2006/11/22(水)「ヒストリー・オブ・バイオレンス」
エド・ハリスが出てくるところまでは予告編で知っていたが、さらにその後があるとは。サム・ペキンパー「わらの犬」を引き合いに出していた評論家がいたけれど、全然違う。日本のヤクザ映画、高倉健主演の映画にありそうな話だ。逆に言うと、そこが少し不満な点で、もっと意外性のあるストーリーが欲しくなってくる。
デヴィッド・クローネンバーグは肉体の変容から精神の変容を描くようになり、映画が難しくなった。これは単純明快なところがいい。しかも、変容のテーマはしっかりと引き継いでいる。
よくあるストーリーにもかかわらず、映画を際だたせているのは殺しの場面のリアルさで、後頭部を打たれて顔を半分吹き飛ばされながら、口をもごもごさせている場面とか、鼻を何度も突き上げられて鼻がもげてしまった男とか、暴力の衝動の激しさを物語っていて面白い。ヴィゴ・モーテンセンもマリア・ベロも好演。
上映時間が1時間36分と無駄がなく、シャープ。
2006/11/20(月)「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」
とんでもない傑作。個人的にはベストテン入り確実。全編にみなぎる緊張感と核心を突いたセリフの応酬に震えがくるほど。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したそうだ。当然だろう。
ヒトラー打倒のチラシをまき、ゲシュタポに逮捕されながらも良心と信念を曲げなかった21歳の女子大生の話。ゾフィーを演じるユリア・イェンチと取調官のアレクサンダー・ヘルトの主張は完全に平行線なのだが、取調官はゾフィーのその強固な姿勢に揺らぐ場面を見せる。ここでゾフィーが語るセリフが凄すぎるのだ。
「神を疑う者に教会は服従を求める」
「教会は意思を尊重するわ。ヒトラーは選択を与えないわ」
「なぜ若いのに誤った信念のために危険を冒す?」
「良心があるからよ」「過ちを認めても裏切りにはならない」
「でも信念を裏切るわ。間違った世界観を持ってるのはあなたよ。最善の事をしたと信じているわ」
ゾフィーは逮捕されて5日目に死刑判決を受け、即日処刑される。まるでジャンヌ・ダルクを思わせるような生涯だ。白バラとはゾフィーが所属していた組織の名前で、この映画のほかに「白バラは死なず」「最後の5日間」という2本の映画があるそうだ。そちらも見てみたい。
2006/11/19(日)「トゥモロー・ワールド」
英国ミステリの女王P・D・ジェイムズの原作を「天国の口、終りの楽園。」「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のアルフォンソ・キュアロン監督が映画化。子供が生まれなくなった未来社会を舞台にしているが、SFではなく、作りとしては逃亡劇・脱出劇の趣である。
テーマははっきりと反戦で、クライマックス、熾烈な市街戦の中で赤ん坊を見た敵味方の兵士たちが争いを中断するシーンにそれが色濃く、感動的に現れる。人類の絶滅が時間の問題と思われたところに出てくる赤ん坊だから、赤ん坊は単純に希望を、救世主の出現を明示しているのだ。人口抑制のために30年間、子供を産むことを禁じられた「赤ちゃんよ永遠に」(1971年)を思い起こさせる設定だが、この映画には当然のことながら、さらに絶望的な雰囲気が漂っている。子供がいないというのは未来がないということと同義であり、これが世界の国々の崩壊をもたらしたのだろう。好みから言えば、SF的な部分を補強し、スケールを感じさせるドラマにした方が映画は面白くなったのではないかと思うけれど、キュアロンの立ち位置が分かる力作である。原題のChildren of Men「人類の子供たち」が子供の重要さを表しているのに、なぜ「トゥモロー・ワールド」などという邦題になるのか理解に苦しむ。
2027年、地球上で最年少の18歳の少年が死ぬ。人類には18年間子供が生まれず、世界の国々は暴動によって崩壊。不法移民を厳しく制限することでイギリスのみが政府としての機能を果たしていた。しかし、ここも爆弾テロが相次ぎ、全体主義社会を思わせるディストピアだ。主人公のエネルギー省官僚セオ(クライブ・オーウェン)はある日、反政府組織のフィッシュから拉致される。リーダーはかつての妻のジュリアン(ジュリアン・ムーア)。セオ自身、かつては活動家だったが、今は酒に溺れ、体制側の人間になりきっている。ジュリアンはセオに文化大臣のいとこから通行証を都合するよう依頼する。ジュリアンはキー(クレア=ホープ・アシティ)という少女を「ヒューマン・プロジェクト」という世界組織に送り届けようとしていた。通行証は最初の検問までセオの同行が必要で、セオはジュリアン、キーらと、行動をともにする。途中、暴徒から襲撃され、ジュリアンは撃たれて死んでしまう。
主人公が連れ去られた赤ん坊と母親を探して市街戦の中を走り回るクライマックスの長いワンカットが話題だが、カメラに血糊が飛び散ったままの長回しは普通なら撮り直すところ。それともあれは臨場感を出すためだったのか。この市街戦のシーンは遠景の中で人が簡単に死んでいく。現在の中東情勢を思わせるものであり、キュアロンは未来に託して現在を照射しているのだ。エンドクレジットの最後にShanti Shanti Shanti(サンスクリット語で平和の意味)と出すのも子供のために反戦を訴える作品であることを明確にしている。
有名女優の使い方としては非常に効果的だとは思うが、ひいきのジュリアン・ムーアがすぐに退場するのは残念。マイケル・ケインの使い方も同じようなもので、この映画のテーマ重視の姿勢が表れている。
2006/11/15(水)「岸辺のふたり」
2001年のアカデミー短編アニメ賞を受賞した8分間の作品。監督はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。
原題は「Father and Daughter」。父親と小さな娘が自転車で岸辺にやってくる。父親は娘をギュッと抱きしめた後、一人でボートに乗ってどこかへ行く。娘は毎日毎日、何年も何年も自転車で岸辺を訪れ、父親が帰ってくるのを待つ。やがて娘は成長し、結婚し、子どもが生まれ、年老いる。そして、ある日…。
少女の人生を8分間に凝縮させたモノトーンの詩的な作品。セリフはない。「クレヨンしんちゃん
嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」で「今日までそして明日から」をバックに描かれる自転車のシーンをなんとなく思い出した。
この作品だけで感動するというよりも、ここからインスパイアされることで感動する作品なのではないかと思う。
2006/11/14(火)「デスノート The Last Name」
先に見た子どもから結末部分をネタバレで聞かされてしまった。最後のトリックを知って見たのだから、僕の感想はそれ以外の部分しかあてにならないことをおことわりしておきます。
主要登場人物は美男美女ばかり。ライトとLの頭脳戦を描きつつ、これは由緒正しくアイドル映画なのではないかと思う。男性は戸田恵梨香、片瀬那奈、上原さくら、満島ひかりに目を奪われ、女性は正統的な二枚目である藤原竜也と癖のある松山ケンイチに満足するのだろう。金子修介監督、ロマンポルノの時代から女優の趣味が良かった(というかカワイイ系に偏っていた。ガメラシリーズの中山忍もそうだ)が、当然のことながら女性客も意識してサービス精神旺盛だ。前作の瀬戸朝香、香椎由宇も見栄えが良かったけれど、今回もビジュアル面では抜かりがないのである。演技力云々よりも絵として映える女優を選んでいるとしか思えない。だから「デスノート」は前編も後編も結局のところ、気楽に楽しめるアイドル映画なのだろう。アイドル映画としてはストーリーも凝っていて良くできているので、恐らくアイドルを見るために再見する人もいるのではないか。という消極的な評価しか僕にはできない。そんな中、美男の範疇には入らない鹿賀丈史が原作とは違って重要な役回りになっているあたりが面白い。他の若い俳優たちはゲームの駒だが、鹿賀丈史はドラマを背負う役割。ここをもっと強調すると、映画はさらに面白くなっていたのではないかと思う。ドラマが軽く、切実な部分がないのはこうしたゲーム感覚映画の宿命か。
前編は原作の4巻目あたりまでを映画化したものだが、後編はその後の12巻までをグシャッと縮めて結末を映画独自のトリックに変えてある。原作で最も感心したのは、というか、そこにしか感心しなかったのだが、第7巻の驚愕的な展開。大きなトリックがぴたりと決まって着地する快感があった。ここは重要な部分なのでちゃんと映画でも描かれているが、短いので、衝撃は原作に到底及ばない。最初からライトの策略の一部として描かれるため、原作のように物語をひっくり返す驚きがないのだ。もっとも原作を読んでいる観客には原作通りに描いたにしても、もはや衝撃でもなんでもない。原作を読んだ観客に対するサービスが結末部分の変更で、残念ながら、先に書いたような事情があるので、僕には全然面白くなかった。ただ、小さく感じた原作のトリックよりはよく考えてあると思う。裏の裏の裏をかくだけの原作のトリックを映画でやると、分かりにくく、見ていてバカバカしくなっていただろう。
というわけで原作を全然知らず、白紙の状態で見た1作目の方が僕には面白かったが、それは当たり前のことなのだろう。それでも言えるのは、今回のラストのトリックはやはり映画独自だった前作のラストのトリックほどうまくできてはいないということ。前作のラストに感心したのはそれが単なるトリックではなく、夜神月という男が悪の主人公であることをはっきりと宣言する場面になっていたからだ。考えてみれば、あれも観客が思いこんでいる物語をひっくり返すトリックだった。今回はよく考えたトリック以上のものではないのである。トリックのためのトリックというレベルでは面白くない。ただ、金子修介の主要キャラを立たせる演出はそれなりに評価されていいと思う。死に神のCGや川井憲次の音楽も相変わらず良かった。
この日記ではなく、mixiの方の日記を読み返してみたら、原作を9巻まで読み終えた7月1日の日記に僕はこう書いていた。「気になるのは映画の後編がどこまで描くかということ。とても12巻までは無理だろう。第3のキラを出さずに第1、第2のキラ対Lの対決で終わるのではないか。映画の後味を考えれば、キラもLも両方死ぬ結末を僕なら考える」。まあまあの線ではないか。