2004/08/06(金)「赤目四十八瀧心中未遂」

 「赤目四十八瀧心中未遂」の寺島しのぶ主人公の生島に新人の大西滝次郎をキャスティングして、その周りにベテランを配置した結果、映画は主人公よりも、主人公から見た世界を浮かび上がらせる。実際、食い詰めて東京から釜ケ崎を経て尼崎に流れてきた生島は流されているだけで、自分からアクションを起こそうとはしない。四畳半の安アパートで焼き鳥用のモツをさばき、串を刺す毎日を「これでいいんです」と受け入れている。仕事を世話した勢子ねえさん(大楠道代)や刺青師の彫眉(内田裕也)の圧倒的な存在感に比べれば、自信を消失した空気のような存在である。大西滝次郎はせりふ回しも含めて演技にぎこちない部分が残るが、それでもかまわないほど、この映画は主人公を描くことにそれほどの興味を持っていないようだ。生島の過去は暗示されるだけで、明らかにされない。生島は同じアパートに住む綾(寺島しのぶ)から、赤目四十八瀧へと死出の旅路に誘われても流されていくことになる。

 車谷長吉の直木賞受賞作を荒戸源次郎監督が映画化して、昨年のキネマ旬報ベストテン2位にランクされた。荒戸源次郎にとっては「ファザーファッカー」以来8年ぶりの作品となる。普通、心中を題材にした映画と言えば、男女の情念が渦巻くものだが、この映画にそれは希薄だ(だから心中未遂に終わるのだ)。生島と綾が交わる描写はそれなりに官能的なのだが、荒戸源次郎監督の演出には枯れた部分があり、例えば、こうした題材を撮るのにふさわしいと思える全盛期の今村昌平や神代辰巳の粘りのある描写に比べれば、物足りない部分も残る。つまり性描写を突き詰めることによる生と性の迫力みたいなものには欠ける。

 しかし、少し現実離れした描写を入れたことに、この映画を荒戸源次郎が撮った意味があるのだと思う。土管の中のガマガエルや少年の人形を子どものように扱う老夫婦の描写などは生島と綾の生に対する死を象徴している。荒戸監督はシネマプラセットの第1作で生と死の境界線を描いた「ツィゴイネルワイゼン」(鈴木清順監督)をどこかで引きずっているのかもしれない。

 赤や白のワンピースを着た寺島しのぶは掃きだめのような環境の中で屹立しており、映画がメインに描いている、あるいはもっとも強い印象を与える存在である。極楽にいる鳥という迦陵頻迦(かりょうびんが)の刺青を背中に彫っている綾は生島にとって生と性と聖なるものを象徴した存在にほかならない。生島も綾もぎりぎりのところで生きており、それをお互いに感じたからこそ惹かれ合うのだろう。この映画の魅力の多くは綾を演じた寺島しのぶの肉感的であると同時に清楚さを感じさせるたたずまいから生まれている。

 2時間39分、長いとは思わなかった。描写そのものは平易でユーモアも随所にある。平易な描写の総体をどう解釈するかは考える必要があるのだけれど、深く考えずに監督の差し出す描写を楽しむだけでもいいのではないかと思う。かつて鈴木清順は「映画が分かりにくいのは俳優の演技が悪いからです」と言ったが、少なくともこの映画、俳優の演技は実に分かりやすい。

 化け物のような容貌の沖山秀子、にっかつロマンポルノではおなじみだった絵沢萌子、狂気をにじませる大楽源太、卑屈で凶暴な新井浩文、ヤクザがぴったりな赤井英和、麿赤児など脇役の演技がいちいち抜群だ。コンクリート詰めの場面にポップな音楽を流す千野秀一のセンスにも感心した。

2004/08/05(木)「キング・アーサー」

 「キング・アーサー」パンフレットアーサー王伝説を「トレーニング デイ」「ティアーズ・オブ・ザ・サン」のアントワン・フークア監督が映画化。ジョン・ブアマン「エクスカリバー」のような剣と魔法のファンタジーを期待したら、魔法の部分はさっぱりなく、剣が中心の活劇映画になっていた。「エクスカリバー」は15世紀にまとまったトーマス・マロリー「アーサー王の死」を基にしていたのに対して、この映画はアーサー王伝説そのものを取り上げているからだ。だから、魔術師マーリンは魔術師ではなく、ローマ帝国に反逆するブリテン人のリーダーであり、円卓の騎士たちの聖杯を求める旅のシーンもない。だからといって、つまらないかというと、そんなことはなく、中盤までは傑作と思った。いや、物語に入るまでの序盤の処理はあまりうまくないので、中盤はとても面白かったと言うべきか。「ロード・オブ・ザ・リング」には負けていても、この中盤があるだけで「トロイ」には十分勝っている。ジェリー・ブラッカイマー製作の映画にしては珍しく、骨太の映画に仕上がっている。

 中盤、アーサーたちは最後の任務でハドリアヌス城壁を越えて、北の地方にいる一家を助けに行く。そこでアーサーたちが見たのはキリスト教の布教を理由に現地の人々を苦しめる愚かな司祭。アーサーは懲罰を受けている長老を助け、閉じこめられた蛮族ウォードの女と子どもを救出する(ここでようやくヒロイン、キーラ・ナイトレイが登場するのだった)。自由と平等をローマ人の司祭から教わったアーサーはここで行われていることを見て、愕然とする。表面とは裏腹に腐敗したローマ帝国に対する怒りがわき上がってくるのだ。村には凶暴なサクソン人が迫っており、アーサーたちは村の人々も一緒に連れて帰ろうとする。ここから氷った湖上でのサクソン人との対決までがこの映画の白眉。フークア監督は文句の付けようのない場面に仕上げている。

 映画はローマ帝国とウォードとサクソンの三つどもえの状態から、アーサーとウォードが手を組んでサクソンの侵略に対抗する流れを見せ、クライマックスはハドリアヌス城壁でのスペクタクルな戦闘シーンが描かれる。ここは黒沢明「七人の侍」風の展開で、スペクタクル的にはあまり演出がうまいとは言えない。しかし、ローマ帝国の兵士として15年間戦ってきたアーサーがそれと決別して民衆のための戦いを繰り広げるわけだから、心情的には納得のいくものとなっている。

 アーサーを演じるクライブ・オーウェンが地味なので、最初に登場するランスロット(ヨアン・グリフィス)が主人公かと思った。他の出演者もグウィネヴィア役のキーラ・ナイトレイを除けば、地味な役者ばかりだが、それぞれに渋い味を出していて悪くない。ナイトレイは薄汚れた格好で登場した後、お約束通り、美女に変貌していく。弓の引き方も決まっており、好感度が高い。

2004/07/28(水)「シュレック2」

 「シュレック2」パンフレット前作は“政治的に正しい”おとぎ話にギャグとパロディを散りばめた作りだったが、ラストに納得はするものの、あれで本当に幸せだったのかどうか疑問も残った。フィオナ姫の魔法が解けてみたら、絶世の美女になるのではなく、怪物になってしまったからだ。このオチは意外ではあるし、人は外見じゃないよというのは分かるのだが、どうもめでたしめでたしという感じではない(もちろん、製作者たちはそんなことを狙ってるわけではないだろう)。いや、美女になったら幸せで、怪物になったら不幸と考えるのは政治的に正しくないし、製作者たちのシニカルな視点も分かるのだけれど、一般大衆の感覚からは離れている。

 今回はその疑問を払拭するような話である。ラストでフィオナ姫は能動的にある選択をする。前作との違いはここにある。他人まかせではなく、自分の意思で決める。そこに心地よさがあり、人は外見じゃないという主張も説得力を増すのだ。大衆性にシフトしたからこそ、アメリカでは前作以上にヒットしたのだろう。

 前作以上にギャグとパロディが散りばめられている。子どもを無視して、その親の世代をターゲットにしたようなパロディも多い。優れたパロディは元ネタが分からなくても笑えるものだが、この映画のパロディもそのようで、子どもは大笑いしていた。

 今回の新キャラクターである長靴をはいた猫がシュレックの洋服の下から飛び出すのは「エイリアン」だし、終盤に登場する巨大クッキーマンは「ゴーストバスターズ」のマシュマロマンを彷彿させた。ついでに書くと、馬車から出てきたシュレックとフィオナ姫を見て、待ち受けた人々が唖然とした表情を見せるのは個人的には「新・猿の惑星」のコーネリアスとジーラが宇宙船から降りてきたシーンを思い出さずにはいられない。ドンキーが「ローハイド」のテーマを歌ったりして、出てくるパロディは年季が入っている。すべったギャグがないのも立派なものである。

 ドリームワークスの3DCGアニメは「ファインディング・ニモ」などのピクサーより表現がリアルだ(ピクサーはわざと漫画映画っぽい表現を残している節がある)。このリアルさがキャラクターの表情の細かいリアクションにつながっており、シュレックとフィオナ姫にまとわりつくドンキーの絡みをはじめ、実写以上にキャラクターの表情が豊かである。

 あと、感心したのはクライマックスのミュージカルシーン。アレンジした「ヒーロー」とともに展開するこのシーンは、本当に楽しい。ミュージカルが血肉となった国のアニメでなければ、こういう楽しさは表現できないだろう。

 次女を連れて行ったので、僕が見たのは日本語吹き替え版。前作同様、シュレックは浜田雅功、フィオナ姫を藤原紀香、ドンキーを山寺宏一が吹き替えている。シュレックの関西弁も悪くない。長靴をはいた猫は竹中直人。

2004/07/20(火)「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」

 「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」パンフレット昨日、子ども3人を連れて見に行った。1軒目の映画館は満席で入れず。30分後に上映が始まる別の映画館に行く。こちらは客が少なくて快適だった。

 前半はこれまでの2作と同工異曲で退屈だが、2種類の狼男と時間テーマが絡む後半の展開にちょっと感心した。2作目では目立たなかったハーマイオニー(エマ・ワトソン)が今回、大活躍するのもいい。ただし、これまでの2作より小味な感じがする。スケール感がないのだ。上映時間が2時間22分と最も短いことが影響しているのではなく(子ども向けなのだからもっと短く、1時間30分程度でいい。前半の描写には無駄が多いと思う)、ハリー・ポッターが戦う敵のスケールが小さいのだ。というか、今回、悪役らしい悪役は1人だけではないか。しかも本筋の敵ではない小悪人であるから、何だか物足りない。

 子ども向けの丁寧なファンタジーではあるが、大人を満足させるほどの出来にはなっていない。第1作が公開されたころは、同じファンタジーということで「ロード・オブ・ザ・リング」と比べられたが、今となっては「ロード…」と比較すべくもない。

 アズカバン牢獄から凶悪な囚人シリウス・ブラックが脱獄する。ブラックはハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)の両親をヴォルデモード卿に引き渡し、死に追いやった張本人で、今度はハリーの行方を追っているらしい。ホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)は学校にアズカバンの看守ディメンダーを呼び寄せ、警護に当たらせる。しかし、ブラックは密かに学校に近づいていた。

 まるで死に神のようなディメンダーの存在は面白い。これは看守とはいっても善玉ではなく、魂を吸い取る悪の存在にもなりうるらしい。VFXはこのディメンダーのほか、馬と鳥を組み合わせたようなバックビーク、狼男などよくできている。ロン役のルパート・グリントを含めて主役の3人は1作目からすると、随分成長した。この3人には好感が持てるので、原作とは離れてもいいから3人の成長を生かしたシリーズにしてほしいと思う。

 監督はクリス・コロンバスからアルフォンソ・キュアロン(「天国の口、終りの楽園。」)に代わった。キュアロンはシリーズのテイストを残しつつ独自のものを出したかったのかもしれないが、独自の味わいを出すまでは至っていない。シリウス・ブラック役のゲイリー・オールドマン、トレローニー先生を演じるエマ・トンプソンとも演技派だが、この映画では特に評価すべきところはなかった。

 上の子ども2人は原作を読んでいる。感想を聞くと、「いっぱい省略してあった。小説の方が面白い」(長女)、「映画の方が面白かった」(長男)ということだそうだ。

2004/07/15(木)「スパイダーマン2」

 「スパイダーマン2」パンフレット同じサム・ライミ監督による2年ぶりの続編。ダニー・エルフマンの音楽に乗って、前作のストーリーをイラストで見せるオープニングがいい感じである。前作の話をそのまま引きずっており、スパイダーマンことピーター・パーカー(トビー・マグワイア)とMJことメリー・ジェーン・ワトソン(キルステン・ダンスト)の恋の行方と、グリーン・ゴブリンだった父親(ウィレム・デフォー)を殺され、スパイダーマンに復讐心を燃やすハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)のドラマを軸にしている。これに絡めて、核融合実験の失敗から機械のアームを持つ怪人ドック・オクとなった科学者ドクター・オクタビウス(アルフレッド・モリーナ)とスパイダーマンの対決が描かれる。

 前作は「大いなる力には大いなる責任が伴う」というテーマを抱えながらも、ドラマ部分が軽かったのが不満だったので、ドラマ重視の作りは悪くない。高層ビルの壁面で展開されるアクションなどVFXも充実している。十分に面白いことを認めた上で不満な点を書くと、主人公の悲壮感が決定的に足りないと思う。どうもスパイダーマンとして生きる主人公の苦悩が響いてこない。その苦悩とはMJへの思いである。MJが自分と親しくなれば、悪いやつらから狙われる。だからパーカーはMJに思いを打ち明けられない、というわけだ。

 このほかパーカーが家賃の支払いを迫られたり、仕事や大学の講義に遅刻したり、伯母が銀行からの融資を断られたりするエピソードがあるけれど、こうしたエピソードがスーパーヒーローものに必要だったかどうか疑問に思う。もちろん、サム・ライミは人間的な部分を強調したいがためにこうしたエピソードを入れたのだろうが、これはスーパーヒーローのキャラクター形成方法としてはほとんど間違っているとしか思えない。

 宿敵ワルダスターを倒すために民間人を巻き添えにした「宇宙の騎士テッカマン」とか、近いところで言えば、地球生態系を守るために人間の犠牲をも厭わない「ガメラ3 邪神覚醒」のガメラの設定を見習って欲しいところだ。こういう悲壮な決意を持つ孤高のヒーローに比べると、サム・ライミのスパイダーマンはいかに表面で深刻な問題を抱えていても根底にはアメリカらしい脳天気さがある。スパイダーマンはNYの人々からスーパーマンのように正義の味方として認知されており、人々に理解されない孤高のヒーローではない。登場人物が深刻に悩んでいても基本的に明るいのはライミの資質が影響しているのかもしれない。僕のスパイダーマン原体験が平井和正原作、池上遼一作画の悲壮な スパイダーマン(このコミックは現在、メディアファクトリーから再刊中だ)にあるので、そういう部分に不満を感じてしまう。

 主人公はスパイダーマンであることをそのコスチュームとともに一度は捨て去るが、伯母の言葉とMJをドック・オクにさらわれたことで復帰を決意する。このエピソードは「スーパーマンII 冒険篇」などを参考にしたのだろう(ロイス・レーンと結婚するためにスーパーマンの能力を捨てたクラーク・ケントは街のチンピラに叩きのめされたことと、スーパー3悪人が行っている悪行を見て復帰を決意する)。「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉は「大いなる力」を持った者は不用意にそれを捨てることは許されないという意味もあるのだと思う。スーパーヒーローには個人の幸せよりも社会の平和を優先する義務があるのだ。

 だからクライマックス、ドック・オクがブレーキを壊して暴走した列車をスパイダーマンが身を挺して止める場面は、それを象徴している場面と言える。ここでスパイダーマンは前作同様、マスクを脱ぎ去る。そしてMJにもハリーにも素顔をさらすことになる。明らかに第3作が作られそうなラストの処理だが、スパイダーマンの苦悩の一つが解決したことで、この路線での第3作は相当に脚本を練らないと難しいような気がする。バットマンシリーズのように第3作ではそういう部分をばっさり切り捨てて映画化することもできるが、それではあまりにも芸がない。サム・ライミ、次が正念場だ。