の全体構造さえ分からず、爆撃を受けて死んでいく兵士を単調に積み重ねるのみ。撮影監督の阪本善尚は「パール・ハーバー」のようにならないようにと注意したそうだが、「パール・ハーバー」の方がましだった。全体としてひどい出来ではないのだが、凡庸を絵に描いたような映画。描きたい思いはあるのに技術が伴わなかったということか。もっとしっかり作ってほしかった。

俳優の序列では中村獅童と反町隆史がトップに来るが、映画の構成では神尾役の松山ケンイチが中心になってしまう(現在の神尾を演じるのは仲代達矢)。これも計算違いだろう。東映配給の大作らしく渡哲也や林隆三、奥田瑛二、長嶋一茂、本田博太郎、勝野洋などがチラリと顔を見せる。チラリとしか出てこない俳優では寺島しのぶが良く、中村獅童との絡みの部分でドラマの雰囲気が立ち上る。

2005/12/18(日)「香港国際警察 New Police Story」

 中盤のビルの屋上からロープで駆け下りるシーンから2階建てバスのアクションまでがこの映画の白眉だろう。ジャッキー・チェンのアクションにかける熱意には本当に頭が下がる。アメリカのアクション映画がつまらないのはこういう体技がないからで、「Mr. & Mrs. スミス」あたりの生ぬるいアクションで満足している人はアクション映画のファンではないと思う。ああ、そう言えば、「Mr. & Mrs. スミス」にもアンジェリーナ・ジョリーがロープでビルの上から優雅に下りるシーンがあった。あのシーンとこの映画のそれを比べれば、この映画の希少価値がはっきりするだろう。

 もちろん、映画の出来がどちらが上かと言われれば、それはまた別の評価基準(ストーリーのまとまりとか撮影とか俳優の演技とか)があるのだけれど、こういう体技にはどんな物量を使ったアクションでもかなわない。

 銀行強盗のグループに9人の部下を目の前で殺された刑事(ジャッキー・チェン)が若い巡査(ニコラス・ツェー)とともに強盗一味を追う物語。細部には破綻があるが、以前のジャッキー・チェンの映画に比べると、かなりまとまっている。ジャッキーがハリウッド映画に出たのはそういう部分ではプラスに働いたのだろう。ただし、ハリウッドに招かれていなければ、ジャッキーはこの種の映画をもっと撮っていたはずだ。

 監督はベニー・チャン。ツェーをはじめ、ダニエル・ウーやチャーリー・ヤンなど若い役者たちがいい。

2005/12/15(木)ゴールデングローブ賞ノミネート

 チャン・ツィイーが「SAYURI」で主演女優賞にノミネートされた。そうかあ。それほどのものかあ。監督賞で「キング・コング」のピーター・ジャクソンがノミネートされたのはうれしい。外国語映画賞で「カンフーハッスル」が入ったのは意外。作品賞のドラマ、コメディ・ミュージカル両部門の候補作10本は日本ではすべて未公開。こんなことも珍しいな。

 「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年)のリメイク。監督は「パーフェクト・ストーム」のウォルフガング・ペーターゼンと、なんと「アップルシード」の荒牧伸志がクレジットされている。VFX部分を担当したのか。ならば、VFXディレクターになるはずで、共同監督ということはかなりかかわっているのだろう。オリジナルは僕が洋画に目覚めるきっかけになった作品なので愛着がある。リメイク版も楽しみだ。

2005/12/13(火)8月のクリスマス

 「8月のクリスマス」パンフレットホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」(1998年)を長崎俊一監督がリメイク。ホ・ジノ版は見ていなかったのでDVDで見たが、細部の設定に細かな違いはあってもほぼ同じ話である。写真スタジオを営む30代の青年が若い女性と知り合う。青年は不治の病にかかっているが、家族のほかには知らせていない。女性にも知らせないまま静かに死を迎える。燃え上がる恋ではないが、徐々に徐々に気持ちが通い合っていく描写は好ましい。病名さえ出てこず、難病ものになっていない点もいい。ただし、いずれもそれはオリジナルにもあった美点である。

 ホ・ジノ版との違いはラストにだめ押し的な泣かせのシーンを入れていること。ホ・ジノ版では女性は青年が死んだことさえ知らない。キネ旬の「四月の雪」の批評で森卓也はそれに触れ、「やがて、女は写真館のショーウィンドーに、以前青年が撮った写真を見て微笑む。青年の死にまだ気づかない鈍感とエゴ」と書いている。この映画では青年が書き残した手紙を見つけた妹が死後にその手紙を女性に送る。女性はそれを読んで泣き崩れることになる。これはこれで悪くない。

 笑顔が印象的なハン・ソッキュにはかなわなくても、主演の山崎まさよしは無難な演技をしている。映画の出来もまずまずなのだが、なぜリメイクしたのかがよく分からない。こういう話が見たいなら、ホ・ジノ版を見ればすむこと。韓流ブームの今、わざわざ日本に置き換える必要があるのか。まして、この映画、大規模に公開されたわけでもない。長崎俊一がこの映画を気に入ってどうしても作りたかったわけでもないだろう。企画が貧困なのか。

 例えば、ピーター・ジャクソンが「キング・コング」をリメイクしたのは自分が大好きな映画を今の技術で作り直したかったからだろう。VFX技術が72年前とは比べようもないぐらいに進歩しているのだから、それは理解できる。あるいはアメリカ映画が他国の映画をリメイクするのは(企画の貧困さもあるが)、字幕ではヒットしにくいからという興行的な理由がある。この映画の場合は、どういう理由があったのか知りたくなる。同じ内容の映画にするなら、リメイクの意味は薄いと思う。

 出演者に関しては、ホ・ジノ版よりもいいと思った。女性を演じるのは関めぐみ、青年の妹に西田尚美、その友人に戸田菜穂、父親に井川比佐志、青年の友人役で大倉孝二。このスタッフ、キャストで別の映画を見たい気分になる。リメイク作品への観客の要求水準は高いのだ。

2005/12/13(火)「キング・コング」

 「キング・コング」パンフレット「失われた世界」+「美女と野獣」。1933年版の「キング・コング」(メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック監督)はそのようにして作られている。1976年版がダメだったのは「失われた世界」の部分を描かなかったからだ。恐らく、お仕着せの企画を引き受けたジョン・ギラーミンはそのように映画化しても何ら支障はないと考えたに違いない。もちろん、今回のピーター・ジャクソンはオリジナルの世界を愛しているから(これを見て映画監督になろうと思ったほどだから)、スカル(髑髏)島の部分を怒濤の展開にしてある。首長竜の暴走、小型肉食恐竜の襲撃、3頭のティラノザウルスとコングの戦い、巨大昆虫の襲撃、巨大コウモリとコングの戦いと延々と続くスペクタクルな場面はいずれも圧倒的な迫力に満ちている。もうここだけで怪獣映画の最高峰と思える出来である。

 当然のことながら、技術的な部分ではオリジナルをすべて凌駕している。しかし、オリジナルの影響力を凌駕できたかというと、そうはなっていない。それはジャクソン自身が一番よく分かっているだろう。実際、最初にテレビで33年版を見たときに感じたのは、なぜこんな大昔の映画にこんなにたくさんの怪獣が出てくるんだという新鮮な驚きだった。ストップモーション・アニメーションのぎこちない動きであるにもかかわらず、髑髏島は怪獣映画のファンにとって実に魅力的な場所だった。あの時代にああいう映画を作ったことは永遠に評価されることだと思う。

 ジャクソン版の映画のエンド・クレジットの後にはオリジナルの製作スタッフへの献辞が出る。「あなたたちの映画は後に続く者に勇気を与えた」。その勇気をもらった一人がジャクソンなのであり、この映画はオリジナルへのリスペクトに満ちている。オリジナルな映画が一番強いと分かっていながら、ジャクソンには自分の手で愛する映画をリメイクしたいという抑えきれない衝動があったのだろう。ジャクソンは33年版を愛する他の多くの観客と同じ視線でこの映画を作っている。だからこの映画に僕は強く惹かれる。

 1930年代の不況のニューヨーク。フーバー・ヴィルの様子なども描写した後、映画はヴォードヴィルの舞台に立つ喜劇女優のアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)に焦点を当てる。アンが仕事をしていた劇場は給料を未払いのまま興行主が逃げてしまった。別の興行主を頼ったアンはストリップティーズの劇場を紹介される。一方、映画監督のカール・デナム(ジャック・ブラック)は逃げた主演女優の代わりを探していた(さまざまな女優候補の中にフェイ・レイがいる。「別の映画を撮影中だ」との答えにカールが「ああ、メリアン・C・クーパーの映画か」と言うのがおかしい)。劇場の前でアンを見かけたカールは跡を付け、アンが果物屋のリンゴを盗んで店の主人からとがめられたところを助ける(これはオリジナルにもある場面だ)。映画に出るよう誘われたアンは脚本家が尊敬するジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)と知って承諾。ベンチャー号という小さな船で髑髏島へ向かうことになる。

 冒頭のニューヨークの場面はいいにしても、船の中の場面が少し長く感じる。ここはもう少し切りつめてもよかっただろう。髑髏島に着いてからは好調で、原住民の不気味なメイク、キング・コングの凶暴さもいい。アンがコングに殺されないのはオリジナルでは白い肌にブロンドの髪だったからだが、この映画ではアンのヴォードヴィルの才能が心を通わせる要因になっている。そして、役柄としては年を取りすぎていると思えたナオミ・ワッツの演技力がこの映画を情感豊かな説得力のあるものにしている。それはジャック・ブラックにも言えることで、才能があるんだか、詐欺師みたいなやつなのか判然としない監督役をブラックは実にうまく演じていると思う。

 ピーター・ジャクソンという人は決して天才肌の人ではないと思う。天才肌の監督だったら、この映画も2時間半程度にまとめただろう。ただし、こつこつと積み上げていく完璧主義者ではあり、どの画面もないがしろにはしていない。髑髏島でコングの住む場所から見る風景をアンが「ビューティフル」という場面はエンパイアステートビルの場面に呼応している。ニューヨークの路上をアンが静かにコングに歩み寄る場面の静けさも印象的だ。

 「指輪物語」「キング・コング」と自分の愛する世界を描き尽くしたジャクソンの次作はアリス・シーボルドの「ラブリー・ボーン」の映画化という。これまでとは全く異なるジャンルで、どういう映画になるのか楽しみだ。