2004/12/28(火)「エイリアンVS.プレデター」

 「エイリアンVS.プレデター」パンフレットダン・オバノンが最初にエイリアンの設定をした時、エイリアンは凶暴であると同時に高い知性を持つ異星人だった。これは基になったA・E・ヴァン・ヴォクト「宇宙船ビーグル号の冒険」の猫型宇宙人にしてもそうなのだから、当然と言えば当然の設定だった。リドリー・スコットの映画にそのあたりの描写はなかったから、その後エイリアンは凶暴なだけの異星人として描かれ続け、この映画では“宇宙トカゲ”とまで言われる始末。知性があるとも思えない本能だけの生物みたいになってしまった。どう考えてもこれでは人類の味方にはなり得ない。その点、プレデターは戦闘を好む異星人で、優秀な戦士には地球人であっても敬意を払う。だからこの映画でプレデターが人間寄りの存在に描かれることもまた当然なのだった。

 2大人気キャラクターを一緒に登場させての映画化は昨年の「フレディVS.ジェイソン」のように珍しいことではない。問題はどうストーリーを作るかなのだが、この映画、そのあたりに手を抜いている。両者を戦わせる設定だけを作って、それ以上のものを用意していないので、物足りないのだ。監督・脚本は「バイオハザード」のポール・W・S・アンダーソン。どこまでいってもB級の人なので、この映画もこちらの予想の範囲を超える部分は1ミリたりともなかった。凡庸な映画なのである。加えてヒロイン役のサナ・レイサンがこういう映画のヒロインとしては機能していない。それこそ「バイオハザード」のミラ・ジョヴォヴィッチ級の美人女優でなければ、こういう映画は成り立たないと思う。

 ウェイランド社の探査衛星が南極の地下600メートルにあるピラミッドを発見する。社長のチャールズ・ビショップ・ウェイランド(ランス・ヘンリクセン)は調査隊を組織し、南極へ向かう。調査隊に加わったのは冒険家で調査ガイドのレックス(サナ・ネイサン)、考古学者のセバスチャン(ラウル・ボヴァ)、化学工学者のミラー(ユエン・ブレムナー)など。調査隊はピラミッドの真上にある捕鯨基地からピラミッドまで続く円形にえぐり取られた穴があるのを見つける。穴は一夜にして掘られたらしい。調査隊は穴からピラミッドの中に入り、そこで“生け贄の間”を発見。その真下の部屋の棺から3丁の武器らしいものを取り出すと、ピラミッドは封鎖され、一行は中に閉じこめられてしまう。そして生け贄の間ではエイリアンの卵からフェイス・ハガー(幼虫)のエイリアンが飛び出し、3人が犠牲になる。さらに多数のエイリアンがピラミッドの中にはいるらしい。そこへ宇宙船から降り立ったプレデターもやってくる。このピラミッドはプレデターがエイリアンの狩りをするために作ったものだった。

 調査隊のメンバーは次々に殺されて、あっという間にレックスだけになってしまう。有名俳優はランス・ヘンリクセンを除けば出ていないのであっさり殺されるのも仕方がない。ヘンリクセンの役は「エイリアン2」に登場したアンドロイド、ビショップの基になった人物らしく、映画の序盤にそれをイメージした場面を用意している。主演女優だけでなく、役者の弱さが映画の弱さにそのままつながっている。エイリアンとプレデターが主役には違いないが、人間側にもそれに対抗する強烈なキャラクターが必要だったのだと思う。

 パンフレットに雨宮慶太が書いているが、「プレデター2」にはプレデターの戦利品としてエイリアンの頭蓋骨が登場した。だからこういう映画の企画も分かるのだが、どうせ作るなら、もう少し面白い話で映画化してほしかったところ。エイリアン・クイーンなどのVFXは良い出来なのにもったいない。

2004/12/27(月)「ゴジラ Final Wars」

 「ゴジラ Final Wars」パンフレット「ゴジラ」シリーズ最終作。冬休みの平日、第1回の上映開始だが、子供の姿はうちの子供以外になかった。観客は10人足らず。ヒットしていないんですかね。

 2000年の「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」以降の4作はそれまでのシリーズ作品よりワンランク上がったという印象を持っている。手塚昌明、金子修介という怪獣映画を本当に好きな監督が作っていたからだ。手塚昌明は普通のドラマの演出に弱い部分が残るにせよ、ゴジラを一番分かっている監督であることは間違いない。大島ミチル、大谷幸の音楽も伊福部昭をリスペクトしつつ、独自の世界を築いていたと思う。今回は監督が北村龍平、音楽はキース・エマーソン。まずゴジラとは合わない布陣である。北村龍平はゴジラに対して特別な感情を持っているはずはないし、キース・エマーソンに至っては劇場でゴジラを見たことがあるかどうかさえ疑わしい。そんな2人だから、ゴジラシリーズとは別の映画と思った方がいい。いや、これが最終作でなければ、こういう映画化もありかなと思うけれど、最終作としては軽すぎる。エマーソンの音楽が軽さに拍車をかけている。あまり目新しくないストーリーとドラマ部分の大雑把な演出が加わって、決定的にダメではないけれど、最終作としては大いに不満が残る。

 物語は過去のゴジラシリーズを集約したような作りである。世界各地に出現した怪獣たちを謎の宇宙船が一挙に宇宙船の中に収容する。宇宙船に乗っていたのはX星人(地球人には発音できないからX星人と呼んでくれと言う)。X星人たちは地球に妖星ゴラスが接近していると警告し、それに対抗するには地球の軍隊を一カ所に集約する必要があるという。ミュータントを集めたM機関の尾崎(松岡昌宏)と国連の美人科学者・美雪(菊川怜)はそれを嘘であると見抜き、テレビでX星人の正体をばらす。X星人たちは地球人を家畜にしようと考えていたのだ。怒ったX星人たちは再び怪獣を出現させ、世界の各都市は滅ぼされてしまう。怪獣はいずれも遺伝子にX星人と同じM塩基を持ち、X星人に操られていたのだ。尾崎たちはM塩基を持たず、X星人に操られないゴジラを復活させ、怪獣たちに対抗させようとする。

 過去の怪獣を総登場させ、「怪獣大戦争」(1965年)に出てきたX星人まで登場させているが、これはシリーズへの愛情というよりも安直な作りではないかと思えてくる。マトリックスやX-メンの要素までコピーしているのを見ると、なおさらその印象が強くなる。冒頭の雑な演出など頬が引きつってくるほどの出来。南極で轟天号がゴジラと戦っている。轟天号はなんとか、ゴジラを氷の中に封じ込めることに成功するのだが、ここでの描写は描写とは言えないほどのものである。それはこれに続く新轟天号とマンダの戦いにも言える。北村龍平、演出がまるでなっちゃいない。キネマ旬報1月上旬号で樋口尚文はこう書いている。「ちょっとどこがどうとは言い難いほど惨憺たる出来である。その手の施しようのないありさまは、(中略)もうそれに腹が立つというよりは、見る側の惻隠の情をかきかてるくらいに痛ましい。(中略)どうしてこうも『映画』の片鱗すら組み立てることができないのか」。

 僕はそこまでは思わないが、この映画のドラマ部分や構成がかなり雑であるとは思う。日本にいたゴジラが突然、インドネシアに行ってクモンガと戦う場面には驚いた。そしてすぐに日本に戻ってくるのだから、さらに驚く。演出の大雑把さとはこういう部分を言う。細部にこだわらない監督はダメである。ただし、小学3年生の長男は見終わった後、「面白かったねえ」とつぶやいた。お子様には満足できる仕上がりなのだろう。

 そんな不満の残る映画の中で、唯一良かったのはラドンが羽ばたいて飛ぶ姿。衝撃波を周囲にまき散らしながら飛ぶラドンは過去のどの作品よりもリアルで、もっと見たかった。カマキラスとモスラの飛翔シーンも良く、VFXスタッフは頑張っていると思う。ゴジラはもう終わりにしていいから、次は「ラドン」のリメイクを望みたい。

2004/12/24(金)「ゴシカ」

 ハル・ベリー主演のホラー。ちっとも怖くないのが困ったものだ。女子刑務所の精神科医ハル・ベリーがある夜、帰宅途中に下着姿の少女に出会う。少女のそばに近づいたベリーはそこで記憶が途切れる。気づくと、自分が勤務していた刑務所の中。ベリーは夫を殺したとして逮捕されていた。いったい何が起こったのか。孤立無援のベリーはなぜかあの少女の幽霊を見るようになる。

 因縁話に少女暴行犯の話を絡めてというプロットは当世風だが、話の展開の仕方は古い。ベリーはB級映画にも出る方針らしいからいいのだが、ペネロペ・クルスはほとんど演技のしどころのない役柄で、出る意味が分からない。監督はマシュー・カソビッツ。

2004/12/24(金)「ぼくんち」

 休みなのだが、まだ映画館に行くのは不安なので家でDVDを見る。阪本順治「ぼくんち」(2003年、キネ旬ベストテン10位)を見ていたら、これがまた肋骨に悪い出来。おかしくて何度も笑って苦しんだ。阪本監督作品としてはちょっと変わった映画だけど、人物のおかしさは「どついたるねん」あたりと共通する。子役2人もかわいいし、観月ありさに何より感心。中盤、トラックの荷台に立って、タンカを切るシーンなどぴたりと決まっている。傑作だと思う。

 しかし大笑いしたのは本編ではなくて、メイキング。岸部一徳と3人の子供のビニールハウスの場面で、阪本監督は岸部一徳に「ここで何かやってください」と頼んだそうだ。アドリブである。そこで岸部一徳が何をやったかというと、飛んでいるハエを手で捕まえる仕草を2回やった。「下妻物語」で樹木希林がやった仕草ですね。これ、本編の方でも笑ったが、アドリブと聞くとますますおかしくなる。

 「ぼくんち」の衣装合わせでは、あまりにもボロボロの衣装に温厚な岸部一徳もさすがにムッとしたそうだが、この人ははまり込むとホントにおかしい。

2004/12/23(木)「ラブ・アクチュアリー」

 クリスマスに見るにはぴったりのラブストーリー。クリスマスの5週間前からクリスマス当日を経て、その1カ月後まで、いくつかの愛が並行して描かれ、それぞれにうまい。監督は「ブリジット・ジョーンズの日記」の脚本家リチャード・カーティスで、これが監督デビューという。それにしては手慣れたものである。

 親友の恋人を好きになってしまった男の思い(これはなんせ、相手がキーラ・ナイトレイですからね。仕方ありません)とか、首相と秘書の秘めた恋とか、作家とポルトガル人メイドの恋とか、おかしくて切なくて悲しくてハッピーなさまざまなパターンが用意されている。終盤にはいくつものクライマックスがあって、お腹いっぱいという感じ。

 カーティスの音楽のセンスはよく、ジョニ・ミッチェルの歌がエマ・トンプソンの悲しみの姿にかぶさる部分などは情感がある。ヒュー・グラントは首相にはとても見えない(実際のブレアの方がハンサムだ)が、作品の傷とも言えない。ローラ・リニーが家まで送ってきた男に「1秒だけ待っていてくださる」と言った後の場面はおかしかった。このセリフは終盤、別の人物が口にする。

 多数の出演者を描き分け、たくさんのストーリーがあるのにすっきりした印象にした脚本のレベルは高い。これと出演者の好演が相乗効果を上げた佳作と言える。カーティスは「ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12ヶ月」の脚本も担当している。