2005/12/13(火)「キング・コング」(1933年)
ピーター・ジャクソンの新作が今週末から封切りなので久しぶりに見ておく。スカル(髑髏)島で次から次に恐竜が出てくるところなどサービス満点で、この映画がすべての怪獣映画の原点なのを再確認。といってもこの映画自体、「失われた世界」を参考にしているのだろう。1時間40分の映画のうち、出航前から島でキング・コングを捕らえるまでが1時間20分もあったのは意外だった。もう少し、ニューヨークのシーンが長いと思いこんでいた。
コングは凶暴で原住民を3人ほど食べたり、踏みつぶしたりする。ニューヨークでも何人か殺される。フェイ・レイは確かに叫び声を上げているだけで、これなら新人女優でも大丈夫だったのだなと思う。
ピーター・ジャクソン版は予告編を見ると、かなり原版に忠実な作りのようだ。ただし、上映時間は3時間7分もある。ニューヨークの場面を長くしたのだろうか。ちなみにジョン・ギラーミン版(1976年)は2時間14分。これがつまらなかったのは怪獣映画として作っていなかったからだろう。ギラーミン、怪獣映画の魅力を理解していなかったに違いない。下手なテーマを入れるよりは怪獣の魅力を素直に伝えた方がこういう映画は面白くなる。さて、ジャクソン版はどうか。IMDBでは今のところ評価が高いが、例によって最初はマニアが中心の投票だろうからもうしばらくしないと、分からない。
2005/12/13(火)「キング・コング」
「失われた世界」+「美女と野獣」。1933年版の「キング・コング」(メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック監督)はそのようにして作られている。1976年版がダメだったのは「失われた世界」の部分を描かなかったからだ。恐らく、お仕着せの企画を引き受けたジョン・ギラーミンはそのように映画化しても何ら支障はないと考えたに違いない。もちろん、今回のピーター・ジャクソンはオリジナルの世界を愛しているから(これを見て映画監督になろうと思ったほどだから)、スカル(髑髏)島の部分を怒濤の展開にしてある。首長竜の暴走、小型肉食恐竜の襲撃、3頭のティラノザウルスとコングの戦い、巨大昆虫の襲撃、巨大コウモリとコングの戦いと延々と続くスペクタクルな場面はいずれも圧倒的な迫力に満ちている。もうここだけで怪獣映画の最高峰と思える出来である。
当然のことながら、技術的な部分ではオリジナルをすべて凌駕している。しかし、オリジナルの影響力を凌駕できたかというと、そうはなっていない。それはジャクソン自身が一番よく分かっているだろう。実際、最初にテレビで33年版を見たときに感じたのは、なぜこんな大昔の映画にこんなにたくさんの怪獣が出てくるんだという新鮮な驚きだった。ストップモーション・アニメーションのぎこちない動きであるにもかかわらず、髑髏島は怪獣映画のファンにとって実に魅力的な場所だった。あの時代にああいう映画を作ったことは永遠に評価されることだと思う。
ジャクソン版の映画のエンド・クレジットの後にはオリジナルの製作スタッフへの献辞が出る。「あなたたちの映画は後に続く者に勇気を与えた」。その勇気をもらった一人がジャクソンなのであり、この映画はオリジナルへのリスペクトに満ちている。オリジナルな映画が一番強いと分かっていながら、ジャクソンには自分の手で愛する映画をリメイクしたいという抑えきれない衝動があったのだろう。ジャクソンは33年版を愛する他の多くの観客と同じ視線でこの映画を作っている。だからこの映画に僕は強く惹かれる。
1930年代の不況のニューヨーク。フーバー・ヴィルの様子なども描写した後、映画はヴォードヴィルの舞台に立つ喜劇女優のアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)に焦点を当てる。アンが仕事をしていた劇場は給料を未払いのまま興行主が逃げてしまった。別の興行主を頼ったアンはストリップティーズの劇場を紹介される。一方、映画監督のカール・デナム(ジャック・ブラック)は逃げた主演女優の代わりを探していた(さまざまな女優候補の中にフェイ・レイがいる。「別の映画を撮影中だ」との答えにカールが「ああ、メリアン・C・クーパーの映画か」と言うのがおかしい)。劇場の前でアンを見かけたカールは跡を付け、アンが果物屋のリンゴを盗んで店の主人からとがめられたところを助ける(これはオリジナルにもある場面だ)。映画に出るよう誘われたアンは脚本家が尊敬するジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)と知って承諾。ベンチャー号という小さな船で髑髏島へ向かうことになる。
冒頭のニューヨークの場面はいいにしても、船の中の場面が少し長く感じる。ここはもう少し切りつめてもよかっただろう。髑髏島に着いてからは好調で、原住民の不気味なメイク、キング・コングの凶暴さもいい。アンがコングに殺されないのはオリジナルでは白い肌にブロンドの髪だったからだが、この映画ではアンのヴォードヴィルの才能が心を通わせる要因になっている。そして、役柄としては年を取りすぎていると思えたナオミ・ワッツの演技力がこの映画を情感豊かな説得力のあるものにしている。それはジャック・ブラックにも言えることで、才能があるんだか、詐欺師みたいなやつなのか判然としない監督役をブラックは実にうまく演じていると思う。
ピーター・ジャクソンという人は決して天才肌の人ではないと思う。天才肌の監督だったら、この映画も2時間半程度にまとめただろう。ただし、こつこつと積み上げていく完璧主義者ではあり、どの画面もないがしろにはしていない。髑髏島でコングの住む場所から見る風景をアンが「ビューティフル」という場面はエンパイアステートビルの場面に呼応している。ニューヨークの路上をアンが静かにコングに歩み寄る場面の静けさも印象的だ。
「指輪物語」「キング・コング」と自分の愛する世界を描き尽くしたジャクソンの次作はアリス・シーボルドの「ラブリー・ボーン」の映画化という。これまでとは全く異なるジャンルで、どういう映画になるのか楽しみだ。
2005/12/13(火)8月のクリスマス
ホ・ジノ監督の「八月のクリスマス」(1998年)を長崎俊一監督がリメイク。ホ・ジノ版は見ていなかったのでDVDで見たが、細部の設定に細かな違いはあってもほぼ同じ話である。写真スタジオを営む30代の青年が若い女性と知り合う。青年は不治の病にかかっているが、家族のほかには知らせていない。女性にも知らせないまま静かに死を迎える。燃え上がる恋ではないが、徐々に徐々に気持ちが通い合っていく描写は好ましい。病名さえ出てこず、難病ものになっていない点もいい。ただし、いずれもそれはオリジナルにもあった美点である。
ホ・ジノ版との違いはラストにだめ押し的な泣かせのシーンを入れていること。ホ・ジノ版では女性は青年が死んだことさえ知らない。キネ旬の「四月の雪」の批評で森卓也はそれに触れ、「やがて、女は写真館のショーウィンドーに、以前青年が撮った写真を見て微笑む。青年の死にまだ気づかない鈍感とエゴ」と書いている。この映画では青年が書き残した手紙を見つけた妹が死後にその手紙を女性に送る。女性はそれを読んで泣き崩れることになる。これはこれで悪くない。
笑顔が印象的なハン・ソッキュにはかなわなくても、主演の山崎まさよしは無難な演技をしている。映画の出来もまずまずなのだが、なぜリメイクしたのかがよく分からない。こういう話が見たいなら、ホ・ジノ版を見ればすむこと。韓流ブームの今、わざわざ日本に置き換える必要があるのか。まして、この映画、大規模に公開されたわけでもない。長崎俊一がこの映画を気に入ってどうしても作りたかったわけでもないだろう。企画が貧困なのか。
例えば、ピーター・ジャクソンが「キング・コング」をリメイクしたのは自分が大好きな映画を今の技術で作り直したかったからだろう。VFX技術が72年前とは比べようもないぐらいに進歩しているのだから、それは理解できる。あるいはアメリカ映画が他国の映画をリメイクするのは(企画の貧困さもあるが)、字幕ではヒットしにくいからという興行的な理由がある。この映画の場合は、どういう理由があったのか知りたくなる。同じ内容の映画にするなら、リメイクの意味は薄いと思う。
出演者に関しては、ホ・ジノ版よりもいいと思った。女性を演じるのは関めぐみ、青年の妹に西田尚美、その友人に戸田菜穂、父親に井川比佐志、青年の友人役で大倉孝二。このスタッフ、キャストで別の映画を見たい気分になる。リメイク作品への観客の要求水準は高いのだ。