2003/09/19(金)「ロボコン」
高専のロボットコンテストをテーマにした理数系の青春映画。「ウォーターボーイズ」などのスポ根映画のように落ちこぼれチームが勝っていく物語を古厩智之監督は淡々と端正に演出し、好感の持てる作品に仕上げた。クライマックスの全国大会は長回しで撮影しており、本当の大会のように思える出来。そこまでの物語を必要以上にドラマティックにせず、大会の場面で一気に盛り上げる演出はうまい。この大会の試合展開も出場するロボットのバラエティと内容の多彩さで面白い(手も足も出ないと思われた相手チームの「八の字積み」を攻略する手法に感心した)。しかし、一番の魅力は映画初主演の長澤まさみ。これまでの出演作(「クロスファイア」「なごり雪」「黄泉がえり」)ではほとんど印象がなかったが、何事にもやる気のなかった女の子が競技に燃える姿を素直にさわやかに好演しており、これでブレイクしそうな感じがある。
映画で描かれるロボットコンテストは3つの台にラジコン操作のロボットで段ボールの箱を積む。これは昨年の大会で課題となった競技(「プロジェクトBOX」と言うらしい。NHKが絡んでいるからか?)。映画にも昨年の大会に出たロボットがいろいろ出てくる。
主人公の葉沢里美(長澤まさみ)は山口の徳山高専の生徒。冒頭、保健室でぼけーっとベッドに横たわっている姿に象徴されるように、高専生活で何も目的がない。里見はロボット作りの課題でも手抜きをして担任教師(鈴木一真)から1カ月の居残り授業かロボット部への入部かを迫られる。入部させられたのは第2ロボット部。部員の多い第1ロボット部と違って、部員は部長の四谷(伊藤淳史)と設計担当の航一(小栗旬)、組み立て担当でほとんど幽霊部員の竹内(塚本高史)の3人だけである。練習試合では第1ロボット部にあえなく敗れ、馬鹿にされる始末。中国地区大会でも初戦敗退するが、ロボットのユニークさを評価されて全国大会に出場することになる。4人は旅館で働きながら合宿してロボットを改良。里美は俄然やる気を出し、他の3人も大会に向けて一丸となる。
部員たちのキャラクターを徐々に鮮明にしていく演出は確かなもので、やる気がなかったり、内気だったり、いい加減だったり、ニヒルだったりしていた生徒たちが、競技を通じて変化していく姿を自然に見せる。4人の好演と相俟って、気持ちのいい展開である。特に木訥な感じをうまく表現した伊藤淳史に感心した。長澤まさみは笑顔が良く、合宿に行く途中のトラックの荷台で「夢先案内人」を歌うシーンや、4人でラーメンをすすりながら「ずっときょうが続けばいいのにね」とポツリと言うシーンなど良い感じである(そこを特に強調しない演出もいい)。役者ではこのほか、「ピンポン」でも独特のセリフ回しで笑わせた荒川良々(よしよし)が第1ロボット部の部長の役でまたまたおかしい。
生徒たちをデフォルメしてコメディに徹した「ウォーターボーイズ」も僕は好きだが、古厩監督の淡々とした演出も悪くないと思う。ただ、淡々とした分、メリハリに欠ける面はあるし、1時間58分の上映時間も少し長い気がする。1時間40分程度にまとめると、もっと締まっただろう。
2003/09/15(月)「閉ざされた森」
「ダイ・ハード」のジョン・マクティアナン監督のミステリ。パンフレットでミステリ作家の有栖川有栖と貫井徳郎が「『翻弄される快感』に満ちた映画だ」「ここまで見事にだまされた経験はここ数年では憶えがない」と誉めているが、多分にリップサービスではないか。プロット自体は良くできているけれど、中盤、兵士の証言によって真相が“藪の中”に入っていくくだりが今ひとつ面白くなく、真相が明らかになっても「ああ、そうですか」という感じにしかならないのだ。「そうだったのか!」とハタと膝を打つようなシーンはないし、これはミステリのためのミステリ。伏線は細かく張ってあり、いわゆる本格ものに近い感触はあるが、物足りない思いが残る。
脚本は「Darkness Falls」(日本未公開)に続く2作目のジェームズ・ヴァンダービルトのオリジナルらしい。ハリケーンの中、パナマの米軍基地から訓練に出たレンジャー隊のウエスト軍曹(サミュエル・L・ジャクソン)以下7人がジャングルの中で行方不明になる。救出に向かったヘリの目の前で隊員同士の銃撃戦があり、1人は死亡。救助された2人のうちケンドルは重傷を負い、ダンバーはジャングルで何が起こったか完全黙秘を続けている。捜査に当たったジュリー・オズボーン大尉(コニー・ニールセン)の手には負えないと判断したスタイルズ大佐(ティム・デイリー)は元レンジャー隊員で麻薬取締局捜査官のトム・ハーディ(ジョン・トラボルタ)に捜査を依頼する。ハーディには捜査に絡む収賄容疑がかかっており、ジュリーには信用できないのだが、黙秘を続けていたダンバーから見事に供述を引き出す。しかし、続いて供述したケンドルはダンバーとはまったく別の話を真相として語る。
証言者によって話が二転三転するというパターン。事件の背景として同性愛や麻薬や上官への憎しみなどが出てくるが、どれもこれも通り一遍の描写で物語に深くかかわってはこない。真相が明らかになってみると、それは仕方がないかなという気もする。ゲームのような話なのである。頭の中だけで組み立てた話、パズルを組み合わせることだけに心を砕いた話であり、物足りない思いはそこから来ている。「羅生門」のようにヒューマニズムを出せとは言わないけれど、パズラーにプラスαとなるものが欲しいのだ。行方不明の7人の描き分けも今ひとつである。観客に罠を仕掛けるのなら、もう少しうまく仕掛けて欲しい。ヴァンダービルトの脚本はその意味で若書きの感じが拭いきれない。マクティアナンの演出も、どうもミステリの基本をわきまえたものとは言えない。
終盤、タマネギの皮をむくように新たな真相が顔を出す展開は小説で読むと楽しいのだろうが、映画では目まぐるしいだけ。映画の場合、謎だけで引っ張っていくのはなかなか難しいのだなという思いを強くした。
ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンはいつものように好演といって良い。コニー・ニールセンは「ミッション・トゥ・マーズ」「グラディエーター」ではもう少し魅力的だったような気がする。
2003/09/12(金)「ムーンライト・マイル」
心に傷を持つ若い2人の切ないラブストーリーと見てもいいし、娘を失った中年夫婦が失意のどん底から再生する物語と見てもいい。重たいセリフが散りばめられながら、独りよがりにならずに娯楽映画として仕上げることを忘れなかったブラッド・シルバーリングの脚本・演出はとても充実している。キャラクターの彫りの深さは賞賛に値する。ダスティン・ホフマンとスーザン・サランドンがうまいのは当然にしても、主演のジェイク・ギレンホールとメジャー映画デビューとなった女優エレン・ポンペオも非常に魅力的である。脚本と俳優の演技が高いレベルでマッチしており、一部に甘い部分があるにしてもアメリカ映画の良い伝統が息づく良質の作品と思う。
ストーリーはシルバーリング監督の体験に基づく。1989年、シルバーリングの恋人だった新人女優のレベッカ・シェーファーはストーカーによって銃で殺されたのだ。映画は1973年のマサチューセッツ州のある町を舞台にしており、ベン・フロス(ダスティン・ホフマン)とジョージョー(スーザン・サランドン)の一人娘ダイアンがコーヒーショップで流れ弾に当たって死ぬという設定である。
ダイアンの婚約者だったジョー(ジェイク・ギレンホール)は葬儀後、ベンの精神分析医から失意の2人を励ますためにしばらく一緒に暮らすよう頼まれる。ジョーにはある秘密があって気が進まないのだが、ベンもジョージョーも哀しみをまぎらすためにジョーを必要としていた。ジョーはベンの不動産の仕事を手伝うようになる。ある日、結婚式の招待状を回収するために町の郵便局に行ったジョーは局で働くバーティー(エレン・ポンペオ)と出会う。偶然にもバーティーはベンが地上げを計画する商店街で「キャルの店」という酒場を手伝っていた。
中盤、ジョーがバーティーに秘密を打ち明けるシーンが胸を打つ(アメリカの予告編はこの秘密を伏せているのに日本の予告編は平然とネタを割っている。これはいかがなものか)。バーティーは自分を偽って生きていくジョーの弱さをなじるが、お互いに苦悩を抱える2人は急速に接近していく。ベンとジョージョーの夫婦関係も陰影に富んだもので、悲しんでいるばかりではなく、他人から安易な同情を受けることも拒否している。親子の関係、夫婦関係、恋人同士の関係を深い視点で描いてあり、シルバーリング監督、題材を長年温めてきただけのことはある。ダイアンを撃った犯人の裁判で自分の本当の思いを訴えるジョーの姿は何だかジェームズ・スチュワートを彷彿させた。
ホフマンとサランドンに比べて、同じオスカー女優でも弁護士役のホリー・ハンターはやや演技のし甲斐がない役柄で損をしている。エレン・ポンペオはこの映画の後、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」と「デアデビル」にも出ているそうだが、どの役だったのかまるで印象がない。ボストン出身で年齢は不詳だが、今後に注目したい。
2003/09/12(金)「座頭市」
ストーリー上は何の意味も持たない雨の中の斬り合いの回想シーンを入れたことを見ても、北野武の今回の狙いが斬新な殺陣にあったことは間違いないだろう。ポンプで血を噴き出させ、CGを加えたこの血しぶきの描写は北野武が参考にしたという黒沢明「椿三十郎」の三船敏郎と仲代達矢の決闘よりも、サム・ペキンパーの一連のアクション映画の血しぶきを思わせた。特に「戦争のはらわた」あたりのスローモーションを使った血しぶき。血がフワッと出てくる感じなのである(CGを使った血しぶきで困るのは斬った座頭市が返り血を浴びないことか)。切り傷にもCGを使ってあり、リアルである。この残酷な描写は例えば、「BROTHER」などの拳銃を使った残虐描写に似ており、いつもながらの北野武のアクション映画だなと思う。
ただ、今回少し違うのは演出が大きくエンタテインメントに振ってあることで、ガダルカナル・タカが3人の若者に剣術を教える場面でタイミングが狂って逆にボッコボコに殴られたり、ヤクザが刀を抜く際に仲間の腕を過って斬ってしまったりのユーモラスなシーンが多いし、ラストの下駄の集団タップダンス(ここにもCGがある)も観客サービスという感じである(その割にはこのタップダンス、あまり効果を挙げていない)。ユーモアと残虐がほど良い感じでブレンドされており、エンタテインメント性が高まったのはそのためだろう。
ストーリーはいつものように簡単なプロットと言うべきで、ある宿場町に来た座頭市と浪人夫婦(浅野忠信、夏川結衣)、盗賊に両親を殺され復讐に燃える姉弟(大家由祐子、橘大五郎)と町を取り仕切るヤクザが絡むが、ヒネリはほとんどない。オーソドックスな時代劇のエピソードを流用している。ストーリーよりも描写で見せるのは北野武映画の持ち味だけれど、エモーションが高まってこないので、中盤少しダレる要因にもなっている。描写でこれだけ見せる力がありながら、脚本に凝らないのは惜しいと思う。
勝新太郎版の「座頭市」をリアルタイムで見たのは89年の「座頭市」だけである。このあまり良い出来とは言えない映画の中で感心したのは勝新太郎の殺陣の凄さだった。クライマックス、ダイナミックに延々と続く殺陣だけがあの映画の大きな価値だった。北野武版「座頭市」も殺陣を中心に置いているのは先に書いた通り。ビートたけしに限らず、浅野忠信の速い殺陣も見事なもので、撮影前にかなり訓練を積んだことをうかがわせる。この2人の対決シーンはそれこそ「椿三十郎」のように一瞬で片が付く。残念なのは浅野忠信の役柄が完全な悪役ではなく、悲劇性を帯びていること。どうせなら病気の妻など持たせず、単なる金で動く凄腕の用心棒にした方がすっきりしたと思う。
パンフレットの表紙は「座頭市」の文字が見えにくいなと思ったら、ここには夜光塗料が使ってあり、暗い所では文字が浮かび上がる。なかなか粋な仕掛けではある。
2003/09/03(水)「ドラゴンヘッド」
ドラゴンヘッド=龍頭(りゅうず)。人間の欲求・本能・自律神経などを司る海馬体を切除された人間。恐怖をなくすためにこの手術を受ける。
ということは映画の中では詳しく説明されない。だいたい龍頭もドラゴンヘッドも単語としては出てこない。主人公のテル(妻夫木聡)とアコ(SAYAKA)が廃墟で出会う幼い兄弟がこの手術を受けていた。医師の母親によって手術されたこの兄弟は母親が死んでも涙一つ流さない。
破滅後の世界を描くこの映画で、終盤、立ち上がってくるのは、感情をなくしてでも人は生きたいかというテーマだ。ようやくたどり着いた東京の地下で、テルは非常用保存食とされる缶詰を食べる人々の姿を見る。缶詰のラベルには(試)と記されており、これを食べることで感情がなくなってしまうのだ。「これうまいぞ、ほら」と缶詰を投げる根津甚八の姿は「マタンゴ」を思わせた。言うまでもなく、「マタンゴ」は島に流れ着いた男女のグループがキノコを食べることで化け物になってしまうというホラー映画。飢えには耐えられず、グループは一人また一人とマタンゴ化していく。僕と同年代の飯田譲治監督はこの映画を見ているはずで、人が人でなくなっていく恐怖が脳裏に深くインプリンティングされているはずである。感情をなくすことは化け物になること、そして死ぬことと同義なのだ。
望月峯太郎の原作コミックを映画化したこの作品、この部分だけが良く分かった。世界はなぜ破滅したのか、詳しい説明はない。地殻の変動で地磁気が狂い、それが地球に多大な変化をもたらしたとの仮説が提起されるだけである。修学旅行の新幹線の中でテルが目を覚ますと、列車はトンネルに閉じこめられ、クラスメートはほとんど死んでいた。何が起こったのか。テルと同じく生き残ったノブオは狂気すれすれの状態で、もう一人のアコは足にけがをしながらも正気を保っていた。冒頭、延々と続くこのトンネル内の描写が極めて手際が悪い。ようやくここを出たと思ったら、外も息が詰まるような状態。空は雲に覆われ、白い灰が絶え間なく降っている。映画は最後までこの陰々滅々とした雰囲気に終始する。
いくら破滅した世界だからといっても、これはあんまりで、破滅前の世界の描写を色鮮やかにインサートするとかの工夫が欲しかったところだ。生き残った人々の多くが精神に異常を来しているという描写も類型的(これは磁場の乱れが影響しているらしいが、それにしてもである)。飯田監督、どこかで計算が狂ったのではないか。